1 / 13
甘い新婚生活に差した暗雲
しおりを挟む
「パトリシア、子供はまだなの? 結婚してもう三年よ。リッチモンド伯爵家の跡取りを待ちわびているのは私だけではないのですよ」
義母イザベルの言葉は、まるで真綿で首を絞めるような静かな圧力を持って、今日も食堂に響いた。
パトリシア・リッチモンドは、手にした銀のスプーンをわずかに震わせた。彼女はロイド侯爵家の次女として生まれ、美貌の才女と謳われながらも、十三歳で婚約したニールとの愛を貫いて学園の卒業を待って、十八歳で結婚した。
周囲から見ても仲の良い婚約者同士だった二人は、幸せな新婚生活を送っていた。
確かに夫ニールを愛している。けれど、この義母からの問いかけだけは、どうしても慣れることができなかった。
「母上、あまりパトリシアを責めないでください。僕たちもまだ若いし、健康です。そのうち授かりますよ。母上が僕を授かったのだって、結婚三年目だったのでしょう?」
夫のニール・リッチモンドは、茶色の髪に優しげなヘーゼルの瞳を揺らし、困ったように笑ってパトリシアの手を握りしめた。その温もりにパトリシアは安堵する。
成績優秀で、外務大臣補佐官を務める父ギルバートを支える誠実な夫。そんな彼と過ごす時間は、パトリシアにとって何よりの宝物だった。
しかし、義母イザベルの視線は鋭い。彼女はパトリシアの母、タチアナ侯爵夫人に対して、学園時代から並々ならぬ劣等感と嫉妬を抱いていた。金髪に翠の瞳を持つ「淑女の鏡」タチアナ。その娘であるパトリシアが、自分と同じ茶色の髪の息子と結婚したことは、イザベルにとってある種の勝利であったはずだが、若さと美しさを保ち、夫に愛されるパトリシアを見ていると、かつての惨めな記憶が蘇るのだ。
「……そうね。でも…… ニール、あなたは幼い頃に大病を患ったでしょう? 半年も寝込んで……もしかしたら、その時の影響があるのではないかと、私は心配なのよ」
イザベルの言葉に、ニールの顔がわずかに強張った。
自分のせいで、愛するパトリシアに子が授からないのではないか。その漠然とした不安は、母に突きつけられるたびに、ニールの心に小さな棘となって刺さるようになっていた。
数日後。ニールは憂鬱な気分を晴らすため、友人のバーナードと共に紳士クラブの片隅でグラスを傾けていた。
「……そんなに悩むなよ、ニール。子供なんて授かりものだろう」
バーナードの慰めも、今のニールには虚しく響く。
「でも、もし本当に僕に問題があったら? パトリシアに申し訳なくて……。彼女は侯爵家の才女だ。僕にはもったいないくらいの妻なのに」
その時だった。
隣のボックス席から、恰幅の良い紳士がふわりと立ち上がり、ニールたちの席に歩み寄ってきた。
「お若い方、お悩みのようですな。少し耳を貸していただけませんか?」
不審がるバーナードを余所に、紳士はニールの耳元で囁いた。
「子が欲しいが授からない、訳ありの若い女性と『お遊び』をしてみる気はありませんか? もしも子が授かっても、その子は相手側が引き取る。向こうも伴侶に問題があって、どうしても子が欲しいという事情がある。……君にとっては、自分に生殖能力があることが証明されて安心できる。悪い話ではないでしょう?」
ニールの心臓がドクンと跳ねた。
「そんなっ、不貞など……!」
「おやおや、不貞だなんて。これはあくまで『確認』ですよ。子ができなければ、相手を変えて試せばいい。もしも、子が授かれば、ご自身に問題がないと確信して、奥様とも心置きなく励めるというものです」
悪魔の囁きだった。
隣でバーナードが「よせ、ニール! 碌な話じゃない!」と止める声も、今の彼には遠く聞こえた。
もし、自分に生殖能力があると分かれば、母上の小言も止まるだろうか。パトリシアを不安にさせずに済むだろうか。
