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絶縁の門
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私が「ミレイユ伯母様」――三年前に半年だけ、母の婚家である我が家に滞在していた伯母の名を口にした瞬間、部屋の温度が数度下がったかのような錯覚を覚えた。
母様は顔を背けてハンカチを口に当て、父様は拳を固く握りしめて震えている。そして兄様は、氷のように冷たい眼差しをリヒャルト様へと向けた。
「エリカ……ミレイユのことなら、心配しなくていい。彼女はもう、この屋敷にはいないわ」
母様が震える声で言った。
私は不思議でならなかった。大好きだった、九歳しか年の離れていない美しい伯母様。仕事を持ち、自立している彼女は、かつての私の憧れだったはずなのに。
「いない……? また、住み込みでガヴァネスのお仕事に行かれたのですか?」
「いいえ。……彼女は、一族の恥を晒した。グロスナー家とは、もう無関係な人間だ」
父様の厳格な宣言。
その言葉の意味を理解できず、私はまごまごしている『婚約者』だと言うリヒャルト様を見た。彼は、私の質問に答える資格すらないと言わんばかりに、床の一点を見つめて絶望に沈んでいる。
その日の午後、私は兄様から「あの日」の出来事を少しだけ聞かされた。
もちろん、残酷な真実のすべてではない。
リヒャルト様とミレイユ伯母様が密会していたこと。それを目撃してショックを受けた私が階段から落ちたこと。
そして、駆けつけた使用人たちが、半狂乱のリヒャルト様と、寝衣姿で立ち尽くす伯母様を見つけたこと。
「エリカ、君は無理に思い出さなくていい。あの男も、あの女も、君の人生には不要な存在だ」
兄様は私の手を握り、言い含めるように言った。
私の記憶にある伯母様は、優しく、私を可愛がってくれた人だった。その伯母様が――私を傷つけ、忌むべき存在として語られるだなんて。
その時、屋敷の正門の方から騒がしい声が聞こえてきた。私は窓辺に寄り、カーテンの隙間から下を見下ろした。
そこには、みすぼらしい格好で門に縋り付く一人の女性がいた。ミレイユ伯母様だった。いつもは完璧に整えられていた金髪は乱れ、美しい顔は涙と泥で汚れている。
「開けて! お姉様、お義兄様! 私は悪くないわ、彼が……リヒャルトが誘ったのよ! 私一人だけが追い出されるなんて不公平だわ!」
彼女の叫び声は、二階の私の部屋まで届くほど凄惨だった。
門番たちは無表情に彼女を突き放す。かつて「お嬢様」と呼ばれた彼女は、今や不浄な存在として、文字通り門外に放り出されようとしていた。
「エリカは死んでないんでしょう? ならいいじゃない、あの子にはまだ若さがある。でも私はもう二十七なのよ! 今さらどこへ行けと言うの!」
その醜い叫びを聞いた瞬間、私の頭の中に、鋭い痛みが走った。
――「エリカは十九よ。あの子なら、他にも誰かと結婚できるわ。私はあなただけなの」
真っ暗な図書室で、甘く、毒を含んだ声が蘇る。
「……っ」
私はこめかみを押さえて蹲った。
断片的な映像。重なる二人の影。百合の香水の匂い。
記憶は戻らない。けれど、「嫌悪」の感情だけが、身体の細胞一つ一つに刻まれていることを自覚した。
門の外では、伯母を冷淡に見下ろす男の背中があった。リヒャルト様だ。
彼は屋敷を追い出され、馬車に乗る直前だった。伯母が彼に縋り付こうとする。
「リヒャルト、お願い、あなたからお姉様に言って! 私を助けて、愛していると言ってくれたじゃない!」
リヒャルト様は、まるで汚物を見るような目で伯母を一瞥した。
その瞳には、かつての情熱も、思慕も、欠片も残っていなかった。あるのは、自分自身の過ちの象徴である彼女に対する、剥き出しの憎悪だけだった。
「……消えろ。二度とその汚らわしい口で、私の名を呼ぶな」
冷酷な一言。彼は伯母を振り切り、馬車に飛び乗った。
残された伯母は、雨が降り出した石畳の上にへたり込み、獣のような悲鳴を上げた。
その光景を見て、私は不思議と「ざまぁみろ」とは思わなかった。ただ、ひたすらに、空虚だった。
激しく愛し合い、私の人生を壊すほど惹かれ合っていたと説明された二人が、いとも容易く憎み合い、切り捨て合う。
それが「大人の恋」なのだとしたら、私は一生、子供のままでいたいと思った。
馬車が動き出す直前、リヒャルト様が私の部屋の窓を見上げた。雨に濡れた彼の顔は、まるで死人のように生気がなかった。
彼は私の姿を見つけると、一瞬だけ、絶望の中に微かな光を宿したような顔をして、深く、深く頭を下げた。
謝罪。あるいは、決別。私は無言でカーテンを閉めた。
今の私には、彼を許すための記憶もなければ、彼を憎み続けるための感情すら欠けていた。
「お兄様」
「なんだい、エリカ」
「……私、もう一度、勉強をやり直したいです。学園に戻ることはできないけれど、もっと広い世界を知りたい。……私自身として生きていけるように」
兄様は驚いたように目を見開き、それから優しく私の頭を撫でた。
こうして、私の「幸せな婚約期間」は幕を閉じた。
婚約は正式に破棄され、伯母は絶縁。私の周りから、不浄なものはすべて消え去った。
けれど、物語はここでは終わらなかった。記憶を失った私と、過去という呪縛に囚われ、狂い始めた元婚約者。
二人の本当の「地獄」と「救済」は、ここから始まるのだ。
______________
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母様は顔を背けてハンカチを口に当て、父様は拳を固く握りしめて震えている。そして兄様は、氷のように冷たい眼差しをリヒャルト様へと向けた。
「エリカ……ミレイユのことなら、心配しなくていい。彼女はもう、この屋敷にはいないわ」
母様が震える声で言った。
私は不思議でならなかった。大好きだった、九歳しか年の離れていない美しい伯母様。仕事を持ち、自立している彼女は、かつての私の憧れだったはずなのに。
「いない……? また、住み込みでガヴァネスのお仕事に行かれたのですか?」
「いいえ。……彼女は、一族の恥を晒した。グロスナー家とは、もう無関係な人間だ」
父様の厳格な宣言。
その言葉の意味を理解できず、私はまごまごしている『婚約者』だと言うリヒャルト様を見た。彼は、私の質問に答える資格すらないと言わんばかりに、床の一点を見つめて絶望に沈んでいる。
その日の午後、私は兄様から「あの日」の出来事を少しだけ聞かされた。
もちろん、残酷な真実のすべてではない。
リヒャルト様とミレイユ伯母様が密会していたこと。それを目撃してショックを受けた私が階段から落ちたこと。
そして、駆けつけた使用人たちが、半狂乱のリヒャルト様と、寝衣姿で立ち尽くす伯母様を見つけたこと。
「エリカ、君は無理に思い出さなくていい。あの男も、あの女も、君の人生には不要な存在だ」
兄様は私の手を握り、言い含めるように言った。
私の記憶にある伯母様は、優しく、私を可愛がってくれた人だった。その伯母様が――私を傷つけ、忌むべき存在として語られるだなんて。
その時、屋敷の正門の方から騒がしい声が聞こえてきた。私は窓辺に寄り、カーテンの隙間から下を見下ろした。
そこには、みすぼらしい格好で門に縋り付く一人の女性がいた。ミレイユ伯母様だった。いつもは完璧に整えられていた金髪は乱れ、美しい顔は涙と泥で汚れている。
「開けて! お姉様、お義兄様! 私は悪くないわ、彼が……リヒャルトが誘ったのよ! 私一人だけが追い出されるなんて不公平だわ!」
彼女の叫び声は、二階の私の部屋まで届くほど凄惨だった。
門番たちは無表情に彼女を突き放す。かつて「お嬢様」と呼ばれた彼女は、今や不浄な存在として、文字通り門外に放り出されようとしていた。
「エリカは死んでないんでしょう? ならいいじゃない、あの子にはまだ若さがある。でも私はもう二十七なのよ! 今さらどこへ行けと言うの!」
その醜い叫びを聞いた瞬間、私の頭の中に、鋭い痛みが走った。
――「エリカは十九よ。あの子なら、他にも誰かと結婚できるわ。私はあなただけなの」
真っ暗な図書室で、甘く、毒を含んだ声が蘇る。
「……っ」
私はこめかみを押さえて蹲った。
断片的な映像。重なる二人の影。百合の香水の匂い。
記憶は戻らない。けれど、「嫌悪」の感情だけが、身体の細胞一つ一つに刻まれていることを自覚した。
門の外では、伯母を冷淡に見下ろす男の背中があった。リヒャルト様だ。
彼は屋敷を追い出され、馬車に乗る直前だった。伯母が彼に縋り付こうとする。
「リヒャルト、お願い、あなたからお姉様に言って! 私を助けて、愛していると言ってくれたじゃない!」
リヒャルト様は、まるで汚物を見るような目で伯母を一瞥した。
その瞳には、かつての情熱も、思慕も、欠片も残っていなかった。あるのは、自分自身の過ちの象徴である彼女に対する、剥き出しの憎悪だけだった。
「……消えろ。二度とその汚らわしい口で、私の名を呼ぶな」
冷酷な一言。彼は伯母を振り切り、馬車に飛び乗った。
残された伯母は、雨が降り出した石畳の上にへたり込み、獣のような悲鳴を上げた。
その光景を見て、私は不思議と「ざまぁみろ」とは思わなかった。ただ、ひたすらに、空虚だった。
激しく愛し合い、私の人生を壊すほど惹かれ合っていたと説明された二人が、いとも容易く憎み合い、切り捨て合う。
それが「大人の恋」なのだとしたら、私は一生、子供のままでいたいと思った。
馬車が動き出す直前、リヒャルト様が私の部屋の窓を見上げた。雨に濡れた彼の顔は、まるで死人のように生気がなかった。
彼は私の姿を見つけると、一瞬だけ、絶望の中に微かな光を宿したような顔をして、深く、深く頭を下げた。
謝罪。あるいは、決別。私は無言でカーテンを閉めた。
今の私には、彼を許すための記憶もなければ、彼を憎み続けるための感情すら欠けていた。
「お兄様」
「なんだい、エリカ」
「……私、もう一度、勉強をやり直したいです。学園に戻ることはできないけれど、もっと広い世界を知りたい。……私自身として生きていけるように」
兄様は驚いたように目を見開き、それから優しく私の頭を撫でた。
こうして、私の「幸せな婚約期間」は幕を閉じた。
婚約は正式に破棄され、伯母は絶縁。私の周りから、不浄なものはすべて消え去った。
けれど、物語はここでは終わらなかった。記憶を失った私と、過去という呪縛に囚われ、狂い始めた元婚約者。
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