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蜜の毒、過去の残骸
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一度芽生えた不信感は、真綿で首を絞めるようにじわじわと私の心を浸食していった。
リヒャルト様は変わらず私に献身的だった。贈り物は途絶えず、手紙には甘い言葉が並ぶ。けれど、彼が私を抱きしめるたび、その肩越しに誰を見ているのかと考えてしまう。
そんなある日の午後。私は彼への差し入れを携え、予告なしにアシュベリー伯爵邸を訪れた。
婚約者としての特権。驚く彼の顔が見たかった。……いいえ、本当は、彼が私のいないところで何を思っているのか、その断片でもいいから掴みたかったのだ。
「エリカ様、申し訳ございません。旦那様は今、急な来客がございまして……応接室に……」
執事の困惑したような表情に、私の胸がざわついた。
いつもなら「エリカなら通してくれ」と言い置いているはずのリヒャルト様だ。その彼が、今は席を外せない客人を迎えている。
「いいの。ここで待たせてもらうわ。……どなたがいらしているの?」
「それは……。……グロスナー家の…… ミレイユ様でございます……」
その名を聞いた瞬間、指先が凍りついた。
なぜ。家族の顔合わせ以外で、伯母が彼に会う必要があるの?私は執事の制止を振り切り、吸い寄せられるように応接室へと向かった。
厚い扉の前に立つと、中から微かに声が漏れてくる。
リヒャルト様の、苦渋に満ちた低い声。そして、伯母の――甘く、湿り気を帯びた執着に満ちた声。
「……あの子と結婚するなんて、正気なの? リヒャルト。あの子の中に、私を重ねているのでしょう」
「やめてくれ、ミレイユ! エリカは君とは違う。彼女は純粋で、私を心から信じてくれているんだ」
「ふふ、そうね。純粋。だからこそ退屈でしょう? あの頃の私たちは違った。……ねえ、忘れたなんて言わせないわよ。あなたが初めて私に触れた時の、あの震える指先も。私がいないと息もできないと泣いた、あの夜のことも……」
心臓がドクンと大きく跳ね、視界が歪む。初めて、肌を合わせた相手。
リヒャルト様の「初めて」を、私はもう、どんなに願っても手に入れることはできない。それは単なる経験の有無ではない。彼という人間の「根源」の部分を、伯母は既に支配しているのだ。
「……それは、過去のことだ。私は君に捨てられた。君は、次男の私には価値がないと言って、背を向けたじゃないか」
「ええ、認めるわ。若すぎたのよ、私もあなたも。でも今は違う。今のあなたには地位も、名誉もある。そして私には、あなたを誰よりも深く知っているという特権がある。……あの子に教えられる? 自分の婚約者が、かつてその伯母に溺れて、あんなに情熱的に愛を囁いていたなんて」
扉の向こうで、衣擦れの音がした。伯母が彼に近づいている。そう直感した。
「エリカはまだ十九よ。あの子なら、あなたがいなくても 他に素敵な結婚相手が見つかるわ。でも、私は……私はあなただけなの、リヒャルト。今の私は、生意気な子供たちの家庭教師をして、食いつないでいる……。惨めだと思わない?」
「ミレイユ……」
リヒャルト様の声から、峻烈な拒絶が消えていく。
かつて愛した女性の困窮。自分を捨てたはずの女性が、今、自分に縋っているという優越感と哀れみ。
それは男にとって、最も抗いがたい毒なのだということを、十八歳の私は本能で悟った。
「思い出して。あの夏の日のこと。二人で抜け出した庭園のあずまや……。あなたは私の髪を救い上げて、こう言ったわ。『君のためなら、家も爵位もいらない』って。……あの子に、同じことが言える?」
返答は、聞こえなかった。
ただ、重苦しい沈黙が扉の向こうに広がっていた。否定しない。それが何よりも残酷な肯定だった。
私は手に持っていたバスケットを落としそうになり、慌ててその場を離れた。背後で執事が何かを呼ぶ声がしたが、耳に入らない。
伯母は知っているのだ。自分とリヒャルト様が共有した「初めて」の記憶が、真っさらな私には到底太刀打ちできない、どろりとした、けれど確固たる絆であることを。
邸を飛び出し、馬車に飛び乗った。涙は出なかった。ただ、身体の芯がガタガタと震えて止まらない。
リヒャルト様。あなたは私を見ている時、本当に私を愛しているのですか?
それとも、私の背後に透けて見える、十年前の伯母の影を愛しているのですか?
