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何も知らない婚約準備
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アナスタシアが、正式にシリル王太子の婚約者として発表された――その裏で。
グローリー公爵家に、王家より一通の書簡が届いた。内容は、コーデリア公爵令嬢の今後について、相談したいというものだった。
コーデリアは十五歳。学園ではシリルのひとつ下にあたり、来年の生徒会では、シリルとともに役員を務めることが半ば既定路線となっている。彼女は、幼い頃より、第二王子シリルの婚約者となるため、努力を重ねてきた。
それは、単にグローリー公爵家のためだけではない。そこには、コーデリア自身の、確かな恋心があった。
シリルと初めて出会ったのは、第二王子の婚約者を選定するためのお茶会だった。――金色の髪に、澄んだ青い瞳の王子様。
その姿を見た瞬間、コーデリアは恋に落ちた。それが、彼女にとっての初恋だった。
それからの日々は、すべてその恋の延長にあった。王子妃になるための努力は、誰かに強いられたものではない。自分自身が選び、自分の想いのために重ねてきたものだ。だから、シリル王子の婚約者になるための努力は、決して苦ではなかった。
グローリー公爵令嬢という立場もあり、コーデリアは最有力候補と噂されてきた。
それが――ある日を境に、すべてが変わった。
まさか、エドワード殿下が廃太子され、さらに廃嫡されるなど、誰が想像できただろうか。
そして、その婚約者であったアナスタシア・ヴェルデン公爵令嬢が、シリル王太子の婚約者候補として名を連ねるなど、あまりにも予想外だった。
なにより、胸を締めつけたのは――恋慕うシリル王太子が、アナスタシア様を選んだという事実。
シリル王太子が、はっきりとアナスタシア様の名を宣言した、あの瞬間。コーデリアの初恋は、静かに終わりを告げたーーーはずだった。
(それでも……)
(シリル王太子をお慕いする、この想いは、消せないわ)
(だって――好きなんですもの)
コーデリアの今後について――その申し出は、あまりにも静かで、あまりにも残酷なものだった。
王家は、アナスタシア・ヴェルデン公爵令嬢を、シリル王太子の正式な婚約者として発表した。婚姻は、シリル王太子の卒業を待ち、一年後と定められる。
問題とされたのは、コーデリア公爵令嬢の処遇である。
アナスタシアが、必ずしも子に恵まれるとは限らない。廃嫡されたエドワード殿下については、今後二年以内に顕著な功績が認められた場合に限り、王家領「ハンブルク公爵位」への叙任が検討されるが、それが叶わねば男爵位のまま終わる。
王家の正統な後継は、シリル殿下ただ一人。血を絶やさぬこと――それは、感情や倫理よりも優先される、王家の絶対命題だった。
そこで生まれたのが、コーデリアの「役割」である。
シリル殿下より一年遅れて卒業するコーデリアは、まだ若い。その時点で、アナスタシア公爵令嬢は二十歳。もし、そこまでに後継が授からなかった場合――コーデリアを、側妃として迎え入れる。
それが、王家の下した結論だった。
しかも、その条件は冷徹だった。子の有無にかかわらず、である。
公爵令嬢を、婚約も定めぬまま宙に浮かせることはできない。だが、正妃の座はすでに決まっている。ならば与えるべきは、血統維持のための「安全装置」――それが、側妃という立場だった。
愛ではない。
選択でもない。
必要だから、そこに置かれる。
コーデリアは、その意味を正しく理解していた。
側妃という立場に、抵抗がなかったわけではない。アナスタシア様を深く想うシリル王太子の視線が、自分に向けられることはないと――それでも、わかっていた。
それでも、心は、愚かにも願ってしまう。
ほんのわずかでもいい、自分にも、あの方の優しさが向く日が来るのではないかと。
政略であっても構わない。
役割であっても受け入れる。
それでも、恋慕う人の傍にいられるなら――それは、幸福と呼べるのではないか。
それが、公爵家に生まれた令嬢としての覚悟であり、同時に、捨てきれぬ乙女心だった。
なお、この申し出は、アナスタシアならびにヴェルデン公爵家には伏せられていた。
王家にとって、それは「知らせる必要のない決定」だったからだ。
シリル王太子もまた、「王家のため」と諭され、「子が生まれれば問題は起こらないはずだ」という言葉を、深く考えることなく受け入れた。
その判断が、誰の心を削ることになるのか――その時点で、王家は、もはや顧みていなかった。
◇◇◇
アナスタシアは、王宮の一室で、婚約式に向けた打ち合わせを受けていた。
ドレスの色味、刺繍に用いる宝石の配置、王家紋章の扱い。すべてが、丁寧で、誠実で、何ひとつ不足のない扱いだった。
「こちらが、王太子妃殿下用として準備される宝飾品の案です」
差し出されたデザイン画を、アナスタシアは静かに眺める。豪華なそれは、信頼の証でもあり、同時に、王家が自分に寄せる期待の重さでもあった。
数日後、シリルとともに、婚約式の簡易な進行確認を行った。
「式は形式的なものになるけれど、君に無理をさせるつもりはない」
「ありがとうございます。……シリル殿下は、お忙しそうですわね」
「少しね。でも、君との婚約が決まってから、不思議と気持ちは軽い」
その言葉に、アナスタシアは微笑み返す。
(……この方は、誠実だわ)
「ねえ、アナスタシア」
ふと、シリルが声を落とした。
「君は……この婚約に、不安はない?」
一瞬だけ、胸がざわついた。
だが、アナスタシアは首を横に振る。
「いいえ。王家も、シリル殿下も、誠意を尽くしてくださっていますもの」
それは、本心だった。自分が“正妃”として迎えられていることを、疑う理由は、何もない。
「それなら、よかった」
シリルは、安堵したように微笑んだ。
その微笑みが、本物であることも、アナスタシアにはわかる。
(……なら、わたくしも、もう一度、信じてみましょう)
裏切られた過去があっても。傷が完全に癒えていなくても。未来を恐れて、何も選ばないよりは、信じて歩くほうが、ずっと前向きだと思えた。
その日の夜。公爵邸に戻ったアナスタシアは、婚約式用のドレス案を机に広げ、静かに息を吐いた。
「……白金色、か」
以前の婚約式では、純白だった。今回は、より落ち着いた色合い。
(“新しい人生”というより、“王家の正妃”としての色、なのね)
鏡に映る自分を見つめながら、アナスタシアは小さく笑った。
「大丈夫。今度こそ……大丈夫よ」
誰に言うでもなく、自分自身に言い聞かせるように。
彼女は、まだ知らない。
同じ王宮のどこかで、自分の未来を補完する存在として、もう一人の令嬢の人生が、静かに組み込まれていることを。
________________
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グローリー公爵家に、王家より一通の書簡が届いた。内容は、コーデリア公爵令嬢の今後について、相談したいというものだった。
コーデリアは十五歳。学園ではシリルのひとつ下にあたり、来年の生徒会では、シリルとともに役員を務めることが半ば既定路線となっている。彼女は、幼い頃より、第二王子シリルの婚約者となるため、努力を重ねてきた。
それは、単にグローリー公爵家のためだけではない。そこには、コーデリア自身の、確かな恋心があった。
シリルと初めて出会ったのは、第二王子の婚約者を選定するためのお茶会だった。――金色の髪に、澄んだ青い瞳の王子様。
その姿を見た瞬間、コーデリアは恋に落ちた。それが、彼女にとっての初恋だった。
それからの日々は、すべてその恋の延長にあった。王子妃になるための努力は、誰かに強いられたものではない。自分自身が選び、自分の想いのために重ねてきたものだ。だから、シリル王子の婚約者になるための努力は、決して苦ではなかった。
グローリー公爵令嬢という立場もあり、コーデリアは最有力候補と噂されてきた。
それが――ある日を境に、すべてが変わった。
まさか、エドワード殿下が廃太子され、さらに廃嫡されるなど、誰が想像できただろうか。
そして、その婚約者であったアナスタシア・ヴェルデン公爵令嬢が、シリル王太子の婚約者候補として名を連ねるなど、あまりにも予想外だった。
なにより、胸を締めつけたのは――恋慕うシリル王太子が、アナスタシア様を選んだという事実。
シリル王太子が、はっきりとアナスタシア様の名を宣言した、あの瞬間。コーデリアの初恋は、静かに終わりを告げたーーーはずだった。
(それでも……)
(シリル王太子をお慕いする、この想いは、消せないわ)
(だって――好きなんですもの)
コーデリアの今後について――その申し出は、あまりにも静かで、あまりにも残酷なものだった。
王家は、アナスタシア・ヴェルデン公爵令嬢を、シリル王太子の正式な婚約者として発表した。婚姻は、シリル王太子の卒業を待ち、一年後と定められる。
問題とされたのは、コーデリア公爵令嬢の処遇である。
アナスタシアが、必ずしも子に恵まれるとは限らない。廃嫡されたエドワード殿下については、今後二年以内に顕著な功績が認められた場合に限り、王家領「ハンブルク公爵位」への叙任が検討されるが、それが叶わねば男爵位のまま終わる。
王家の正統な後継は、シリル殿下ただ一人。血を絶やさぬこと――それは、感情や倫理よりも優先される、王家の絶対命題だった。
そこで生まれたのが、コーデリアの「役割」である。
シリル殿下より一年遅れて卒業するコーデリアは、まだ若い。その時点で、アナスタシア公爵令嬢は二十歳。もし、そこまでに後継が授からなかった場合――コーデリアを、側妃として迎え入れる。
それが、王家の下した結論だった。
しかも、その条件は冷徹だった。子の有無にかかわらず、である。
公爵令嬢を、婚約も定めぬまま宙に浮かせることはできない。だが、正妃の座はすでに決まっている。ならば与えるべきは、血統維持のための「安全装置」――それが、側妃という立場だった。
愛ではない。
選択でもない。
必要だから、そこに置かれる。
コーデリアは、その意味を正しく理解していた。
側妃という立場に、抵抗がなかったわけではない。アナスタシア様を深く想うシリル王太子の視線が、自分に向けられることはないと――それでも、わかっていた。
それでも、心は、愚かにも願ってしまう。
ほんのわずかでもいい、自分にも、あの方の優しさが向く日が来るのではないかと。
政略であっても構わない。
役割であっても受け入れる。
それでも、恋慕う人の傍にいられるなら――それは、幸福と呼べるのではないか。
それが、公爵家に生まれた令嬢としての覚悟であり、同時に、捨てきれぬ乙女心だった。
なお、この申し出は、アナスタシアならびにヴェルデン公爵家には伏せられていた。
王家にとって、それは「知らせる必要のない決定」だったからだ。
シリル王太子もまた、「王家のため」と諭され、「子が生まれれば問題は起こらないはずだ」という言葉を、深く考えることなく受け入れた。
その判断が、誰の心を削ることになるのか――その時点で、王家は、もはや顧みていなかった。
◇◇◇
アナスタシアは、王宮の一室で、婚約式に向けた打ち合わせを受けていた。
ドレスの色味、刺繍に用いる宝石の配置、王家紋章の扱い。すべてが、丁寧で、誠実で、何ひとつ不足のない扱いだった。
「こちらが、王太子妃殿下用として準備される宝飾品の案です」
差し出されたデザイン画を、アナスタシアは静かに眺める。豪華なそれは、信頼の証でもあり、同時に、王家が自分に寄せる期待の重さでもあった。
数日後、シリルとともに、婚約式の簡易な進行確認を行った。
「式は形式的なものになるけれど、君に無理をさせるつもりはない」
「ありがとうございます。……シリル殿下は、お忙しそうですわね」
「少しね。でも、君との婚約が決まってから、不思議と気持ちは軽い」
その言葉に、アナスタシアは微笑み返す。
(……この方は、誠実だわ)
「ねえ、アナスタシア」
ふと、シリルが声を落とした。
「君は……この婚約に、不安はない?」
一瞬だけ、胸がざわついた。
だが、アナスタシアは首を横に振る。
「いいえ。王家も、シリル殿下も、誠意を尽くしてくださっていますもの」
それは、本心だった。自分が“正妃”として迎えられていることを、疑う理由は、何もない。
「それなら、よかった」
シリルは、安堵したように微笑んだ。
その微笑みが、本物であることも、アナスタシアにはわかる。
(……なら、わたくしも、もう一度、信じてみましょう)
裏切られた過去があっても。傷が完全に癒えていなくても。未来を恐れて、何も選ばないよりは、信じて歩くほうが、ずっと前向きだと思えた。
その日の夜。公爵邸に戻ったアナスタシアは、婚約式用のドレス案を机に広げ、静かに息を吐いた。
「……白金色、か」
以前の婚約式では、純白だった。今回は、より落ち着いた色合い。
(“新しい人生”というより、“王家の正妃”としての色、なのね)
鏡に映る自分を見つめながら、アナスタシアは小さく笑った。
「大丈夫。今度こそ……大丈夫よ」
誰に言うでもなく、自分自身に言い聞かせるように。
彼女は、まだ知らない。
同じ王宮のどこかで、自分の未来を補完する存在として、もう一人の令嬢の人生が、静かに組み込まれていることを。
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