――あまりにも安易で、愚かな誘惑。
一週間後、指定された待ち合わせ場所に現れたのは、男爵夫人ソフィア・ナザレだった。学園時代の同期だと告げられるまで、ニールの記憶のどこにも引っかからない、茶色の髪に茶色の瞳の女。パトリシアのような輝く美貌も、凛とした気品もない。どこにでもいる「普通の女」だった。
「ニール様……お久しぶりですわ」
ソフィアの慎ましやかな、だがどこか計算高い微笑みに、ニールは黙って頷いた。
一度、二度と重なる密会。
パトリシアに嘘をつき、彼女の翠色の瞳を見ることができなくなるたびに、ニールは自分に言い聞かせた。
「これは、パトリシアとの未来のためなんだ。僕が男として欠陥がないと証明するための儀式なんだ」
しかし、運命は最悪の方向へと転がり始める。
三ヶ月後、ソフィアから届いた手紙には、ニールが最も待ち望み、そして最も恐れていた言葉が綴られていた。
『ニール様、おめでとうございます。私のお腹に、あなたとの新しい命が宿りましたわ』
ニールは、自室でその手紙を握りつぶし、震える手で顔を覆った。
自分には生殖能力がある。その歓喜と同時に、パトリシアへの裏切りという黒い泥のような感情が、彼の足元から這い上がってきた。
だが、この時のニールはまだ知らなかった。
ソフィア・ナザレという女が、実は行き遅れの独身であり、借金まみれの貧乏子爵家の次女であるという事実を。
そして、彼女の妊娠が、彼を地獄へと引きずり込む第一歩であるということを。
______________
エール📣いいね❤️お気に入り⭐️応援よろしくお願いします🙇♀️
📖✨ 新連載のお知らせ ✨📖
🌹【可哀想な令嬢? いいえ、私が選ぶ側です~悪役令嬢で上等よ~】 💎
義母イザベルの言葉は、まるで真綿で首を絞めるような静かな圧力を持って、今日も食堂に響いた。
パトリシア・リッチモンドは、手にした銀のスプーンをわずかに震わせた。彼女はロイド侯爵家の次女として生まれ、美貌の才女と謳われながらも、十三歳で婚約したニールとの愛を貫いて学園の卒業を待って、十八歳で結婚した。
周囲から見ても仲の良い婚約者同士だった二人は、幸せな新婚生活を送っていた。
確かに夫ニールを愛している。けれど、この義母からの問いかけだけは、どうしても慣れることができなかった。
「母上、あまりパトリシアを責めないでください。僕たちもまだ若いし、健康です。そのうち授かりますよ。母上が僕を授かったのだって、結婚三年目だったのでしょう?」
夫のニール・リッチモンドは、茶色の髪に優しげなヘーゼルの瞳を揺らし、困ったように笑ってパトリシアの手を握りしめた。その温もりにパトリシアは安堵する。
成績優秀で、外務大臣補佐官を務める父ギルバートを支える誠実な夫。そんな彼と過ごす時間は、パトリシアにとって何よりの宝物だった。
しかし、義母イザベルの視線は鋭い。彼女はパトリシアの母、タチアナ侯爵夫人に対して、学園時代から並々ならぬ劣等感と嫉妬を抱いていた。金髪に翠の瞳を持つ「淑女の鏡」タチアナ。その娘であるパトリシアが、自分と同じ茶色の髪の息子と結婚したことは、イザベルにとってある種の勝利であったはずだが、若さと美しさを保ち、夫に愛されるパトリシアを見ていると、かつての惨めな記憶が蘇るのだ。
「……そうね。でも…… ニール、あなたは幼い頃に大病を患ったでしょう? 半年も寝込んで……もしかしたら、その時の影響があるのではないかと、私は心配なのよ」
イザベルの言葉に、ニールの顔がわずかに強張った。
自分のせいで、愛するパトリシアに子が授からないのではないか。その漠然とした不安は、母に突きつけられるたびに、ニールの心に小さな棘となって刺さるようになっていた。
