【完結】王太子が「恋がしたい」と言い出したので、公爵令嬢は捨て身の復讐を始めます──みなさままとめて地獄へどうぞ

恋せよ恋

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静かなる攻防

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 白い粉の一件から、三日後。

 ヴェルデン公爵家では表向き、警備体制がさらに強化された――ように見えた。だが、実際には、護衛の配置がわずかに“緩められている”区画が生まれていた。

 ――意図的に。

(来るなら、今日か明日)

 アナスタシアは、その違和感を隠すように、いつもより慎ましやかな装いで慰問先の孤児院の廊下を歩いていた。

 目的は、小礼拝堂。人通りが少なく、死角が多い――“偶然の事故”が起きやすい場所だ。

「……大丈夫ですわ。ここまでで結構」

 護衛にそう告げ、あえて距離を取らせる。その背中は、誰が見ても“守られることに慣れていない令嬢”そのものだった。

(さあ、見せてあげますわ――“怯えて、警戒を緩めたアナスタシア”を)

⸻小礼拝堂の回廊を曲がった瞬間。

「――失礼」

 ぶつかるようにして、男が一人、彼女の進路を塞いだ平民風の服装。顔は伏せられ、名乗りはしない。

 次の瞬間、足元が――滑った。

「きゃっ……!」

 床に撒かれていたのは、透明な油。完全に計算された量と位置。アナスタシアの身体が傾き、視界が揺れる。

(…… さあ、あなたは、どうする?)

 倒れかけた瞬間、腕を掴まれる。

「お怪我は――!?」

 男の声が、途中で止まった。

 アナスタシアは、“掴まれた手首を返すように固定し”、低く囁いた。

「捕まえたわよ、ふふふ」

 次の瞬間――

「今だ!!」

 空気が裂ける。

 回廊の両端から、黒い影が飛び出した。サミュエル直属の護衛騎士たち。

 さらに上階から――

「動くな!」

 抜剣の音。完全包囲。男は咄嗟に距離を取ろうとするが、すでに遅い。

 背後から、静かな声。

「――予想通りだったな」

 現れたのは、ヴェルデン公爵家当主、サミュエルだった。

「“偶然の事故”を装い、接触を試みる。次は毒か、怪我を負わせるつもりだったか?」

 男は歯噛みし、何も答えない。

 サミュエルは冷ややかに告げた。

「後で“じっくり”話してもらうとしよう」

 アナスタシアは、乱れたスカートを整え、静かに立ち上がった。

「“怖がらせれば引く”と思われたのなら、心外ですわ」

 男を見下ろす視線は、氷のように冷たい。

「わたくしを脅して動かせる“駒”だと見なしたのなら、認識が甘いですわ」

 サミュエルが、短く命じる。

「連れて行け」

 騎士たちが男を拘束し、連行する。

 その背中を見送りながら、アナスタシアは静かに息を吐いた。

◇◇◇

 カークランド公爵邸の執務室では、ランプの灯りが低く揺れていた。

 机の前に立つのは、黒衣の男。額に冷や汗を浮かべ、深く頭を下げている。

「……申し訳ございません。接触は――失敗しました」

 息苦しい沈黙の後、クラーク・カークランド公爵は、ゆっくりと書類から視線を上げた。怒鳴り声はない。机を叩くこともない。ただ、静かに――冷えきった目で男を見た。

「そうか」

 それだけ。

 男は、逆にそれが怖かった。

「……令嬢が想定以上で……罠に――」

「言い訳は不要だ」

 クラークは、指先でグラスを軽く弾いた。水面が、わずかに揺れる。

「君には、“少し脅かせ”と言ったはずだ。派手に動くな、とも」

「……はい」

「だが、結果は?」

 淡々と問いかける。

「相手に――手札を一枚、与えただけだ」

 男の喉が鳴った。

「……それで、次の命令は……」

 クラークは、薄く微笑んだ。

 それは、期待した“再挑戦”の合図ではなかった。

「ない」

「……え?」

「君の役目は、終わりだ」

 あまりに静かな宣告に、男が顔を上げる。

「お、お待ちください! まだ――まだやれます! 次はもっと慎重に――」

「不要だ」

 クラークは、椅子から立ち上がり、男に背を向けた。

「失敗した駒は、拾わない主義でね。連れて行け」 

 短い命令。男は抵抗する暇もなく、引きずられていく。扉が閉まったあと、執務室には再び静寂が戻った。

 クラークは、何事もなかったかのようにグラスを手に取る。

「……面倒だな」

 ぽつりと呟く。

「だが――構わん」

 次の駒は、もっと“使い捨てがきく”ものを選べばいい。

 ランプの灯りに照らされたその横顔には、人を駒としか見ない男の、冷ややかな確信が浮かんでいた。

 ――脅しが効かないなら、次は“事故”だ。そう考えながら。

「……脅しは効かない、か」

 独り言のように呟き、ペン先で羊皮紙をなぞる。

 相手はアナスタシア・ヴェルデン。感情で動かず、恐怖にも屈しない。護衛が増えたことすら、“利用できる”と見抜いている女。

「なら――“恐怖”では足りんな」

 クラークは、静かに笑った。

「人は、“不運”には逆らえない」

 彼は、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。そこには、王宮行事の予定、外出経路、馬車の手配、同行者の名が、細かく書き込まれている。

 ――事故は、計画しない。起きやすい場所を、選ぶだけだ。

「足元が悪い日」
「人が多く、視線が散る場所」
「護衛が多すぎて、逆に動きが鈍る状況」

 ペン先が止まる。

「……階段」
「……馬車」
「……落馬」

 どれも、“ありがちな不幸”だ。

「死なせる必要はない」

 むしろ、死なせてはならない。

「少しだけ……運が悪かったと思わせればいい」

 怪我。取り返しはつかないが、命までは奪わない程度の。それだけで、周囲は騒ぐ。守る側は萎縮し、責任を恐れ、動きが鈍る。

 ――そして。

「本人が、“外へ出ること”を選ばなくなる」

 クラークは、満足そうに息を吐いた。

「事故はな、誰のせいにもならない」

 命令も、契約もいらない。必要なのは、ほんの少しの“手助け”だけ。

「次は……直接触れるな」

 誰にともなく、そう告げる。

「風向きを、少し変えればいい」

 ランプの灯りが揺れ、影が壁に歪んだ。

 その影は、まるで――人の運命を、指先で転がす者のようだった。

 ――そして翌週、王宮では「不運な出来事」が起きる予定になっている。

 誰も、それを“事件”とは呼ばない。呼ぶとすれば、こうだ。

 ただの不運な事故。

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