夕食の席、何も知らず微笑む両親と、兄。私は、自分が生きている世界が、ガラス細工のように脆く、今にも砕け散りそうな予感に震えていた。
伯母は言った。エリカなら他にも相手がいる、と。けれど、私は……。私の初めての恋心は、私の初めての情熱は、もう彼に捧げてしまった。彼の中に私の居場所がないのだとしたら、私はこれから、どこへ行けばいいのだろう。
その夜、私は熱を出して寝込んだ。
夢の中で、リヒャルト様が私を抱きしめる。けれど、その指先は私の肌を素通りして、私の後ろに立つ伯母の白い肌を求めて伸びていた。
悲鳴を上げて目を覚ました時、枕元には、彼からの「明日の午後に会いに行く」という短い手紙が置かれていた。
その文字さえも、今は私を嘲笑っているようにしか見えなかった。
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リヒャルト様は変わらず私に献身的だった。贈り物は途絶えず、手紙には甘い言葉が並ぶ。けれど、彼が私を抱きしめるたび、その肩越しに誰を見ているのかと考えてしまう。
そんなある日の午後。私は彼への差し入れを携え、予告なしにアシュベリー伯爵邸を訪れた。
婚約者としての特権。驚く彼の顔が見たかった。……いいえ、本当は、彼が私のいないところで何を思っているのか、その断片でもいいから掴みたかったのだ。
「エリカ様、申し訳ございません。旦那様は今、急な来客がございまして……応接室に……」
執事の困惑したような表情に、私の胸がざわついた。
いつもなら「エリカなら通してくれ」と言い置いているはずのリヒャルト様だ。その彼が、今は席を外せない客人を迎えている。
「いいの。ここで待たせてもらうわ。……どなたがいらしているの?」
「それは……。……グロスナー家の…… ミレイユ様でございます……」
その名を聞いた瞬間、指先が凍りついた。
なぜ。家族の顔合わせ以外で、伯母が彼に会う必要があるの?私は執事の制止を振り切り、吸い寄せられるように応接室へと向かった。
厚い扉の前に立つと、中から微かに声が漏れてくる。
リヒャルト様の、苦渋に満ちた低い声。そして、伯母の――甘く、湿り気を帯びた執着に満ちた声。
「……あの子と結婚するなんて、正気なの? リヒャルト。あの子の中に、私を重ねているのでしょう」
「やめてくれ、ミレイユ! エリカは君とは違う。彼女は純粋で、私を心から信じてくれているんだ」
「ふふ、そうね。純粋。だからこそ退屈でしょう? あの頃の私たちは違った。……ねえ、忘れたなんて言わせないわよ。あなたが初めて私に触れた時の、あの震える指先も。私がいないと息もできないと泣いた、あの夜のことも……」
心臓がドクンと大きく跳ね、視界が歪む。初めて、肌を合わせた相手。
リヒャルト様の「初めて」を、私はもう、どんなに願っても手に入れることはできない。それは単なる経験の有無ではない。彼という人間の「根源」の部分を、伯母は既に支配しているのだ。
「……それは、過去のことだ。私は君に捨てられた。君は、次男の私には価値がないと言って、背を向けたじゃないか」
「ええ、認めるわ。若すぎたのよ、私もあなたも。でも今は違う。今のあなたには地位も、名誉もある。そして私には、あなたを誰よりも深く知っているという特権がある。……あの子に教えられる? 自分の婚約者が、かつてその伯母に溺れて、あんなに情熱的に愛を囁いていたなんて」
扉の向こうで、衣擦れの音がした。伯母が彼に近づいている。そう直感した。
「エリカはまだ十九よ。あの子なら、あなたがいなくても 他に素敵な結婚相手が見つかるわ。でも、私は……私はあなただけなの、リヒャルト。今の私は、生意気な子供たちの家庭教師をして、食いつないでいる……。惨めだと思わない?」
「ミレイユ……」
リヒャルト様の声から、峻烈な拒絶が消えていく。
かつて愛した女性の困窮。自分を捨てたはずの女性が、今、自分に縋っているという優越感と哀れみ。
それは男にとって、最も抗いがたい毒なのだということを、十八歳の私は本能で悟った。
「思い出して。あの夏の日のこと。二人で抜け出した庭園のあずまや……。あなたは私の髪を救い上げて、こう言ったわ。『君のためなら、家も爵位もいらない』って。……あの子に、同じことが言える?」
返答は、聞こえなかった。
ただ、重苦しい沈黙が扉の向こうに広がっていた。否定しない。それが何よりも残酷な肯定だった。
私は手に持っていたバスケットを落としそうになり、慌ててその場を離れた。背後で執事が何かを呼ぶ声がしたが、耳に入らない。
伯母は知っているのだ。自分とリヒャルト様が共有した「初めて」の記憶が、真っさらな私には到底太刀打ちできない、どろりとした、けれど確固たる絆であることを。
邸を飛び出し、馬車に飛び乗った。涙は出なかった。ただ、身体の芯がガタガタと震えて止まらない。
リヒャルト様。あなたは私を見ている時、本当に私を愛しているのですか?
それとも、私の背後に透けて見える、十年前の伯母の影を愛しているのですか?
夕食の席、何も知らず微笑む両親と、兄。私は、自分が生きている世界が、ガラス細工のように脆く、今にも砕け散りそうな予感に震えていた。
伯母は言った。エリカなら他にも相手がいる、と。けれど、私は……。私の初めての恋心は、私の初めての情熱は、もう彼に捧げてしまった。彼の中に私の居場所がないのだとしたら、私はこれから、どこへ行けばいいのだろう。
その夜、私は熱を出して寝込んだ。
夢の中で、リヒャルト様が私を抱きしめる。けれど、その指先は私の肌を素通りして、私の後ろに立つ伯母の白い肌を求めて伸びていた。
悲鳴を上げて目を覚ました時、枕元には、彼からの「明日の午後に会いに行く」という短い手紙が置かれていた。
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