数日後。ニールは憂鬱な気分を晴らすため、友人のバーナードと共に紳士クラブの片隅でグラスを傾けていた。
「……そんなに悩むなよ、ニール。子供なんて授かりものだろう」
バーナードの慰めも、今のニールには虚しく響く。
「でも、もし本当に僕に問題があったら? パトリシアに申し訳なくて……。彼女は侯爵家の才女だ。僕にはもったいないくらいの妻なのに」
その時だった。
隣のボックス席から、恰幅の良い紳士がふわりと立ち上がり、ニールたちの席に歩み寄ってきた。
「お若い方、お悩みのようですな。少し耳を貸していただけませんか?」
不審がるバーナードを余所に、紳士はニールの耳元で囁いた。
「子が欲しいが授からない、訳ありの若い女性と『お遊び』をしてみる気はありませんか? もしも子が授かっても、その子は相手側が引き取る。向こうも伴侶に問題があって、どうしても子が欲しいという事情がある。……君にとっては、自分に生殖能力があることが証明されて安心できる。悪い話ではないでしょう?」
ニールの心臓がドクンと跳ねた。
「そんなっ、不貞など……!」
「おやおや、不貞だなんて。これはあくまで『確認』ですよ。子ができなければ、相手を変えて試せばいい。もしも、子が授かれば、ご自身に問題がないと確信して、奥様とも心置きなく励めるというものです」
悪魔の囁きだった。
隣でバーナードが「よせ、ニール! 碌な話じゃない!」と止める声も、今の彼には遠く聞こえた。
もし、自分に生殖能力があると分かれば、母上の小言も止まるだろうか。パトリシアを不安にさせずに済むだろうか。
――あまりにも安易で、愚かな誘惑。
一週間後、指定された待ち合わせ場所に現れたのは、男爵夫人ソフィア・ナザレだった。学園時代の同期だと告げられるまで、ニールの記憶のどこにも引っかからない、茶色の髪に茶色の瞳の女。パトリシアのような輝く美貌も、凛とした気品もない。どこにでもいる「普通の女」だった。
「ニール様……お久しぶりですわ」
ソフィアの慎ましやかな、だがどこか計算高い微笑みに、ニールは黙って頷いた。
一度、二度と重なる密会。
パトリシアに嘘をつき、彼女の翠色の瞳を見ることができなくなるたびに、ニールは自分に言い聞かせた。
「これは、パトリシアとの未来のためなんだ。僕が男として欠陥がないと証明するための儀式なんだ」
しかし、運命は最悪の方向へと転がり始める。
三ヶ月後、ソフィアから届いた手紙には、ニールが最も待ち望み、そして最も恐れていた言葉が綴られていた。
『ニール様、おめでとうございます。私のお腹に、あなたとの新しい命が宿りましたわ』
ニールは、自室でその手紙を握りつぶし、震える手で顔を覆った。
自分には生殖能力がある。その歓喜と同時に、パトリシアへの裏切りという黒い泥のような感情が、彼の足元から這い上がってきた。
だが、この時のニールはまだ知らなかった。
ソフィア・ナザレという女が、実は行き遅れの独身であり、借金まみれの貧乏子爵家の次女であるという事実を。
そして、彼女の妊娠が、彼を地獄へと引きずり込む第一歩であるということを。
______________
エール📣いいね❤️お気に入り⭐️応援よろしくお願いします🙇♀️
📖✨ 新連載のお知らせ ✨📖
🌹【可哀想な令嬢? いいえ、私が選ぶ側です~悪役令嬢で上等よ~】 💎
578
あなたにおすすめの小説
断罪された公爵令嬢に手を差し伸べたのは、私の婚約者でした
カレイ
恋愛
子爵令嬢に陥れられ第二王子から婚約破棄を告げられたアンジェリカ公爵令嬢。第二王子が断罪しようとするも、証拠を突きつけて見事彼女の冤罪を晴らす男が現れた。男は公爵令嬢に跪き……
「この機会絶対に逃しません。ずっと前から貴方をお慕いしていましたんです。私と婚約して下さい!」
ええっ!あなた私の婚約者ですよね!?
