9 / 13
宿る命と、暴かれた虚像
しおりを挟む
リドリー伯爵邸の庭園には、色鮮やかなバラが咲き誇り、甘い香りが風に乗って漂っていた。
結婚から一年。パトリシア・リドリーは、窓辺に腰掛け、自らのふっくらとした腹部にそっと手を当てていた。
「パトリシア、あまり無理をしてはいけないよ。風が冷たくなってきた、中へ入ろう」
エドワードが、柔らかな毛織物のショールを持って現れた。彼の瞳には、妻への深い慈しみと、間もなく誕生する我が子への期待が溢れている。
「ありがとうご、エド。……ふふ、この子が動くたびに、本当に生きているのだと実感するの。不思議ね。あんなに悩んでいたことが、嘘のようだわ」
パトリシアは、ニールとの三年間の不妊を思い出していた。当時は「自分が欠陥品なのだ」と思い込み、毎晩のように自分を責めていた。しかし、エドワードと結ばれて半年も経たぬうちに、彼女は自然に懐妊した。
医師の診断は明快だった。「パトリシア様には何の不備もございません。心身の安定と、健全な夫婦生活があれば、至極当然の結果です」と。
ロイド侯爵家も、この知らせに沸き立った。
パトリシアの父エメリオは「リドリー家の跡取りに相応しい教育の準備をせねば」とはりきり、母タチアナは連日のように安産のお守りや赤子のための産着を届けてくれる。
かつてリッチモンド家で味わった、暗く冷たい監禁生活は、今や遠い異国の出来事のようにパトリシアの記憶から薄れつつあった。
一方、王都から追放され、身分を剥奪されたニールは、北方の荒れ果てた鉱山町で、荷運びの労働に明け暮れていた。
かつて「パトリシアの夫」として社交界で羨望を集めていた面影は、もはや微塵もない。埃にまみれ、酒の匂いを漂わせる日雇い労働者の一人に過ぎなかった。
ある日、過酷な労働で倒れたニールは、救護所の老医師に診察を受けることになった。
医師はニールの顔を見るなり、首を傾げた。
「あんた、若い頃にひどい熱を出したことがあるな?」
「……ええ。それが何か」
「いや。あんたの体、内側に変な癒着がある。……もしかして、以前に『種がない』とか言われたことがあるんじゃないか?」
ニールは心臓が止まるかと思った。かつて王都の医師に告げられた、あの残酷な宣告。
「……ああ。そうだ。僕は、子供が作れない体なんだ」
しかし、老医師は意外な言葉を口にした。
「いや、それは違うな。あんたの体質は、確かに作りにくい。だが、絶対に無理というわけじゃない。……ただ、あんたの横にいた女が、『作らせないようにしていた』なら話は別だがな」
「……何だって?」
老医師は、ニールの腕に残る古い痣や、皮膚の変色を指した。
「あんた、学園を卒業した頃から、妙な薬を飲まされていなかったか? あるいは、食事に混ぜられていたとか。……この蓄積した毒の痕跡は、男性の機能を一時的に麻痺させる禁忌の薬物だ。長期間摂取すれば、本当に不能になる」
ニールの頭の中に、鮮明な光景が蘇った。
結婚生活の間、母イザベルが「健康のために」と毎日欠かさず飲ませていた、あの苦いお茶。
「ニール、これはお前の体を思って用意したのよ」
微笑む母の顔。そして、ソフィアとの密会中。彼女が「精がつく」と言って持ち込んできた、香りの強い香料や酒。
戦慄がニールの全身を駆け抜けた。
母イザベルは、息子を愛していたのではない。息子を「自分の支配下」に置き、パトリシア(タチアナの娘)に子を産ませないことで、彼女たちの幸福を破壊しようとしていたのだ。
そしてソフィアもまた、ニールが他の女に子を作らせないよう、そして自分が「奇跡の懐妊」を演出できるように、彼に毒を盛り続けていた。
「……はは、はははは!!」
救護所に、ニールの乾いた笑い声が響いた。
自分は、自分の家族に、そして愛人だと思っていた女に、去勢されていたのだ。
彼らが自分を愛していると信じ、彼らの言葉を信じてパトリシアを虐げた。その結果、自分は本物の愛を捨て、毒を喰らわせていた蛇たちを守ろうとした。
「僕は……僕はなんて、救いようのない馬鹿なんだ……!!」
ニールは自分の顔を掻きむしり、泣き叫んだ。
もし、あの時、母の言葉を疑っていれば。
もし、あの時、パトリシアの涙を見て、彼女の手を離さなければ。
今頃、彼女の隣で、その温かなお腹に手を当てていたのは、自分だったはずなのだ。
数ヶ月後、王都に初夏が訪れた。リドリー伯爵邸に、一際元気な産声が上がった。
「おめでとうございます! 健やかな男の子です!」
産婆の誇らしげな声に、パトリシアは安堵の涙を流した。
部屋に駆けつけたエドワードは、汗に濡れたパトリシアの額に口付けをし、その小さな、しかし力強い命を抱き上げた。
「……パトリシア、ありがとう。この子は、私たちの光だ」
赤子の髪は、パトリシアに似た輝くような金髪。そして、うっすらと開いた瞳は、エドワードと同じ、誠実な意志を感じさせるヘーゼルの瞳をしていた。
この子の誕生を祝う鐘の音は、かつてリッチモンド家を包んでいた澱んだ空気を、完全に一掃した。
パトリシアは、自分を「必要ない」と切り捨てた男への復讐など、もう微塵も考えていなかった。彼女にとって、今この瞬間の幸福こそが、過去に対する最大の返答だった。
一方、鉱山町の泥濘の中で、ニールはその鐘の音さえ届かない地下深くで、重い石を運び続けていた。
彼に許されたのは、自らの愚かさを反芻し、永遠に届かない幸福を夢に見ることだけだった。
______________
エール📣いいね❤️お気に入り⭐️応援よろしくお願いします🙇♀️
📢✨新連載2本スタート
🌹【愛してると泣かれても迷惑です~お姉様の身代わりに冷徹公爵へ嫁ぐ~】💍💔
🌹【泥だらけの迷い犬を拾ったら、牙の鋭い捕食者(伯爵家嫡男)に育ちました。~公爵令嬢は、教え子の愛に逃げ場を失う~】
結婚から一年。パトリシア・リドリーは、窓辺に腰掛け、自らのふっくらとした腹部にそっと手を当てていた。
「パトリシア、あまり無理をしてはいけないよ。風が冷たくなってきた、中へ入ろう」
エドワードが、柔らかな毛織物のショールを持って現れた。彼の瞳には、妻への深い慈しみと、間もなく誕生する我が子への期待が溢れている。
「ありがとうご、エド。……ふふ、この子が動くたびに、本当に生きているのだと実感するの。不思議ね。あんなに悩んでいたことが、嘘のようだわ」
パトリシアは、ニールとの三年間の不妊を思い出していた。当時は「自分が欠陥品なのだ」と思い込み、毎晩のように自分を責めていた。しかし、エドワードと結ばれて半年も経たぬうちに、彼女は自然に懐妊した。
医師の診断は明快だった。「パトリシア様には何の不備もございません。心身の安定と、健全な夫婦生活があれば、至極当然の結果です」と。
ロイド侯爵家も、この知らせに沸き立った。
パトリシアの父エメリオは「リドリー家の跡取りに相応しい教育の準備をせねば」とはりきり、母タチアナは連日のように安産のお守りや赤子のための産着を届けてくれる。
かつてリッチモンド家で味わった、暗く冷たい監禁生活は、今や遠い異国の出来事のようにパトリシアの記憶から薄れつつあった。
一方、王都から追放され、身分を剥奪されたニールは、北方の荒れ果てた鉱山町で、荷運びの労働に明け暮れていた。
かつて「パトリシアの夫」として社交界で羨望を集めていた面影は、もはや微塵もない。埃にまみれ、酒の匂いを漂わせる日雇い労働者の一人に過ぎなかった。
ある日、過酷な労働で倒れたニールは、救護所の老医師に診察を受けることになった。
医師はニールの顔を見るなり、首を傾げた。
「あんた、若い頃にひどい熱を出したことがあるな?」
「……ええ。それが何か」
「いや。あんたの体、内側に変な癒着がある。……もしかして、以前に『種がない』とか言われたことがあるんじゃないか?」
ニールは心臓が止まるかと思った。かつて王都の医師に告げられた、あの残酷な宣告。
「……ああ。そうだ。僕は、子供が作れない体なんだ」
しかし、老医師は意外な言葉を口にした。
「いや、それは違うな。あんたの体質は、確かに作りにくい。だが、絶対に無理というわけじゃない。……ただ、あんたの横にいた女が、『作らせないようにしていた』なら話は別だがな」
「……何だって?」
老医師は、ニールの腕に残る古い痣や、皮膚の変色を指した。
「あんた、学園を卒業した頃から、妙な薬を飲まされていなかったか? あるいは、食事に混ぜられていたとか。……この蓄積した毒の痕跡は、男性の機能を一時的に麻痺させる禁忌の薬物だ。長期間摂取すれば、本当に不能になる」
ニールの頭の中に、鮮明な光景が蘇った。
結婚生活の間、母イザベルが「健康のために」と毎日欠かさず飲ませていた、あの苦いお茶。
「ニール、これはお前の体を思って用意したのよ」
微笑む母の顔。そして、ソフィアとの密会中。彼女が「精がつく」と言って持ち込んできた、香りの強い香料や酒。
戦慄がニールの全身を駆け抜けた。
母イザベルは、息子を愛していたのではない。息子を「自分の支配下」に置き、パトリシア(タチアナの娘)に子を産ませないことで、彼女たちの幸福を破壊しようとしていたのだ。
そしてソフィアもまた、ニールが他の女に子を作らせないよう、そして自分が「奇跡の懐妊」を演出できるように、彼に毒を盛り続けていた。
「……はは、はははは!!」
救護所に、ニールの乾いた笑い声が響いた。
自分は、自分の家族に、そして愛人だと思っていた女に、去勢されていたのだ。
彼らが自分を愛していると信じ、彼らの言葉を信じてパトリシアを虐げた。その結果、自分は本物の愛を捨て、毒を喰らわせていた蛇たちを守ろうとした。
「僕は……僕はなんて、救いようのない馬鹿なんだ……!!」
ニールは自分の顔を掻きむしり、泣き叫んだ。
もし、あの時、母の言葉を疑っていれば。
もし、あの時、パトリシアの涙を見て、彼女の手を離さなければ。
今頃、彼女の隣で、その温かなお腹に手を当てていたのは、自分だったはずなのだ。
数ヶ月後、王都に初夏が訪れた。リドリー伯爵邸に、一際元気な産声が上がった。
「おめでとうございます! 健やかな男の子です!」
産婆の誇らしげな声に、パトリシアは安堵の涙を流した。
部屋に駆けつけたエドワードは、汗に濡れたパトリシアの額に口付けをし、その小さな、しかし力強い命を抱き上げた。
「……パトリシア、ありがとう。この子は、私たちの光だ」
赤子の髪は、パトリシアに似た輝くような金髪。そして、うっすらと開いた瞳は、エドワードと同じ、誠実な意志を感じさせるヘーゼルの瞳をしていた。
この子の誕生を祝う鐘の音は、かつてリッチモンド家を包んでいた澱んだ空気を、完全に一掃した。
パトリシアは、自分を「必要ない」と切り捨てた男への復讐など、もう微塵も考えていなかった。彼女にとって、今この瞬間の幸福こそが、過去に対する最大の返答だった。
一方、鉱山町の泥濘の中で、ニールはその鐘の音さえ届かない地下深くで、重い石を運び続けていた。
彼に許されたのは、自らの愚かさを反芻し、永遠に届かない幸福を夢に見ることだけだった。
______________
エール📣いいね❤️お気に入り⭐️応援よろしくお願いします🙇♀️
📢✨新連載2本スタート
🌹【愛してると泣かれても迷惑です~お姉様の身代わりに冷徹公爵へ嫁ぐ~】💍💔
🌹【泥だらけの迷い犬を拾ったら、牙の鋭い捕食者(伯爵家嫡男)に育ちました。~公爵令嬢は、教え子の愛に逃げ場を失う~】
900
あなたにおすすめの小説
お好きになさって下さい、私は一切気にしませんわ
Kouei
恋愛
婚約者のクレマンド様は、いつも私との約束を破ってばかり。
理由は決まって『従妹ライラ様との用事』
誕生日会にすら来なかった彼に、私はついに告げた。
「どうぞ、私以外のご令嬢をエスコートするなり、お出かけするなり、関係を持つなり、お好きになさって下さい。私は一切気にしませんわ」
二人の想いは、重なり合えるのだろうか ……
※他のサイトにも公開しています。
断罪された公爵令嬢に手を差し伸べたのは、私の婚約者でした
カレイ
恋愛
子爵令嬢に陥れられ第二王子から婚約破棄を告げられたアンジェリカ公爵令嬢。第二王子が断罪しようとするも、証拠を突きつけて見事彼女の冤罪を晴らす男が現れた。男は公爵令嬢に跪き……
「この機会絶対に逃しません。ずっと前から貴方をお慕いしていましたんです。私と婚約して下さい!」
ええっ!あなた私の婚約者ですよね!?
白い結婚を捨てた王妃は、もう二度と振り向かない ――愛さぬと言った王子が全てを失うまで』
鍛高譚
恋愛
「私は王妃を愛さない。彼女とは白い結婚を誓う」
華やかな王宮の大聖堂で交わされたのは、愛の誓いではなく、冷たい拒絶の言葉だった。
王子アルフォンスの婚姻相手として選ばれたレイチェル・ウィンザー。しかし彼女は、王妃としての立場を与えられながらも、夫からも宮廷からも冷遇され、孤独な日々を強いられる。王の寵愛はすべて聖女ミレイユに注がれ、王宮の権力は彼女の手に落ちていった。侮蔑と屈辱に耐える中、レイチェルは誇りを失わず、密かに反撃の機会をうかがう。
そんな折、隣国の公爵アレクサンダーが彼女の前に現れる。「君の目はまだ死んでいないな」――その言葉に、彼女の中で何かが目覚める。彼はレイチェルに自由と新たな未来を提示し、密かに王宮からの脱出を計画する。
レイチェルが去ったことで、王宮は急速に崩壊していく。聖女ミレイユの策略が暴かれ、アルフォンスは自らの過ちに気づくも、時すでに遅し。彼が頼るべき王妃は、もはや遠く、隣国で新たな人生を歩んでいた。
「お願いだ……戻ってきてくれ……」
王国を失い、誇りを失い、全てを失った王子の懇願に、レイチェルはただ冷たく微笑む。
「もう遅いわ」
愛のない結婚を捨て、誇り高き未来へと進む王妃のざまぁ劇。
裏切りと策略が渦巻く宮廷で、彼女は己の運命を切り開く。
これは、偽りの婚姻から真の誓いへと至る、誇り高き王妃の物語。
【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
旦那様。私が悪女ならば、愛人の女は何になるのかしら?
白雲八鈴
恋愛
我が公爵家主催の夜会の最中。夫が愛人を連れてやってきたのです。そして、私を悪女という理由で離縁を突きつけてきました。
離縁して欲しいというのであれば、今まで支援してきた金額を全額返済していただけません?
あら?愛人の貴女が支払ってくれると?お優しいわね。
私が悪女というのであれば、妻のいる夫の愛人に収まっている貴女は何なのかしら?
婚約破棄の代償
nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」
ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。
エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。
もう演じなくて結構です
梨丸
恋愛
侯爵令嬢セリーヌは最愛の婚約者が自分のことを愛していないことに気づく。
愛しの婚約者様、もう婚約者を演じなくて結構です。
11/5HOTランキング入りしました。ありがとうございます。
感想などいただけると、嬉しいです。
11/14 完結いたしました。
11/16 完結小説ランキング総合8位、恋愛部門4位ありがとうございます。
王子様への置き手紙
あおき華
恋愛
フィオナは王太子ジェラルドの婚約者。王宮で暮らしながら王太子妃教育を受けていた。そんなある日、ジェラルドと侯爵家令嬢のマデリーンがキスをする所を目撃してしまう。ショックを受けたフィオナは自ら修道院に行くことを決意し、護衛騎士のエルマーとともに王宮を逃げ出した。置き手紙を読んだ皇太子が追いかけてくるとは思いもせずに⋯⋯
小説家になろうにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる