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寄り添う「私の」婚約者
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姉のエレナが戻ってきてから、我が家の予定表は意味をなさなくなった。正確には、私とカイル様の予定だけが、無慈悲に塗りつぶされていくのだ。
「リリア、申し訳ない。今日の観劇だが、キャンセルさせてくれないか」
昼下がり、約束の時間にやってきたカイル様が開口一番に告げたのは、謝罪だった。
彼の視線は私を見ていない。落ち着かない様子で、階段の上――エレナお姉様の部屋がある方向を気にしている。
「……観劇は、一ヶ月前から楽しみにしていたはずですが。どうされたのですか?」
「エレナ嬢の体調が優れないんだ。さっきお顔を拝見したが、顔色が紙のように白くて……。あんなに心細そうな彼女を置いて、遊びに出かけるなんて僕にはできない」
カイル様の言葉に、私は奥歯を噛みしめた。
顔色が白い? それはそうだろう。お姉様は今朝、侍女に命じて一番明るい白粉を厚く塗らせていたのだから。
「カイル様、お姉様にはお父様もお母様もついていらっしゃいます。それに、お医者様も呼びました。婚約者である私との約束を破ってまで、義理の姉になるはずだった人の側にいる必要はありませんわ」
私が努めて冷静に正論を述べると、カイル様はあからさまに不快そうな顔をした。
「リリア、また君はそうやって突き放すようなことを言う。彼女は今、世界中から後ろ指を指されているような絶望の中にいるんだ。君のような『強い』人間には、彼女の繊細な痛みがわからないのか?」
――強い人間。
その言葉が、私の胸を鋭く抉った。
お姉様が我がままを言って両親を困らせるたび、私が代わりに家政を支えてきた。お姉様が夜会で奔放に振る舞い、家の評判を落とすたび、私が各所に頭を下げて回った。
そうせざるを得なかったから、私は「強く」ならざるを得なかっただけなのに。
「カイル様、私は――」
「カイ……? ああ、来てくださったのね……」
階段の上から、弱々しい声が響いた。手すりに掴まり、今にも倒れそうな足取りで降りてくるエレナの姿があった。
彼女は、私が贈られるはずだった、淡い桃色のショールを肩に羽織っている。数日前に「冷えるから」と彼女に奪われたものだ。
「エレナ嬢! 起きてきては危ない!」
カイル様は私を置き去りにして、階段を駆け上がった。そして、倒れかかるエレナの細い腰を、当然のような手つきで支えた。
「ごめんなさい……。リリアと出かける約束だったのに。でも、一人で部屋にいると、あの恐ろしい伯爵家での出来事が思い出されて……身体が震えてしまうの」
エレナはカイル様の胸に顔を埋め、小さく肩を震わせる。
その拍子に、彼女が私に向けて勝ち誇ったような一瞥をくれたのを、カイル様は気づかない。
「いいんですよ、エレナ嬢。リリアも分かってくれています。彼女は思慮深い女性ですから、あなたの回復を一番に願っているはずだ」
カイル様はそう言うと、私を振り返った。
「というわけだ、リリア。今日は彼女の話し相手になってあげたいんだ。君は……そうだな、一人で出かけるのが寂しいなら、侍女でも連れて行くといい」
「……」
言葉が出なかった。
婚約者と一緒に観るために、彼が好きな演目の席を苦労して確保した。新しいドレスも新調した。それを「一人で侍女と行け」と言うのか。
「ああ、それからリリア。その、エレナ嬢が言っていたんだが……」
カイル様は少し言いづらそうに、しかし断固とした口調で続けた。
「君が今度作る予定の、誕生石のネックレス。あれを彼女に譲ってあげてくれないか? 彼女は今、自分の持ち物の多くを伯爵家に置いてきてしまって、身に着けるものがなくて酷く落ち込んでいるんだ。妹の君からのプレゼントだと言えば、きっと彼女も元気づけられる」
「……あれは、亡くなった祖母から私に、と贈られた原石を加工するものですわ」
「石なんてまた買えばいいだろう! だが、彼女の心は今しか救えないんだ。君は本当に、どうしてそう自分の権利ばかり主張するんだ。少しは不幸な姉を思いやったらどうだ!」
カイル様の怒声が、静かなホールに響いた。
エレナはカイル様の腕の中で、満足そうに目を細めている。
――ああ、もう、本当に。
「……分かりましたわ」
私は、乾いた声で答えた。怒りも、悲しみも、通り越してしまった。
私を「冷酷」だと断じ、自分の浮ついた心を「正義感」や「慈悲」ですり替えているこの男に、何を言っても無駄なのだ。
「ネックレスも、今日の観劇も、お姉様に差し上げます。……カイル様、どうぞ存分にお姉様に『寄り添って』あげてくださいませ」
「……分かってくれたか。やはり君は物分かりがいいな」
カイル様は安心したように笑い、エレナを抱きかかえるようにしてサロンへと消えていった。
残されたのは、静まり返った玄関ホールと、私一人。
「……物分かりがいい、ですか」
私は自分の手が、怒りで震えていることに気づいた。
だが、その震えはすぐに止まった。代わりに、冷徹なまでの決意が胸を満たしていく。
「お望み通り、差し上げますわ。お姉様も、その婚約者も……まとめてゴミ箱に捨てて差し上げます」
私は、手元に残った観劇のチケットを、躊躇なく二つに引き裂いた。
____________
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「リリア、申し訳ない。今日の観劇だが、キャンセルさせてくれないか」
昼下がり、約束の時間にやってきたカイル様が開口一番に告げたのは、謝罪だった。
彼の視線は私を見ていない。落ち着かない様子で、階段の上――エレナお姉様の部屋がある方向を気にしている。
「……観劇は、一ヶ月前から楽しみにしていたはずですが。どうされたのですか?」
「エレナ嬢の体調が優れないんだ。さっきお顔を拝見したが、顔色が紙のように白くて……。あんなに心細そうな彼女を置いて、遊びに出かけるなんて僕にはできない」
カイル様の言葉に、私は奥歯を噛みしめた。
顔色が白い? それはそうだろう。お姉様は今朝、侍女に命じて一番明るい白粉を厚く塗らせていたのだから。
「カイル様、お姉様にはお父様もお母様もついていらっしゃいます。それに、お医者様も呼びました。婚約者である私との約束を破ってまで、義理の姉になるはずだった人の側にいる必要はありませんわ」
私が努めて冷静に正論を述べると、カイル様はあからさまに不快そうな顔をした。
「リリア、また君はそうやって突き放すようなことを言う。彼女は今、世界中から後ろ指を指されているような絶望の中にいるんだ。君のような『強い』人間には、彼女の繊細な痛みがわからないのか?」
――強い人間。
その言葉が、私の胸を鋭く抉った。
お姉様が我がままを言って両親を困らせるたび、私が代わりに家政を支えてきた。お姉様が夜会で奔放に振る舞い、家の評判を落とすたび、私が各所に頭を下げて回った。
そうせざるを得なかったから、私は「強く」ならざるを得なかっただけなのに。
「カイル様、私は――」
「カイ……? ああ、来てくださったのね……」
階段の上から、弱々しい声が響いた。手すりに掴まり、今にも倒れそうな足取りで降りてくるエレナの姿があった。
彼女は、私が贈られるはずだった、淡い桃色のショールを肩に羽織っている。数日前に「冷えるから」と彼女に奪われたものだ。
「エレナ嬢! 起きてきては危ない!」
カイル様は私を置き去りにして、階段を駆け上がった。そして、倒れかかるエレナの細い腰を、当然のような手つきで支えた。
「ごめんなさい……。リリアと出かける約束だったのに。でも、一人で部屋にいると、あの恐ろしい伯爵家での出来事が思い出されて……身体が震えてしまうの」
エレナはカイル様の胸に顔を埋め、小さく肩を震わせる。
その拍子に、彼女が私に向けて勝ち誇ったような一瞥をくれたのを、カイル様は気づかない。
「いいんですよ、エレナ嬢。リリアも分かってくれています。彼女は思慮深い女性ですから、あなたの回復を一番に願っているはずだ」
カイル様はそう言うと、私を振り返った。
「というわけだ、リリア。今日は彼女の話し相手になってあげたいんだ。君は……そうだな、一人で出かけるのが寂しいなら、侍女でも連れて行くといい」
「……」
言葉が出なかった。
婚約者と一緒に観るために、彼が好きな演目の席を苦労して確保した。新しいドレスも新調した。それを「一人で侍女と行け」と言うのか。
「ああ、それからリリア。その、エレナ嬢が言っていたんだが……」
カイル様は少し言いづらそうに、しかし断固とした口調で続けた。
「君が今度作る予定の、誕生石のネックレス。あれを彼女に譲ってあげてくれないか? 彼女は今、自分の持ち物の多くを伯爵家に置いてきてしまって、身に着けるものがなくて酷く落ち込んでいるんだ。妹の君からのプレゼントだと言えば、きっと彼女も元気づけられる」
「……あれは、亡くなった祖母から私に、と贈られた原石を加工するものですわ」
「石なんてまた買えばいいだろう! だが、彼女の心は今しか救えないんだ。君は本当に、どうしてそう自分の権利ばかり主張するんだ。少しは不幸な姉を思いやったらどうだ!」
カイル様の怒声が、静かなホールに響いた。
エレナはカイル様の腕の中で、満足そうに目を細めている。
――ああ、もう、本当に。
「……分かりましたわ」
私は、乾いた声で答えた。怒りも、悲しみも、通り越してしまった。
私を「冷酷」だと断じ、自分の浮ついた心を「正義感」や「慈悲」ですり替えているこの男に、何を言っても無駄なのだ。
「ネックレスも、今日の観劇も、お姉様に差し上げます。……カイル様、どうぞ存分にお姉様に『寄り添って』あげてくださいませ」
「……分かってくれたか。やはり君は物分かりがいいな」
カイル様は安心したように笑い、エレナを抱きかかえるようにしてサロンへと消えていった。
残されたのは、静まり返った玄関ホールと、私一人。
「……物分かりがいい、ですか」
私は自分の手が、怒りで震えていることに気づいた。
だが、その震えはすぐに止まった。代わりに、冷徹なまでの決意が胸を満たしていく。
「お望み通り、差し上げますわ。お姉様も、その婚約者も……まとめてゴミ箱に捨てて差し上げます」
私は、手元に残った観劇のチケットを、躊躇なく二つに引き裂いた。
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