お好きになさって下さい、私は一切気にしませんわ
Kouei
恋愛
婚約者のクレマンド様は、いつも私との約束を破ってばかり。
理由は決まって『従妹ライラ様との用事』
誕生日会にすら来なかった彼に、私はついに告げた。
「どうぞ、私以外のご令嬢をエスコートするなり、お出かけするなり、関係を持つなり、お好きになさって下さい。私は一切気にしませんわ」
二人の想いは、重なり合えるのだろうか ……
※他のサイトにも公開しています。
私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです
こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。
まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。
幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。
「子供が欲しいの」
「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」
それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。
【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
婚約破棄の代償
nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」
ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。
エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。
もう演じなくて結構です
梨丸
恋愛
侯爵令嬢セリーヌは最愛の婚約者が自分のことを愛していないことに気づく。
愛しの婚約者様、もう婚約者を演じなくて結構です。
11/5HOTランキング入りしました。ありがとうございます。
感想などいただけると、嬉しいです。
11/14 完結いたしました。
11/16 完結小説ランキング総合8位、恋愛部門4位ありがとうございます。
白い結婚を捨てた王妃は、もう二度と振り向かない ――愛さぬと言った王子が全てを失うまで』
鍛高譚
恋愛
「私は王妃を愛さない。彼女とは白い結婚を誓う」
華やかな王宮の大聖堂で交わされたのは、愛の誓いではなく、冷たい拒絶の言葉だった。
王子アルフォンスの婚姻相手として選ばれたレイチェル・ウィンザー。しかし彼女は、王妃としての立場を与えられながらも、夫からも宮廷からも冷遇され、孤独な日々を強いられる。王の寵愛はすべて聖女ミレイユに注がれ、王宮の権力は彼女の手に落ちていった。侮蔑と屈辱に耐える中、レイチェルは誇りを失わず、密かに反撃の機会をうかがう。
そんな折、隣国の公爵アレクサンダーが彼女の前に現れる。「君の目はまだ死んでいないな」――その言葉に、彼女の中で何かが目覚める。彼はレイチェルに自由と新たな未来を提示し、密かに王宮からの脱出を計画する。
レイチェルが去ったことで、王宮は急速に崩壊していく。聖女ミレイユの策略が暴かれ、アルフォンスは自らの過ちに気づくも、時すでに遅し。彼が頼るべき王妃は、もはや遠く、隣国で新たな人生を歩んでいた。
「お願いだ……戻ってきてくれ……」
王国を失い、誇りを失い、全てを失った王子の懇願に、レイチェルはただ冷たく微笑む。
「もう遅いわ」
愛のない結婚を捨て、誇り高き未来へと進む王妃のざまぁ劇。
裏切りと策略が渦巻く宮廷で、彼女は己の運命を切り開く。
これは、偽りの婚姻から真の誓いへと至る、誇り高き王妃の物語。
旦那様。私が悪女ならば、愛人の女は何になるのかしら?
白雲八鈴
恋愛
我が公爵家主催の夜会の最中。夫が愛人を連れてやってきたのです。そして、私を悪女という理由で離縁を突きつけてきました。
離縁して欲しいというのであれば、今まで支援してきた金額を全額返済していただけません?
あら?愛人の貴女が支払ってくれると?お優しいわね。
私が悪女というのであれば、妻のいる夫の愛人に収まっている貴女は何なのかしら?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる