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あまりに白々しい嘘
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翌日、高熱に浮かされる私の枕元に、リヒャルト様が現れた。
執事が止めるのも聞かず、彼は私の寝室へと入ってきたという。その顔には、隠しようのない焦燥と、痛々しいほどの心配の色が浮かんでいた。
「エリカ……! ひどい熱だ。昨日は邸まで来てくれたというのに、会えなくてすまなかった。顔色が赤く火照って、こんなに汗で濡れている……」
彼は私のベッドの脇に跪き、温かい掌で私の額に触れた。
いつもなら、その温もりに安堵し、甘えていただろう。けれど、今の私は、彼の指先が触れるたびに肌が粟立つような嫌悪感を覚えていた。
鼻腔を突いたのは、彼がいつも纏っている爽やかなシダーの香り――だけではない。その奥に混じる、甘く、ねっとりとした百合の芳香。
それは間違いなく、伯母が好んで使っている香水の匂いだった。
「……リヒャルト様、……昨日は。伯母と…… 何を……話していらしたの……ですか……?」
掠れた声で問いかけると、リヒャルト様の眉が微かに動いた。
彼は一瞬だけ視線を泳がせ、それから無理に作ったような穏やかな微笑を浮かべた。
「……あ、ああ、彼女か。……君には心配をかけたくなかったのだが、彼女は仕事のことで悩んでいたようでね。私の知人に有力なパトロンがいないか相談されただけだよ。君との婚約を祝う言葉ももらった。他愛のない世間話さ」
嘘だ。あまりに白々しく、あまりに滑らかな嘘。
あんなに苦しげに、あんなに熱っぽく名前を呼び合っていた二人が、ただの「世間話」で済むはずがない。
「……そうですか。伯母は、私には何も…… 相談してくれません……けれど……」
「彼女もプライドが高いのだろう。エリカ、そんなことより今は休むんだ。君の体が一番大切だよ」
リヒャルト様は、私を慈しむように何度も髪を撫でた。
その手つきは、記憶にあるどの時よりも丁寧で、過剰なほどに優しかった。まるでお菓子にたっぷりと砂糖をまぶして、中にある苦い薬を隠そうとする子供のように。
その優しさが、今の私には猛毒だった。
私を愛しているから優しいのではない。私に対して罪悪感があるから、彼はこんなにも献身的なのだ。
背信を隠すための対価として差し出される愛情。それを喜んで受け取るほど、私はお人好しではいられなかった。
「リヒャルト様……。もし、私に隠し事があるのなら、今のうちに言ってください」
「隠し事? まさか。私は君に対して、常に誠実でありたいと思っている」
誠実。その言葉が彼の口から出た瞬間、私は笑い出しそうになるのを必死で堪えた。
かつての恋人と密室で過ごし、その香りを纏ったまま、婚約者の病室で愛を語る。それが彼の言う「誠実」なのだろうか。
「……少し、疲れました。少し眠らせてください」
「……ああ。そうだね。無理をさせた。また明日、必ず来るから」
彼は名残惜しそうに私の手に唇を寄せ、部屋を去っていった。
扉が閉まる音が響く。静寂が戻った寝室で、私は彼が触れた方の手をシーツで乱暴に拭った。拭っても、拭っても、あの百合の匂いがまとわりついているような気がして不快でならない。
リヒャルト様は、伯母ミレイユを拒絶しきれていない。
彼の中にある「初めての女性」への思慕は、十年という月日を経て、捨てられた憎しみとともに、歪な執着へと変貌している。
そして伯母もまた、それを理解して彼を煽っている。
私は、その火遊びの合間に置かれた、無害な身代わりに過ぎないのではないか。学園を卒業したばかりの、何も知らない、汚れなき令嬢。
彼らがドロドロとした過去を清算するための、免罪符としての結婚。
――許せない。熱のせいか、それとも怒りのせいか、視界が赤く染まる。
私はベッドから這い出し、鏡の前に立った。鏡の中の私は、熱に浮かされて顔を真っ赤にし、汗で髪を額に貼りつかせている。それでも――輪郭や面差しは、伯母と驚くほど似ていた。
けれど瞳にはまだ、彼女のような狡猾さも、絶望も宿っていない。
その時、廊下から話し声が聞こえた。聞き慣れた、伯母の声だ。
「あら、アシュベリー伯爵様。お帰りですの? ……エリカの様子はどうかしら」
「……ミレイユ。君は、あまりここへは来ない方がいい」
「冷たいわね。私だって姪のことが心配なのよ。……ねえ、リヒャルト。昨日の続き、また今度ゆっくり聞かせてくれる? あなたが、今の生活にどれだけ『退屈』しているのかを」
くすくすと笑う伯母の声。
リヒャルト様が何かを言い返そうとして、言葉に詰まったような気配がした。
私は震える手で壁を伝い、扉に耳を押し当てた。二人の気配が、どんどん近づいてくる。
伯母は知っているのだ。リヒャルト様の理性が、今にも崩れそうなことを。
そしてリヒャルト様も、自分が崖っぷちに立っていることを自覚している。
幸せなはずの婚約期間は、もうどこにもなかった。そこにあるのは、過去に囚われた男と、過去を食い物にする女。
そして、その狭間で、ただ一人真実を突きつけられた私だけだった。
「……壊してやる」
誰にともなく、呟きが漏れた。
こんな偽りの幸福なら、いっそ粉々に砕けてしまえばいい。私が彼を信じていた時間は、最初から幻だったのだから。
窓の外では、夕闇が迫っていた。私の心もまた、深い闇の中に沈んでいく。
運命のカウントダウンが、静かに始まっていた。
______________
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執事が止めるのも聞かず、彼は私の寝室へと入ってきたという。その顔には、隠しようのない焦燥と、痛々しいほどの心配の色が浮かんでいた。
「エリカ……! ひどい熱だ。昨日は邸まで来てくれたというのに、会えなくてすまなかった。顔色が赤く火照って、こんなに汗で濡れている……」
彼は私のベッドの脇に跪き、温かい掌で私の額に触れた。
いつもなら、その温もりに安堵し、甘えていただろう。けれど、今の私は、彼の指先が触れるたびに肌が粟立つような嫌悪感を覚えていた。
鼻腔を突いたのは、彼がいつも纏っている爽やかなシダーの香り――だけではない。その奥に混じる、甘く、ねっとりとした百合の芳香。
それは間違いなく、伯母が好んで使っている香水の匂いだった。
「……リヒャルト様、……昨日は。伯母と…… 何を……話していらしたの……ですか……?」
掠れた声で問いかけると、リヒャルト様の眉が微かに動いた。
彼は一瞬だけ視線を泳がせ、それから無理に作ったような穏やかな微笑を浮かべた。
「……あ、ああ、彼女か。……君には心配をかけたくなかったのだが、彼女は仕事のことで悩んでいたようでね。私の知人に有力なパトロンがいないか相談されただけだよ。君との婚約を祝う言葉ももらった。他愛のない世間話さ」
嘘だ。あまりに白々しく、あまりに滑らかな嘘。
あんなに苦しげに、あんなに熱っぽく名前を呼び合っていた二人が、ただの「世間話」で済むはずがない。
「……そうですか。伯母は、私には何も…… 相談してくれません……けれど……」
「彼女もプライドが高いのだろう。エリカ、そんなことより今は休むんだ。君の体が一番大切だよ」
リヒャルト様は、私を慈しむように何度も髪を撫でた。
その手つきは、記憶にあるどの時よりも丁寧で、過剰なほどに優しかった。まるでお菓子にたっぷりと砂糖をまぶして、中にある苦い薬を隠そうとする子供のように。
その優しさが、今の私には猛毒だった。
私を愛しているから優しいのではない。私に対して罪悪感があるから、彼はこんなにも献身的なのだ。
背信を隠すための対価として差し出される愛情。それを喜んで受け取るほど、私はお人好しではいられなかった。
「リヒャルト様……。もし、私に隠し事があるのなら、今のうちに言ってください」
「隠し事? まさか。私は君に対して、常に誠実でありたいと思っている」
誠実。その言葉が彼の口から出た瞬間、私は笑い出しそうになるのを必死で堪えた。
かつての恋人と密室で過ごし、その香りを纏ったまま、婚約者の病室で愛を語る。それが彼の言う「誠実」なのだろうか。
「……少し、疲れました。少し眠らせてください」
「……ああ。そうだね。無理をさせた。また明日、必ず来るから」
彼は名残惜しそうに私の手に唇を寄せ、部屋を去っていった。
扉が閉まる音が響く。静寂が戻った寝室で、私は彼が触れた方の手をシーツで乱暴に拭った。拭っても、拭っても、あの百合の匂いがまとわりついているような気がして不快でならない。
リヒャルト様は、伯母ミレイユを拒絶しきれていない。
彼の中にある「初めての女性」への思慕は、十年という月日を経て、捨てられた憎しみとともに、歪な執着へと変貌している。
そして伯母もまた、それを理解して彼を煽っている。
私は、その火遊びの合間に置かれた、無害な身代わりに過ぎないのではないか。学園を卒業したばかりの、何も知らない、汚れなき令嬢。
彼らがドロドロとした過去を清算するための、免罪符としての結婚。
――許せない。熱のせいか、それとも怒りのせいか、視界が赤く染まる。
私はベッドから這い出し、鏡の前に立った。鏡の中の私は、熱に浮かされて顔を真っ赤にし、汗で髪を額に貼りつかせている。それでも――輪郭や面差しは、伯母と驚くほど似ていた。
けれど瞳にはまだ、彼女のような狡猾さも、絶望も宿っていない。
その時、廊下から話し声が聞こえた。聞き慣れた、伯母の声だ。
「あら、アシュベリー伯爵様。お帰りですの? ……エリカの様子はどうかしら」
「……ミレイユ。君は、あまりここへは来ない方がいい」
「冷たいわね。私だって姪のことが心配なのよ。……ねえ、リヒャルト。昨日の続き、また今度ゆっくり聞かせてくれる? あなたが、今の生活にどれだけ『退屈』しているのかを」
くすくすと笑う伯母の声。
リヒャルト様が何かを言い返そうとして、言葉に詰まったような気配がした。
私は震える手で壁を伝い、扉に耳を押し当てた。二人の気配が、どんどん近づいてくる。
伯母は知っているのだ。リヒャルト様の理性が、今にも崩れそうなことを。
そしてリヒャルト様も、自分が崖っぷちに立っていることを自覚している。
幸せなはずの婚約期間は、もうどこにもなかった。そこにあるのは、過去に囚われた男と、過去を食い物にする女。
そして、その狭間で、ただ一人真実を突きつけられた私だけだった。
「……壊してやる」
誰にともなく、呟きが漏れた。
こんな偽りの幸福なら、いっそ粉々に砕けてしまえばいい。私が彼を信じていた時間は、最初から幻だったのだから。
窓の外では、夕闇が迫っていた。私の心もまた、深い闇の中に沈んでいく。
運命のカウントダウンが、静かに始まっていた。
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