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悪意の事故
しおりを挟む午後の光が、王宮の回廊に柔らかく差し込んでいた。学生代表として王宮行事に参列するため礼拝堂へ向かう途中、白い石畳の先には、小さなテラスがある。普段なら何の変哲もない、静かな通路だ。
「こちらです、アナスタシア様」
護衛の声に、彼女は軽く頷いた。
その一歩目だった。
――す、と。
足裏が、ほんの一瞬、意思を失う。
「……っ」
音もなく、視界が傾いた。
石畳の一部が、わずかに欠けていた。昨夜の雨で湿った苔が、その上に薄く広がっている。
気づいた時には遅かった。
「アナスタシア様!」
叫び声。腕を引かれる感触。だが、体勢はもう崩れている。
重心が、テラスの外へと引きずられる。
――落ちる。
そう思った瞬間、強く抱き留められた。護衛の腕が彼女を庇い、二人まとめて石床に転がる。
鈍い音。息が詰まる。視界が白く弾け、次に来たのは――痛みだった。
「……っ、ぁ……」
右足首の嫌な感触が、はっきりと伝わってくる。
「動かないでください!」
「医官を呼べ!早く!」
周囲が一気に騒然とする。誰かが駆け出し、誰かが膝をつく。
アナスタシアは、仰向けのまま天井を見つめていた。
(……なるほどね)
痛みの奥で、冷静な思考が働く。
(今度は――“事故”なのね)
欠けた石。濡れた床。誰かが細工した証拠は、どこにも残らない。
護衛がいたから、命は助かった。だが――
(しばらく、歩けない)
それだけで十分だった。
医官が到着し、担架が運ばれる。人垣の向こうで、誰かが「管理不備だ」と声を荒げていた。
その混乱の中で、アナスタシアは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
(……次は、もっと露骨に来るでしょうね)
◇◇◇
クラーク側の一瞬の満足
同じ頃。カークランド公爵邸の書斎では、静かな報告が届けられていた。
「王宮のテラスにて転倒。命に別状はなし。ただし――足を負傷。しばらく公の場には出られぬかと」
クラーク公爵は、ゆっくりと目を細めた。
「そうか」
それだけ言って、紅茶に口をつける。ほんの一瞬。口元が、わずかに緩んだ。
「上出来だ」
殺していない。触れてもいない。それでいて、確実に“外へ出る理由”を奪った。
「事故は、雄弁だな」
椅子にもたれ、静かに息を吐く。
「守る側は疑心暗鬼に陥る。本人は、恐怖を覚える。――これでいい」
窓の外で、風が木々を揺らした。
「……次は、様子を見る」
それだけ言って、クラークは報告書を閉じた。
彼はまだ知らない。
この“事故”が、アナスタシアの心に芽生えたのが、恐怖ではなく、覚悟だったことを。
◇◇◇
王宮医務室は、静まり返っていた。
白い天蓋越しに差し込む光の中で、アナスタシアはゆっくりと瞬きをした。右足首は厚く包帯で固定され、動かすたびに鈍い痛みが走る。
「……骨に異常はありません。ただ、靱帯を痛めています。無理をすれば、長引くでしょう」
医官の言葉に、彼女は静かに頷いた。
「外出は、しばらく控えたほうがいいでしょう。最低でも――数週間」
それを聞いて、アナスタシアは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
(敵の狙い通り、ね)
だが、次の瞬間には、はっきりとした声で答えていた。
「承知しました。ただし――完全に籠るつもりはありません」
医官が、わずかに目を見開く。
「孤児院の視察まで止める理由は、ありませんもの」
そこへ、扉が勢いよく開いた。
「アナスタシア!」
サミュエルだった。普段は冷静な兄の顔に、露わな怒りが浮かんでいる。
「“事故”だと?」
彼は、医官から説明を受けると、拳を強く握りしめた。
「……管理不備? 笑わせるな」
護衛の一人が、深く頭を下げる。
「申し訳ありません。配置に不備が――」
「君たちを責めてはいない」
サミュエルは、低い声で遮った。
「これは、“狙われた結果”だ」
そして、妹の方を見る。
「怖かったか?」
優しく気遣う兄の声に、アナスタシアは、少し考えてから答えた。
「いいえ」
きっぱりと。
「怖がらせようとしただけですもの。――成功したと思われたくありませんの」
その言葉に、サミュエルは息を呑んだ。
「……覚悟は、できているんだな」
「はい。退けば、次はもっと酷くなります」
視線が合う。兄妹は、同じ結論に辿り着いていた。
「護衛を、倍に増やす」
「ええ。でも――見せ方は変えてください」
アナスタシアは、ゆっくりと上体を起こす。
「“守られている令嬢”ではなく、“動けないから周囲が過剰に集まっている”ように」
「……誘う気か」
「ええ。事故を選ぶ人間は、“偶然”を信じていますから」
その頃。
カークランド公爵邸では、二通目の報告が届いていた。
「……外出を控える、か」
クラークは、顎に手を当てた。
「恐怖は、根付いたな」
だが、報告の続きを聞いた瞬間――彼の指が、わずかに止まる。
「……孤児院などへの視察は、継続?」
「はい。面会も、限定的ながら受けているとのことです」
「ほう」
クラークは、ゆっくりと笑った。
「強がりだ。無理をすれば、いずれ――」
言葉を切る。
なぜか、胸の奥に、微かな違和感が残った。
(……本当に、怯えている女の動きか?)
だが、その感覚を振り払うように、彼は言った。
「次も、事故でいい」
より自然に。より誰にも疑われぬ形で。
「“運が悪い女”という印象を、確実に定着させろ」
クラークは、まだ知らない。彼が信じている“偶然”こそが、すでに――狙われ返されているということを。
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