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真っ白な世界
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深い、深い闇の底にいた。どこまでも冷たくて、けれど静かな場所。そこに留まっていたかったのに、遠くから誰かが私を呼ぶ声がする。ひどく悲痛で、絞り出すような、聞き覚えのある声。
(……うるさいわ。……このまま、放っておいて……)
そう思うのに、意識は無情にも浮上していく。まぶたの裏に光が差し込み、私はゆっくりと瞳を開けた。
「……っ、エリカ!? エリカ、分かるかい!」
視界がぼやける。真っ白な天井、見慣れた天蓋。どうやら自分の部屋のようだ。すぐ傍らから、温かくて大きな手が私の手を握りしめてくるのが分かった。視線を向けると、そこには一人の男性がいた。
ひどい顔だった。整っているはずの顔立ちは青白く、目の下には深い隈がある。無精髭が伸び、服は皺だらけだ。彼は私が目を覚ましたことに、今にも泣き出しそうな――いいえ、実際に涙を溢れさせながら、私の手を頬に寄せた。
「ああ、神様……感謝します。三日だ、三日も君は眠り続けていた。……もう二度と、目覚めないのではないかと……」
男の人は、壊れ物を扱うように私の指先に口付けを落とす。
その瑠璃色の瞳には、狂おしいほどの情愛と、それ以上の後悔が滲んでいた。
私は、困惑した。
この人は、誰だろう。
ひどく美しくて、私を大切に思ってくれていることは伝わる。けれど、私の記憶のどこを探しても、この「大人の男性」に心当たりがなかった。
「……あの、ええと」
声を出すと、喉が焼けるように痛んだ。
彼は慌てて水差しからコップに水を注ぎ、私の頭を優しく支えて飲ませてくれる。
「ゆっくりでいい。まだ無理をしてはいけないよ」
「ありがとうございます……。……あの、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だい? 何でも言ってくれ。私の命に代えても叶えよう」
大袈裟な人だな、と私は思った。
私は少し身を引き、握られたままの手を、失礼にならないようそっと引き抜いた。
その瞬間、彼の顔が凍りついた。
「……どちら様、でしょうか。アシュベリー伯爵……様、でいらっしゃいますか?」
彼の紋章が入った上着が椅子に掛かっていたから、かろうじて身分は推測できた。けれど、個人の名前までは思い出せない。
リヒャルトの瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれた。
「エリカ……何を、言っているんだ? リヒャルトだ。君の、『婚約者』のリヒャルトだよ。冗談だと言ってくれ。……私を、忘れたのかい?」
『婚約者』、その言葉に、私はさらに首を傾げた。
「ごめんなさい。私、まだ学園に入学したばかりなのですが……。婚約のお話なんて、まだ先のことだと思っていましたわ。……なにか、お間違えでは?」
部屋の空気が一変した。傍らに控えていた私の侍女が、息を呑んで口を覆う。
「リヒャルト様」と呼ばれた男性は、差し出したままの自分の手を見つめ、ガタガタと震え始めた。
「学園……? 君は、二ヶ月前に卒業したばかりじゃないか。それから私と出会って、婚約して、毎日あんなに……あんなに幸せそうに笑ってくれていたのに……」
彼の言葉を聞いても、私の心には何の波紋も起きない。
まるで、知らない誰かの恋物語を聞かされているような気分だった。
そこへ、騒ぎを聞きつけた父と母、そして兄様が飛び込んできた。
「エリカ! 気がついたのか!」
「お父様、お母様、お兄様……」
三人の顔を見て、私は心から安堵して微笑んだ。
「よかった…… みんなのことは覚えているわ。……なんだか、変な夢を見ていたみたいで」
家族の顔は判別できる。自分の名前も、家柄も分かる。
けれど、この部屋の隅で、魂が抜けたように立ち尽くしている『婚約者』のことだけが、綺麗さっぱり抜け落ちていた。
医者が呼ばれ、慌ただしく診察が始まる。
診断の結果は、頭部を強打したことによる一時的な記憶障害。特に、直近三年の記憶が欠落しているとのことだった。
「そんな……そんなことが」
母様が泣き崩れる。兄様は、鋭い目をしてリヒャルト様を睨みつけた。
「アシュベリー伯爵。妹がなぜ階段から落ちたのか、その理由は後でたっぷりと伺いましょう。……今は、彼女に近づかないでいただきたい。見ての通り、エリカは混乱している」
「……待ってくれ。私は、私は彼女を愛しているんだ! 記憶がなくても、また一から積み上げればいい。お願いだ、エリカの側にいさせてくれ!」
リヒャルト様が縋るように私のベッドへ歩み寄ろうとした。
私は思わず、布団を肩まで引き上げ、兄様の背中に隠れた。
怖い。この方の瞳は、あまりに熱くて、重すぎて、今の私には耐えられなかった。
「……っ」
リヒャルト様がその場に膝をついた。彼の手が、空を掴むように力なく床に落ちる。
「私を、忘れてしまったのか……? あんなに愛し合っていたのに。あの夜、君が私に言った言葉も……すべて、なかったことになったのか……」
彼が何を言っているのかは分からない。けれど、その絶望に染まった姿を見ても、私の胸が痛むことはなかった。
ただ、心のどこかで、不思議な感覚があった。
――真っ白になった記憶の海。
そこに、ほんの少しだけ、ドロリとした黒い影が沈んでいるような。
「あの……。伯母様は、どこにいらっしゃるのですか? ミレイユ伯母様にも、お会いしたいわ」
私が無垢に放ったその一言が、部屋にいた全員を、二度目の沈黙へと突き落とした。
______________
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(……うるさいわ。……このまま、放っておいて……)
そう思うのに、意識は無情にも浮上していく。まぶたの裏に光が差し込み、私はゆっくりと瞳を開けた。
「……っ、エリカ!? エリカ、分かるかい!」
視界がぼやける。真っ白な天井、見慣れた天蓋。どうやら自分の部屋のようだ。すぐ傍らから、温かくて大きな手が私の手を握りしめてくるのが分かった。視線を向けると、そこには一人の男性がいた。
ひどい顔だった。整っているはずの顔立ちは青白く、目の下には深い隈がある。無精髭が伸び、服は皺だらけだ。彼は私が目を覚ましたことに、今にも泣き出しそうな――いいえ、実際に涙を溢れさせながら、私の手を頬に寄せた。
「ああ、神様……感謝します。三日だ、三日も君は眠り続けていた。……もう二度と、目覚めないのではないかと……」
男の人は、壊れ物を扱うように私の指先に口付けを落とす。
その瑠璃色の瞳には、狂おしいほどの情愛と、それ以上の後悔が滲んでいた。
私は、困惑した。
この人は、誰だろう。
ひどく美しくて、私を大切に思ってくれていることは伝わる。けれど、私の記憶のどこを探しても、この「大人の男性」に心当たりがなかった。
「……あの、ええと」
声を出すと、喉が焼けるように痛んだ。
彼は慌てて水差しからコップに水を注ぎ、私の頭を優しく支えて飲ませてくれる。
「ゆっくりでいい。まだ無理をしてはいけないよ」
「ありがとうございます……。……あの、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だい? 何でも言ってくれ。私の命に代えても叶えよう」
大袈裟な人だな、と私は思った。
私は少し身を引き、握られたままの手を、失礼にならないようそっと引き抜いた。
その瞬間、彼の顔が凍りついた。
「……どちら様、でしょうか。アシュベリー伯爵……様、でいらっしゃいますか?」
彼の紋章が入った上着が椅子に掛かっていたから、かろうじて身分は推測できた。けれど、個人の名前までは思い出せない。
リヒャルトの瞳が、これ以上ないほど大きく見開かれた。
「エリカ……何を、言っているんだ? リヒャルトだ。君の、『婚約者』のリヒャルトだよ。冗談だと言ってくれ。……私を、忘れたのかい?」
『婚約者』、その言葉に、私はさらに首を傾げた。
「ごめんなさい。私、まだ学園に入学したばかりなのですが……。婚約のお話なんて、まだ先のことだと思っていましたわ。……なにか、お間違えでは?」
部屋の空気が一変した。傍らに控えていた私の侍女が、息を呑んで口を覆う。
「リヒャルト様」と呼ばれた男性は、差し出したままの自分の手を見つめ、ガタガタと震え始めた。
「学園……? 君は、二ヶ月前に卒業したばかりじゃないか。それから私と出会って、婚約して、毎日あんなに……あんなに幸せそうに笑ってくれていたのに……」
彼の言葉を聞いても、私の心には何の波紋も起きない。
まるで、知らない誰かの恋物語を聞かされているような気分だった。
そこへ、騒ぎを聞きつけた父と母、そして兄様が飛び込んできた。
「エリカ! 気がついたのか!」
「お父様、お母様、お兄様……」
三人の顔を見て、私は心から安堵して微笑んだ。
「よかった…… みんなのことは覚えているわ。……なんだか、変な夢を見ていたみたいで」
家族の顔は判別できる。自分の名前も、家柄も分かる。
けれど、この部屋の隅で、魂が抜けたように立ち尽くしている『婚約者』のことだけが、綺麗さっぱり抜け落ちていた。
医者が呼ばれ、慌ただしく診察が始まる。
診断の結果は、頭部を強打したことによる一時的な記憶障害。特に、直近三年の記憶が欠落しているとのことだった。
「そんな……そんなことが」
母様が泣き崩れる。兄様は、鋭い目をしてリヒャルト様を睨みつけた。
「アシュベリー伯爵。妹がなぜ階段から落ちたのか、その理由は後でたっぷりと伺いましょう。……今は、彼女に近づかないでいただきたい。見ての通り、エリカは混乱している」
「……待ってくれ。私は、私は彼女を愛しているんだ! 記憶がなくても、また一から積み上げればいい。お願いだ、エリカの側にいさせてくれ!」
リヒャルト様が縋るように私のベッドへ歩み寄ろうとした。
私は思わず、布団を肩まで引き上げ、兄様の背中に隠れた。
怖い。この方の瞳は、あまりに熱くて、重すぎて、今の私には耐えられなかった。
「……っ」
リヒャルト様がその場に膝をついた。彼の手が、空を掴むように力なく床に落ちる。
「私を、忘れてしまったのか……? あんなに愛し合っていたのに。あの夜、君が私に言った言葉も……すべて、なかったことになったのか……」
彼が何を言っているのかは分からない。けれど、その絶望に染まった姿を見ても、私の胸が痛むことはなかった。
ただ、心のどこかで、不思議な感覚があった。
――真っ白になった記憶の海。
そこに、ほんの少しだけ、ドロリとした黒い影が沈んでいるような。
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