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甘い新婚生活に差した暗雲
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「パトリシア、子供はまだなの? 結婚してもう三年よ。リッチモンド伯爵家の跡取りを待ちわびているのは私だけではないのですよ」
義母イザベルの言葉は、まるで真綿で首を絞めるような静かな圧力を持って、今日も食堂に響いた。
パトリシア・リッチモンドは、手にした銀のスプーンをわずかに震わせた。彼女はロイド侯爵家の次女として生まれ、美貌の才女と謳われながらも、十三歳で婚約したニールとの愛を貫いて学園の卒業を待って、十八歳で結婚した。
周囲から見ても仲の良い婚約者同士だった二人は、幸せな新婚生活を送っていた。
確かに夫ニールを愛している。けれど、この義母からの問いかけだけは、どうしても慣れることができなかった。
「母上、あまりパトリシアを責めないでください。僕たちもまだ若いし、健康です。そのうち授かりますよ。母上が僕を授かったのだって、結婚三年目だったのでしょう?」
夫のニール・リッチモンドは、茶色の髪に優しげなヘーゼルの瞳を揺らし、困ったように笑ってパトリシアの手を握りしめた。その温もりにパトリシアは安堵する。
成績優秀で、外務大臣補佐官を務める父ギルバートを支える誠実な夫。そんな彼と過ごす時間は、パトリシアにとって何よりの宝物だった。
しかし、義母イザベルの視線は鋭い。彼女はパトリシアの母、タチアナ侯爵夫人に対して、学園時代から並々ならぬ劣等感と嫉妬を抱いていた。金髪に翠の瞳を持つ「淑女の鏡」タチアナ。その娘であるパトリシアが、自分と同じ茶色の髪の息子と結婚したことは、イザベルにとってある種の勝利であったはずだが、若さと美しさを保ち、夫に愛されるパトリシアを見ていると、かつての惨めな記憶が蘇るのだ。
「……そうね。でも…… ニール、あなたは幼い頃に大病を患ったでしょう? 半年も寝込んで……もしかしたら、その時の影響があるのではないかと、私は心配なのよ」
イザベルの言葉に、ニールの顔がわずかに強張った。
自分のせいで、愛するパトリシアに子が授からないのではないか。その漠然とした不安は、母に突きつけられるたびに、ニールの心に小さな棘となって刺さるようになっていた。
数日後。ニールは憂鬱な気分を晴らすため、友人のバーナードと共に紳士クラブの片隅でグラスを傾けていた。
「……そんなに悩むなよ、ニール。子供なんて授かりものだろう」
バーナードの慰めも、今のニールには虚しく響く。
「でも、もし本当に僕に問題があったら? パトリシアに申し訳なくて……。彼女は侯爵家の才女だ。僕にはもったいないくらいの妻なのに」
その時だった。
隣のボックス席から、恰幅の良い紳士がふわりと立ち上がり、ニールたちの席に歩み寄ってきた。
「お若い方、お悩みのようですな。少し耳を貸していただけませんか?」
不審がるバーナードを余所に、紳士はニールの耳元で囁いた。
「子が欲しいが授からない、訳ありの若い女性と『お遊び』をしてみる気はありませんか? もしも子が授かっても、その子は相手側が引き取る。向こうも伴侶に問題があって、どうしても子が欲しいという事情がある。……君にとっては、自分に生殖能力があることが証明されて安心できる。悪い話ではないでしょう?」
ニールの心臓がドクンと跳ねた。
「そんなっ、不貞など……!」
「おやおや、不貞だなんて。これはあくまで『確認』ですよ。子ができなければ、相手を変えて試せばいい。もしも、子が授かれば、ご自身に問題がないと確信して、奥様とも心置きなく励めるというものです」
悪魔の囁きだった。
隣でバーナードが「よせ、ニール! 碌な話じゃない!」と止める声も、今の彼には遠く聞こえた。
もし、自分に生殖能力があると分かれば、母上の小言も止まるだろうか。パトリシアを不安にさせずに済むだろうか。
――あまりにも安易で、愚かな誘惑。
一週間後、指定された待ち合わせ場所に現れたのは、男爵夫人ソフィア・ナザレだった。学園時代の同期だと告げられるまで、ニールの記憶のどこにも引っかからない、茶色の髪に茶色の瞳の女。パトリシアのような輝く美貌も、凛とした気品もない。どこにでもいる「普通の女」だった。
「ニール様……お久しぶりですわ」
ソフィアの慎ましやかな、だがどこか計算高い微笑みに、ニールは黙って頷いた。
一度、二度と重なる密会。
パトリシアに嘘をつき、彼女の翠色の瞳を見ることができなくなるたびに、ニールは自分に言い聞かせた。
「これは、パトリシアとの未来のためなんだ。僕が男として欠陥がないと証明するための儀式なんだ」
しかし、運命は最悪の方向へと転がり始める。
三ヶ月後、ソフィアから届いた手紙には、ニールが最も待ち望み、そして最も恐れていた言葉が綴られていた。
『ニール様、おめでとうございます。私のお腹に、あなたとの新しい命が宿りましたわ』
ニールは、自室でその手紙を握りつぶし、震える手で顔を覆った。
自分には生殖能力がある。その歓喜と同時に、パトリシアへの裏切りという黒い泥のような感情が、彼の足元から這い上がってきた。
だが、この時のニールはまだ知らなかった。
ソフィア・ナザレという女が、実は行き遅れの独身であり、借金まみれの貧乏子爵家の次女であるという事実を。
