愛を捨てます〜夫は他の女を孕ませた〜

恋せよ恋

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翠の瞳に映る明日

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 月日は流れ、王都を包む空気は再び柔らかな春を連れてきた。

 かつてリッチモンド伯爵邸があった場所は、今や広大な更地となり、色とりどりの野花が咲き乱れる静かな丘へと姿を変えていた。ギルバートの死後、リッチモンド家は正式に断絶。屋敷は取り壊され、その土地は国へと返還されていたのだ。

 その丘に、一際豪華な、しかし上品な紋章の入った馬車が止まった。

 降り立ったのは、以前にも増して気品に溢れ、慈愛に満ちた美貌を湛えたパトリシア・リドリーであった。彼女の傍らには、夫エドワードと、もうすぐ五歳になるアーサー、そしてパトリシアの腕に抱かれた、生まれたばかりの愛らしい長女の姿があった。

「ここが、お母様の言っていた場所なの?」

 アーサーが不思議そうに、一面の花畑を見渡した。パトリシアは微笑み、優しく頷いた。

「ええ。ここはね、かつて悲しい思い出があった場所。けれど今は、こうして花が咲き、新しい風が吹く場所になったわ」

 パトリシアは今日、この場所を訪れた理由があった。

 父エメリオと夫エドワードの協力により、彼女はこのリッチモンド邸の跡地を買い取ったのだ。ここに、身寄りのない女性や、学びたいと願う貧しい少女たちのための「女子教育院」を設立することに決めたのである。

「私はかつて、この場所で『子を産まない女に価値はない』と言われ続けました。けれど、女性の価値はそれだけではない。学ぶこと、愛すること、そして自分の意志で歩むこと。それを教える場所を、私はあえてこの地に作りたいのです」

 パトリシアの言葉に、エドワードは心からの敬意を込めて妻を見つめた。

「君らしい、素晴らしい考えだ。この場所なら、多くの女性たちが新しい希望を見つけられるだろう」

 パトリシアがかつて閉じ込められていた北向きの離れがあった場所には、今では背の高いヒマワリが太陽を仰いでいた。

 彼女はもう、かつての夫、ニールを思い出して震えることはない。彼がその後、北方の開拓地で名前を変え、自らの罪を背負って一生を終えたという報告も、遠い異国の昔話のように聞いた。彼に下された「存在そのものを忘れられる」という罰は、パトリシアが彼を完全に許し、そして忘却した瞬間に完成したのだ。

 設立の準備を進める中、パトリシアは教育院の図書館に置くための、自身の蔵書を整理していた。
 その中から、一冊の古い学術書が零れ落ちる。それは、王立学園時代にニールと共有していた、思い出の詰まった本だった。
 
 かつての自分なら、それを破り捨てていたかもしれない。あるいは、見て見ぬふりをしたかもしれない。

 けれど、今のパトリシアは、その本を手に取り、静かにパラパラとページを捲った。

「……長い、回り道でしたわね」

 彼女は、その本を寄贈の箱に入れた。

 憎しみさえも、彼女は血肉に変えた。あの地獄があったからこそ、彼女は今のエドワードとの揺るぎない絆を、そして自分の力で立ち上がる強さを手に入れたのだ。
 
 イザベルが修道院で果て、ソフィアが詐欺罪で極貧の獄中生活を送っているという話も、彼女にとっては「自業自得」という四文字以上の意味を持たなかった。他者を陥れようとした者は、自らが掘った穴に落ちる。それがこの世界のことわりなのだ。


 数ヶ月後。「リドリー女子教育院」の開院式が行われた。
 初代院長として教壇に立ったパトリシアは、集まった少女たちを前に、晴れやかな顔で語りかけた。

「皆さんに覚えておいてほしいことがあります。あなたの価値は、誰かに決められるものではありません。あなたが何を学び、何を愛し、どのように生きるか。そのすべてを、あなた自身が選べるのです」

 その演説を、会場の隅で見守っていた父エメリオと母タチアナは、涙を拭いながら拍手を送った。

「タチアナ、見てごらん。私たちの娘は、誰よりも強く、美しい女性になったよ」
「ええ、エメリオ様。……あの苦しみを、これほどの輝きに変えるなんて。パトリシアは本当に、ロイド家の誇りですわ」

 式典の帰り道。パトリシアは、エドワードと並んで夕日に染まる丘を歩いていた。

 アーサーが先を走り、小さな妹を笑わせようと跳ねている。

「エドワード様。私、本当に幸せです」
「私もだよ、パトリシア。……君の隣に立てることを、私は一生の誇りに思う」

 二人は、どちらからともなく手を繋いだ。

 かつてニールが「自分に能力がない」という恐怖から逃れるために差し出した、あの偽りの温もりではない。お互いの弱さを認め合い、共に支え合おうと誓った、本物の愛の温もりだった。

 パトリシア・リドリーの翠色の瞳には、もう過去の影は一欠片も映っていない。

 そこにあるのは、どこまでも続く青い空と、愛する家族と、そして自分が築き上げていく輝かしい未来だけ。パトリシアは、今、真実の幸福の中で、誰よりも鮮やかに咲き誇っていた。
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