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夜の帷、百合の罠
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病み上がりで体が重い。けれど、私は寝台でじっとしていることなどできなかった。
リヒャルト様が、日課となった私への見舞いから帰ってから、数時間が経った。屋敷の中は、夜の静寂に包まれている。
父は領地の用事で不在、母も知人の夜会に出かけ、兄は学友たちとの外食で夜更かしを決め込んでいた。
――今、この屋敷にいる主人は、私と、そして離れに滞在する伯母のミレイユだけだ。
私はガウンを羽織り、自室を出た。廊下の冷たい空気が、まだ微かに熱い肌に心地よい。なぜか確信があった。今夜、何かが起こる。あの二人が、この空白の時間を逃すはずがない。
使用人たちが仕事を終えた夜。屋敷の奥、あまり使われていない図書室の扉が、僅かに開いているのを見つけた。
漏れ出す微かな灯り。そこから漂ってくるのは、あの忌まわしい百合の香りと、独り言のような低い男の声。
「……こんな夜更けに呼び出すなんて、ミレイユ、非常識だろう」
「あら、でも、来てくださったじゃない。非常識だと分かっていて、わざわざ裏門から入ってくださるなんて……リヒャルト、あなたは本当に、昔からお優しいわ」
心臓が耳元で鳴っている。私は息を殺し、扉の隙間から中を覗き込んだ。
月の光が差し込む図書室の中。リヒャルト様は、マントも脱がずに立っていた。その正面には、薄衣のような寝衣を纏った伯母が、挑発するようにソファに腰掛けている。
彼女の白い脚が、わざとらしく露わになっていた。
「もう帰る。エリカに顔向けできない」
「顔向け? 可笑しいわ。あなたは毎日、私に似たあの子を抱きしめるたびに、私を思い出しているのでしょう? あの子の肌に触れる指先は、私の滑らかさを探しているのでしょう?」
「黙れ!」
リヒャルト様が声を荒らげた。
けれど、それは拒絶というよりは、図星を突かれた者の悲鳴に近い。
伯母は立ち上がり、音もなくリヒャルト様に近づいた。彼女の細い指が、彼の胸元を這い、ネクタイを緩めていく。
「あなたは正直ね、リヒャルト。あの子は十九歳。瑞々しいけれど、男を狂わせる深みがない。あの子は、あなたが夜ごとに抱える孤独を知らない。……私だけなのよ。あなたの『最初』を奪い、あなたの野心も、弱さも、すべてを知り尽くしているのは」
「ミレイユ、私は……私はエリカと結婚するんだ。彼女を幸せにすると誓った」
「ええ、誓えばいいわ。結婚して、貞淑な夫を演じればいい。でも、その心の最奥にある火を消せるかしら? 今夜、こうして私の元へ来てしまった、あなたの本能を」
伯母の体が、リヒャルト様の胸にぴったりと押し付けられた。
リヒャルト様の大きな手が、彼女の肩を突き放そうとして――そのまま、震えながら彼女の腰に回された。
「……っ、君は、悪魔だ」
「そうよ。あなたの愛した、地獄の悪魔。……ねえ、リヒャルト。あの子には教えない。私たちだけの秘密にしましょう。ただの一夜、昔に戻るだけ。あの子は、誰かと結婚できるわ。若くて、無垢な伯爵令嬢なんですもの。でも私は……私は、あなたを失ったら、もう何も残らないの……」
伯母の声が、涙を含んだ湿っぽい響きに変わる。
リヒャルト様の理性が、音を立てて崩れるのが分かった。彼は伯母を乱暴に抱き寄せ、その唇を塞いだ。
暗がりのなかで絡み合う二人の影。月光に照らされたリヒャルト様の顔は、陶酔と絶望が入り混じった、私の知らない「男」の顔をしていた。
――ああ、やっぱり。
私の存在なんて、この二人の濃密な歴史の前では、一片の塵にも満たないのだ。
「一目惚れ」?「君以外にいない」?
そんな言葉はすべて、かつての恋人に似た人形を手に入れるための、自分自身への言い訳だった。
頭が割れるように痛い。視界が急激に暗くなり、足元の感覚が消えていく。
私は逃げ出そうとして、一歩、後ろに下がった。そこには、掃除用の木製バケツが置かれていた。ガラガラッ、と派手な音が廊下に響き渡る。
「……誰だ!」
リヒャルト様の鋭い声。
私は振り向かず、ただ夢中で走った。涙が溢れて、前が見えない。
「エリカ!? エリカ、待ってくれ!」背後からリヒャルト様の足音が追ってくる。
私は階段の踊り場までたどり着き、下を見下ろした。暗い階段の先は、奈落のように見えた。
「来ないで……! 見たくない、何も聞きたくない!」
叫んだ瞬間、濡れた床に足を取られた。一瞬の浮遊感。視界が大きく回転し、次の瞬間、私は硬い大理石の床へと叩きつけられた。
ゴン、という鈍い音。
頭の奥で何かが弾けるような感覚。じわり、と温かい液体が額を伝って流れ落ちる。
「エリカ!! エリカ!!」
駆け寄ってくるリヒャルト様の絶叫が、遠く…… 遠くへ消えていく。
最後に見たのは、血の海に沈む自分の視界の端で、恐怖に顔を歪ませた伯母と、私を抱き上げるリヒャルト様の、泣きそうな顔だった。
(ああ……忘れたい)
こんなに苦しいなら、こんなに胸が張り裂けそうなら。
彼に出会ってからの二年間を、最初からなかったことにしたい。
私は、深い深い闇の底へと、静かに沈んでいった。
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リヒャルト様が、日課となった私への見舞いから帰ってから、数時間が経った。屋敷の中は、夜の静寂に包まれている。
父は領地の用事で不在、母も知人の夜会に出かけ、兄は学友たちとの外食で夜更かしを決め込んでいた。
――今、この屋敷にいる主人は、私と、そして離れに滞在する伯母のミレイユだけだ。
私はガウンを羽織り、自室を出た。廊下の冷たい空気が、まだ微かに熱い肌に心地よい。なぜか確信があった。今夜、何かが起こる。あの二人が、この空白の時間を逃すはずがない。
使用人たちが仕事を終えた夜。屋敷の奥、あまり使われていない図書室の扉が、僅かに開いているのを見つけた。
漏れ出す微かな灯り。そこから漂ってくるのは、あの忌まわしい百合の香りと、独り言のような低い男の声。
「……こんな夜更けに呼び出すなんて、ミレイユ、非常識だろう」
「あら、でも、来てくださったじゃない。非常識だと分かっていて、わざわざ裏門から入ってくださるなんて……リヒャルト、あなたは本当に、昔からお優しいわ」
心臓が耳元で鳴っている。私は息を殺し、扉の隙間から中を覗き込んだ。
月の光が差し込む図書室の中。リヒャルト様は、マントも脱がずに立っていた。その正面には、薄衣のような寝衣を纏った伯母が、挑発するようにソファに腰掛けている。
彼女の白い脚が、わざとらしく露わになっていた。
「もう帰る。エリカに顔向けできない」
「顔向け? 可笑しいわ。あなたは毎日、私に似たあの子を抱きしめるたびに、私を思い出しているのでしょう? あの子の肌に触れる指先は、私の滑らかさを探しているのでしょう?」
「黙れ!」
リヒャルト様が声を荒らげた。
けれど、それは拒絶というよりは、図星を突かれた者の悲鳴に近い。
伯母は立ち上がり、音もなくリヒャルト様に近づいた。彼女の細い指が、彼の胸元を這い、ネクタイを緩めていく。
「あなたは正直ね、リヒャルト。あの子は十九歳。瑞々しいけれど、男を狂わせる深みがない。あの子は、あなたが夜ごとに抱える孤独を知らない。……私だけなのよ。あなたの『最初』を奪い、あなたの野心も、弱さも、すべてを知り尽くしているのは」
「ミレイユ、私は……私はエリカと結婚するんだ。彼女を幸せにすると誓った」
「ええ、誓えばいいわ。結婚して、貞淑な夫を演じればいい。でも、その心の最奥にある火を消せるかしら? 今夜、こうして私の元へ来てしまった、あなたの本能を」
伯母の体が、リヒャルト様の胸にぴったりと押し付けられた。
リヒャルト様の大きな手が、彼女の肩を突き放そうとして――そのまま、震えながら彼女の腰に回された。
「……っ、君は、悪魔だ」
「そうよ。あなたの愛した、地獄の悪魔。……ねえ、リヒャルト。あの子には教えない。私たちだけの秘密にしましょう。ただの一夜、昔に戻るだけ。あの子は、誰かと結婚できるわ。若くて、無垢な伯爵令嬢なんですもの。でも私は……私は、あなたを失ったら、もう何も残らないの……」
伯母の声が、涙を含んだ湿っぽい響きに変わる。
リヒャルト様の理性が、音を立てて崩れるのが分かった。彼は伯母を乱暴に抱き寄せ、その唇を塞いだ。
暗がりのなかで絡み合う二人の影。月光に照らされたリヒャルト様の顔は、陶酔と絶望が入り混じった、私の知らない「男」の顔をしていた。
――ああ、やっぱり。
私の存在なんて、この二人の濃密な歴史の前では、一片の塵にも満たないのだ。
「一目惚れ」?「君以外にいない」?
そんな言葉はすべて、かつての恋人に似た人形を手に入れるための、自分自身への言い訳だった。
頭が割れるように痛い。視界が急激に暗くなり、足元の感覚が消えていく。
私は逃げ出そうとして、一歩、後ろに下がった。そこには、掃除用の木製バケツが置かれていた。ガラガラッ、と派手な音が廊下に響き渡る。
「……誰だ!」
リヒャルト様の鋭い声。
私は振り向かず、ただ夢中で走った。涙が溢れて、前が見えない。
「エリカ!? エリカ、待ってくれ!」背後からリヒャルト様の足音が追ってくる。
私は階段の踊り場までたどり着き、下を見下ろした。暗い階段の先は、奈落のように見えた。
「来ないで……! 見たくない、何も聞きたくない!」
叫んだ瞬間、濡れた床に足を取られた。一瞬の浮遊感。視界が大きく回転し、次の瞬間、私は硬い大理石の床へと叩きつけられた。
ゴン、という鈍い音。
頭の奥で何かが弾けるような感覚。じわり、と温かい液体が額を伝って流れ落ちる。
「エリカ!! エリカ!!」
駆け寄ってくるリヒャルト様の絶叫が、遠く…… 遠くへ消えていく。
最後に見たのは、血の海に沈む自分の視界の端で、恐怖に顔を歪ませた伯母と、私を抱き上げるリヒャルト様の、泣きそうな顔だった。
(ああ……忘れたい)
こんなに苦しいなら、こんなに胸が張り裂けそうなら。
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