公爵は婚約解消したはずの元婚約者を逃がさない ~口約束の婚約でしたが、今さら溺愛されても困ります~』

恋せよ恋

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自由と孤独の始まり

「……そんな、まさか……!」

 翌朝、ジャッカス伯爵邸の書斎に、父の震える声が響いた。

 ウィステリアが駆けつけると、そこには青ざめた顔で書状を握りしめる父と、傍らで拳を固く握りしめる兄・リチャードの姿があった。

「お父様、お兄様、一体何があったのですか?」

 ウィステリアの問いに、二人は苦渋に満ちた表情を浮かべる。リチャードが奪い取るようにして見せてくれた書状には、ノッテンダム公爵家の紋章――峻烈な鷹の印が押されていた。
 そこには、ジャッカス伯爵家が新事業のために複数の商会から受けていた融資、そのすべての債権を、ノッテンダム公爵家が「一括で買い取った」という事実が記されていた。

「これでは、我が家の命運はすべてアルバート……いえ、ノッテンダム公爵に握られたも同然ではないか!」

 父が机に突っ伏す。
 借金がなくなったわけではない。返済先がバラバラの商会から、たった一人の「冷酷な債権者」に集約されたのだ。彼が「今すぐ返せ」と言えば、伯爵家は即座に破産する。

 ウィステリアの背筋に、冷たい汗が伝った。
 昨夜の舞踏会での、あの底知れない笑み。

『見つけたよ、ウィステリア』

 あの言葉は、ただの再会の挨拶などではなかった。逃げ場をすべて塞いだという、勝利宣言だったのだ。

「お兄様、これは……私のせい?」

「気にするな、ウィズ。あいつが異常なだけだ。あんな執念深い真似をするなんて……」

 リチャードは妹を庇うように抱き寄せたが、その腕も微かに震えていた。
 五年前、ウィステリアが婚約を解消したとき、彼女は「自由」になれたのだと思っていた。アルバートという完璧すぎて空恐ろしい婚約者から解き放たれ、自分の足で歩いていけるのだと。

 けれど、現実は違った。

 五年前のあの日から、ウィステリアの時間は止まったままだ。
 他の男性から向けられる好意は、すべて「裏があるのではないか」と疑ってしまう。優しくされればされるほど、あの日のアルバートと見知らぬ女性の姿が重なり、吐き気がした。

 自由になったはずなのに、心は孤独という名の檻に閉じ込められたまま。
 そして今、物理的な檻までが彼女の周囲に築かれようとしていた。

「……私が、公爵邸へ行ってまいります」

「何を言っているんだ、ウィズ! 行かせるわけがないだろう!」

 リチャードが声を荒らげる。だが、ウィステリアは静かに首を振った。

「お兄様、わかっているはずです。彼が狙っているのは、伯爵家の金銭ではありません。……私です」

「……っ」

「私が彼と話をつけなければ、お父様もお兄様も、路頭に迷うことになります。そんなこと、絶対にさせられません」

 かつての「お兄様」を慕っていた弱くて幼い少女は、もういない。
 五年の月日が、彼女を頑固で、少しだけ強情な女性に変えていた。


  数日後。
 ウィステリアは、かつて何度も通ったはずのノッテンダム公爵邸の門を潜った。
 以前は花々が咲き誇り、明るい光に満ちていた庭園は、当主が代わったせいか、どこか機能的で冷徹な美しさを湛えていた。

 通された応接室で待っていたのは、書類に目を通すアルバートだった。
 窓から差し込む逆光を背負った彼は、まるで彫刻のように美しい。だが、その美しさは人を寄せ付けない刃のようでもあった。

「……お忙しいところ、失礼いたします。ノッテンダム公爵閣下」

 ウィステリアの挨拶に、アルバートはゆっくりと顔を上げた。

「やあ、ウィステリア。意外と早かったね。もう少しリチャードが粘るかと思ったけれど」

 その口調は驚くほど穏やかだった。けれど、内容はどこまでも傲慢だ。
 彼は、彼女が来ることを確信していた。

「単刀直入に伺います。我が家の債権を買い取った意図は何ですか?」

「意図? 投資だよ。君の家が進めている新事業は、筋が良い。他人に利益を掠め取られるくらいなら、私が管理したほうが合理的だろう?」

「嘘をおっしゃらないで! あなたは、私を脅すために……」

「脅す? 心外だな。私はただ、借金に追われる君を助けてあげただけだよ」
 
 アルバートが椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってくる。
 ウィステリアは後ずさりしようとしたが、いつの間にか背後は壁だった。
 逃げ場がない。五年前と同じ。

「自由になれたかい? ウィステリア。この五年、君を口説こうとした男たちの末路を、君は知っているのか?」

「え……?」

「君に近づこうとした不届き者は、全員、私の手で社交界から退場してもらった。君を汚していいのは、世界で私一人だけなんだ」

 さらりと言い放たれた言葉の内容に、ウィステリアは戦慄した。
 彼女がこの五年、誰とも結ばれなかったのは、彼女の「拗らせ」だけが原因ではなかったのだ。

 彼が。
 この冷酷な男が、陰で彼女の周囲をすべて焼き払っていた。

「……狂ってるわ」

「愛していると言ってほしいのかい? ウィステリア」

 アルバートが彼女の顎をくい、と持ち上げた。
 青い瞳が至近距離で燃えている。

「君が私を捨てたあの日から、私は一度も君を忘れたことはない。……君は私の幼馴染で、私の婚約者で、私の妻になる女性だ。他の誰にも、指一本触れさせるつもりはないよ」

「……っ、嫌、放して……!」

「いいや、放さない。もう二度とね」

 アルバートの唇が、彼女の耳元に寄せられる。

「明日、改めて婚約の申し入れを出す。……受けるね? 君に拒否権はない。お父上の破産を見たくないのなら」

 それは、世界で一番残酷なプロポーズだった。
 自由だと思っていた五年間は、彼が仕掛けた長い長い「狩り」の時間に過ぎなかったのだ。

 ウィステリアの頬を、一筋の涙が伝い落ちた。
 孤独の始まりだと思っていた五年前。けれど、本当の「孤独な戦い」は、今ここから始まろうとしていた。
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