そして、彼女の妊娠が、彼を地獄へと引きずり込む第一歩であるということを。
______________
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義母イザベルの言葉は、まるで真綿で首を絞めるような静かな圧力を持って、今日も食堂に響いた。
パトリシア・リッチモンドは、手にした銀のスプーンをわずかに震わせた。彼女はロイド侯爵家の次女として生まれ、美貌の才女と謳われながらも、十三歳で婚約したニールとの愛を貫いて学園の卒業を待って、十八歳で結婚した。
周囲から見ても仲の良い婚約者同士だった二人は、幸せな新婚生活を送っていた。
確かに夫ニールを愛している。けれど、この義母からの問いかけだけは、どうしても慣れることができなかった。
「母上、あまりパトリシアを責めないでください。僕たちもまだ若いし、健康です。そのうち授かりますよ。母上が僕を授かったのだって、結婚三年目だったのでしょう?」
夫のニール・リッチモンドは、茶色の髪に優しげなヘーゼルの瞳を揺らし、困ったように笑ってパトリシアの手を握りしめた。その温もりにパトリシアは安堵する。
成績優秀で、外務大臣補佐官を務める父ギルバートを支える誠実な夫。そんな彼と過ごす時間は、パトリシアにとって何よりの宝物だった。
しかし、義母イザベルの視線は鋭い。彼女はパトリシアの母、タチアナ侯爵夫人に対して、学園時代から並々ならぬ劣等感と嫉妬を抱いていた。金髪に翠の瞳を持つ「淑女の鏡」タチアナ。その娘であるパトリシアが、自分と同じ茶色の髪の息子と結婚したことは、イザベルにとってある種の勝利であったはずだが、若さと美しさを保ち、夫に愛されるパトリシアを見ていると、かつての惨めな記憶が蘇るのだ。
「……そうね。でも…… ニール、あなたは幼い頃に大病を患ったでしょう? 半年も寝込んで……もしかしたら、その時の影響があるのではないかと、私は心配なのよ」
イザベルの言葉に、ニールの顔がわずかに強張った。
自分のせいで、愛するパトリシアに子が授からないのではないか。その漠然とした不安は、母に突きつけられるたびに、ニールの心に小さな棘となって刺さるようになっていた。
数日後。ニールは憂鬱な気分を晴らすため、友人のバーナードと共に紳士クラブの片隅でグラスを傾けていた。
「……そんなに悩むなよ、ニール。子供なんて授かりものだろう」
バーナードの慰めも、今のニールには虚しく響く。
「でも、もし本当に僕に問題があったら? パトリシアに申し訳なくて……。彼女は侯爵家の才女だ。僕にはもったいないくらいの妻なのに」
その時だった。
隣のボックス席から、恰幅の良い紳士がふわりと立ち上がり、ニールたちの席に歩み寄ってきた。
「お若い方、お悩みのようですな。少し耳を貸していただけませんか?」
不審がるバーナードを余所に、紳士はニールの耳元で囁いた。
「子が欲しいが授からない、訳ありの若い女性と『お遊び』をしてみる気はありませんか? もしも子が授かっても、その子は相手側が引き取る。向こうも伴侶に問題があって、どうしても子が欲しいという事情がある。……君にとっては、自分に生殖能力があることが証明されて安心できる。悪い話ではないでしょう?」
ニールの心臓がドクンと跳ねた。
「そんなっ、不貞など……!」
「おやおや、不貞だなんて。これはあくまで『確認』ですよ。子ができなければ、相手を変えて試せばいい。もしも、子が授かれば、ご自身に問題がないと確信して、奥様とも心置きなく励めるというものです」
悪魔の囁きだった。
隣でバーナードが「よせ、ニール! 碌な話じゃない!」と止める声も、今の彼には遠く聞こえた。
もし、自分に生殖能力があると分かれば、母上の小言も止まるだろうか。パトリシアを不安にさせずに済むだろうか。
――あまりにも安易で、愚かな誘惑。
一週間後、指定された待ち合わせ場所に現れたのは、男爵夫人ソフィア・ナザレだった。学園時代の同期だと告げられるまで、ニールの記憶のどこにも引っかからない、茶色の髪に茶色の瞳の女。パトリシアのような輝く美貌も、凛とした気品もない。どこにでもいる「普通の女」だった。
「ニール様……お久しぶりですわ」
ソフィアの慎ましやかな、だがどこか計算高い微笑みに、ニールは黙って頷いた。
一度、二度と重なる密会。
パトリシアに嘘をつき、彼女の翠色の瞳を見ることができなくなるたびに、ニールは自分に言い聞かせた。
「これは、パトリシアとの未来のためなんだ。僕が男として欠陥がないと証明するための儀式なんだ」
しかし、運命は最悪の方向へと転がり始める。
三ヶ月後、ソフィアから届いた手紙には、ニールが最も待ち望み、そして最も恐れていた言葉が綴られていた。
『ニール様、おめでとうございます。私のお腹に、あなたとの新しい命が宿りましたわ』
ニールは、自室でその手紙を握りつぶし、震える手で顔を覆った。
自分には生殖能力がある。その歓喜と同時に、パトリシアへの裏切りという黒い泥のような感情が、彼の足元から這い上がってきた。
だが、この時のニールはまだ知らなかった。
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🌹【この肌に傷をつけた罪、許しません~見捨てられた公爵令嬢は、美貌という最強の武器で愛と地位を取り戻す~】💎
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