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知らない私の、知らない恋人
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月日は、時に残酷なほど等しく、時に慈悲深く傷を癒しながら流れていく。
あの雨の日の絶縁から、二年の月日が流れた。
二十歳になった私は、かつての「伯爵家の大人しい末娘」ではなくなっていた。記憶の欠落は、皮肉にも私に新しい視点を与えてくれた。過去の自分という枠組みから解き放たれた私は、猛勉強の末、王立図書館の司書補としての仕事を得たのだ。
「エリカ、今日も遅くまで精が出るね」
「はい、お兄様。こちらの年代記の整理が終わるまでは帰りませんわ」
兄様は呆れながらも、自立していく私を眩しそうに見つめてくれる。
私の記憶は、今もあの日――リヒャルト様と出会った夜会までの三年間だけが、ぽっかりと抜け落ちたままだった。伯母の消息は誰も教えてくれないが、噂では異国の地で、しがない働き口を転々としているという。
そんな折、王家主催の晩餐会への招待状が届いた。
普段なら断るところだが、今回は図書館の予算交渉も兼ねている。私は重い腰を上げ、控えめな淡いグリーンのドレスを身に纏い、会場へと足を運んだ。
会場の喧騒は、いつだって私の肌に馴染まない。
グラスを片手に壁際で予算の算段を立てていた、その時だった。
「……エリカ?」
低く、地を這うような掠れた声。振り返った瞬間、私は危うくグラスを落としそうになった。そこに立っていたのは、一人の男性。二十九歳になったはずのリヒャルト・アシュベリー伯爵だった。
けれど、私の知る――あるいは、断片的な記憶に残る――精悍な彼の面影は、見る影もなく変貌していた。
頬はこけ、瑠璃色の瞳には深い絶望の澱が沈んでいる。かつて「氷の紳士」と謳われた凛々しさは消え、そこにあるのは、触れれば崩れてしまいそうなほど脆い、一人の敗残者の姿だった。
「……アシュベリー伯爵閣下。お久しぶりでございます」
私は努めて冷静に、淑女のカーテシーを執った。
彼は私のその「他人行儀」な挨拶に、まるで胸を剣で貫かれたかのように顔を歪ませた。
「お久しぶり……か。そうだな。君にとっては、あの日以来の『他人』なんだな」
リヒャルト様は震える足取りで一歩、私に近づいた。
その瞬間、私は無意識に半歩、後ずさりをした。
記憶はなくとも、身体が覚えているのだ。この人が纏う空気が、かつて私にどれほどの深い傷を与えたかを。
「エリカ、頼む。一度だけでいい、私と話をしてくれないか。君が私を忘れてからの二年、私は……私は一秒たりとも、君を忘れたことはなかった」
「閣下、私は仕事で参っております。それに、私と貴方の間には、もう話すべきことは何もないと兄から聞いておりますわ」
「何もないわけがない!」
彼の悲鳴のような怒声に、周囲の貴族たちが一斉にこちらを見た。
リヒャルト様は周囲の目など気にする余裕もないのか、縋るように私の両肩を掴んだ。
「君との婚約を破棄した後、私は狂ったように仕事に没頭した。君が愛した我が家を、この国を、守ることだけが私の贖罪だと思っていた。……だが、どれだけ功績を上げても、君の瞳に私が映らない。それが、これほどまでに、死ぬよりも辛いことだとは知らなかったんだ!」
彼の指先が、ドレスの生地越しに私の肌を締め付ける。
痛い、と言おうとした私の唇は、彼の瞳から溢れ出した涙を見て凍りついた。
「ミレイユとのことは、私の過ちだ。一生をかけても拭えない泥だ。だが、あの日から一度も、彼女に会ったことはない。彼女への情念など、あの日、君が血を流して倒れた瞬間に霧散した! 私が求めていたのは、彼女の面影ではなく……君だったんだ、エリカ!」
あまりに遅すぎる告白。あまりに身勝手な熱。私は彼の腕を、冷たく、けれど確かな力で振り払った。
「閣下。貴方が私を愛しているとおっしゃるその『私』は、貴方の裏切りを知って、絶望の中で死んだのです。……今の私は、貴方を知りません。貴方と愛し合った記憶も、貴方を憎んだ痛みも、すべてあの階段に置いてきました」
私は彼を真っ直ぐに見据えた。
「今の私にあるのは、貴方のいない、穏やかで誇り高い毎日です。……それを、貴方の後悔のために乱さないでください。それが、貴方にできる唯一の『誠実』ではありませんか?」
リヒャルト様は、口を半開きにしたまま固まった。
私の言葉は、彼がどれほど望んでも手に入れられない「赦し」を超えた、無関心という名の断罪だった。
「ああ……ああああ……っ」
彼はその場に崩れ落ち、顔を覆って慟哭した。
華やかな音楽が流れる会場で、一人の伯爵が泣き崩れる異様な光景。
私は一度も振り返ることなく、その場を去った。胸が少しだけ騒いだが、それはかつての恋の名残ではなく、ただの風が通り過ぎた後のような、虚無の音だった。
夜風に吹かれながら、私は夜空を見上げた。失った二年間は戻らない。けれど、私は今、自分の足で立っている。
――さようなら、私の知らない『婚約者様』
けれど、私はまだ知らなかった。
絶望の淵に叩き落とされたリヒャルト様が、この後、さらに狂気的なまでの「執着」を見せ始めることを。
______________
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あの雨の日の絶縁から、二年の月日が流れた。
二十歳になった私は、かつての「伯爵家の大人しい末娘」ではなくなっていた。記憶の欠落は、皮肉にも私に新しい視点を与えてくれた。過去の自分という枠組みから解き放たれた私は、猛勉強の末、王立図書館の司書補としての仕事を得たのだ。
「エリカ、今日も遅くまで精が出るね」
「はい、お兄様。こちらの年代記の整理が終わるまでは帰りませんわ」
兄様は呆れながらも、自立していく私を眩しそうに見つめてくれる。
私の記憶は、今もあの日――リヒャルト様と出会った夜会までの三年間だけが、ぽっかりと抜け落ちたままだった。伯母の消息は誰も教えてくれないが、噂では異国の地で、しがない働き口を転々としているという。
そんな折、王家主催の晩餐会への招待状が届いた。
普段なら断るところだが、今回は図書館の予算交渉も兼ねている。私は重い腰を上げ、控えめな淡いグリーンのドレスを身に纏い、会場へと足を運んだ。
会場の喧騒は、いつだって私の肌に馴染まない。
グラスを片手に壁際で予算の算段を立てていた、その時だった。
「……エリカ?」
低く、地を這うような掠れた声。振り返った瞬間、私は危うくグラスを落としそうになった。そこに立っていたのは、一人の男性。二十九歳になったはずのリヒャルト・アシュベリー伯爵だった。
けれど、私の知る――あるいは、断片的な記憶に残る――精悍な彼の面影は、見る影もなく変貌していた。
頬はこけ、瑠璃色の瞳には深い絶望の澱が沈んでいる。かつて「氷の紳士」と謳われた凛々しさは消え、そこにあるのは、触れれば崩れてしまいそうなほど脆い、一人の敗残者の姿だった。
「……アシュベリー伯爵閣下。お久しぶりでございます」
私は努めて冷静に、淑女のカーテシーを執った。
彼は私のその「他人行儀」な挨拶に、まるで胸を剣で貫かれたかのように顔を歪ませた。
「お久しぶり……か。そうだな。君にとっては、あの日以来の『他人』なんだな」
リヒャルト様は震える足取りで一歩、私に近づいた。
その瞬間、私は無意識に半歩、後ずさりをした。
記憶はなくとも、身体が覚えているのだ。この人が纏う空気が、かつて私にどれほどの深い傷を与えたかを。
「エリカ、頼む。一度だけでいい、私と話をしてくれないか。君が私を忘れてからの二年、私は……私は一秒たりとも、君を忘れたことはなかった」
「閣下、私は仕事で参っております。それに、私と貴方の間には、もう話すべきことは何もないと兄から聞いておりますわ」
「何もないわけがない!」
彼の悲鳴のような怒声に、周囲の貴族たちが一斉にこちらを見た。
リヒャルト様は周囲の目など気にする余裕もないのか、縋るように私の両肩を掴んだ。
「君との婚約を破棄した後、私は狂ったように仕事に没頭した。君が愛した我が家を、この国を、守ることだけが私の贖罪だと思っていた。……だが、どれだけ功績を上げても、君の瞳に私が映らない。それが、これほどまでに、死ぬよりも辛いことだとは知らなかったんだ!」
彼の指先が、ドレスの生地越しに私の肌を締め付ける。
痛い、と言おうとした私の唇は、彼の瞳から溢れ出した涙を見て凍りついた。
「ミレイユとのことは、私の過ちだ。一生をかけても拭えない泥だ。だが、あの日から一度も、彼女に会ったことはない。彼女への情念など、あの日、君が血を流して倒れた瞬間に霧散した! 私が求めていたのは、彼女の面影ではなく……君だったんだ、エリカ!」
あまりに遅すぎる告白。あまりに身勝手な熱。私は彼の腕を、冷たく、けれど確かな力で振り払った。
「閣下。貴方が私を愛しているとおっしゃるその『私』は、貴方の裏切りを知って、絶望の中で死んだのです。……今の私は、貴方を知りません。貴方と愛し合った記憶も、貴方を憎んだ痛みも、すべてあの階段に置いてきました」
私は彼を真っ直ぐに見据えた。
「今の私にあるのは、貴方のいない、穏やかで誇り高い毎日です。……それを、貴方の後悔のために乱さないでください。それが、貴方にできる唯一の『誠実』ではありませんか?」
リヒャルト様は、口を半開きにしたまま固まった。
私の言葉は、彼がどれほど望んでも手に入れられない「赦し」を超えた、無関心という名の断罪だった。
「ああ……ああああ……っ」
彼はその場に崩れ落ち、顔を覆って慟哭した。
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私は一度も振り返ることなく、その場を去った。胸が少しだけ騒いだが、それはかつての恋の名残ではなく、ただの風が通り過ぎた後のような、虚無の音だった。
夜風に吹かれながら、私は夜空を見上げた。失った二年間は戻らない。けれど、私は今、自分の足で立っている。
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けれど、私はまだ知らなかった。
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