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偶然は、逃げ場を与えない
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それは、本当に――ただの偶然だった。
東の回廊の向こうから、エドワード・チャーチル公爵令息が、ひとりで歩いてくるのが見えた。
(……怖い……挨拶なんて、できない……。逃げなきゃ)
胸が、きゅっと縮む。
会いたくない。会ってはいけない。
そう強く思った瞬間、オレーリアの身体は、理屈よりも先に動いていた。
足は自然と進路を変え、回廊を曲がり、さらに奥へ――奥へ。
気づけば、ほとんど人の来ない、小部屋が並ぶ一角に迷い込んでいた。
(どうして……こんなところに……)
背後から、確かな足音が近づいてくる。
ひとつ、またひとつ。その規則正しい足音に、心臓が嫌な速さで跳ねた。
(どうしよう……! どうする、どうする、どうする……)
オレーリアは、思い切って近くの小部屋の扉を押し、滑り込むように中へ入った――
本来のオレーリアなら、決して取らない無鉄砲な行動だ。
それほどまでに、彼女の心は乱れ、思考は混乱していた。
近づいていた足音は、オレーリアの隠れた小部屋の前を通り過ぎ、やがて、どこかで扉の開閉する音が小さく響いた。
「……ふう……」
通り過ぎた足音が、エドワードのものだったのかは分からない。
それでも、オレーリアは思わず、大きく安堵の息を吐いた。
――その時。
「……なあ。勝手に入ってきたと思ったら、ドアノブ掴んだまま、扉に額くっつけて固まってるアンタ。……いったい何なんだ?
俺、誰も呼んでねえんだけど。さっさと出てって。……うぜえ」
誰もいないはずの部屋の奥から、声がした。
「――っ!」
あまりの驚きに、小さな悲鳴が漏れ、オレーリアは反射的に振り向いた。
その視線の先には、寝台の上で休んでいたのだろう男が、鋭い眼差しで、胡散臭そうにこちらを睨んでいる。
「あっ……! も、申し訳ございません!す、すぐに退室いたします!お休みのところをお邪魔してしまい、本当に申し訳ございませんでした!」
突然の出来事に、オレーリアは完全に動揺し、相手と目を合わせることすらできないまま、何度も頭を下げる。
そして慌てて扉を開け、部屋を飛び出した。
「……なんだ? 俺を狙ってる女じゃねえのか……。ふーん……」
男は怪訝そうに呟きながらも、大きく欠伸をすると、何事もなかったかのように瞼を閉じ、再び仮眠へと身を委ねた。
◇◇◇
翌日の午後、オレーリアは、主であるエスメラルダ王女に付き従い、王女の婚約者である隣国ルミナス王国第二王子ユリウス殿下とのお茶会に臨んでいた。
王女と同い年の十六歳であるユリウス殿下は、セリオス王立学園二年に在籍する留学生だ。学業に加え、文化交流や繊維技術、流通について学ぶことを目的として、一年の滞在予定で二か月前から王宮に身を置いている。
「ごきげんよう、ユリウス殿下。気持ちのいい陽射しと、涼しい風ですわね」
「やあ、ごきげんよう、エスメラルダ王女。実に心地のいい日だね。お茶会には最高の天気じゃないかな」
少しくだけた口調で返される挨拶と、気さくな笑顔。
銀色の髪に紫の瞳を持つ、愛嬌と気品を併せ持った王子だった。その柔らかな外見とは裏腹に、王族としての鋭さと聡明さを備えた人物である。
ユリウスはエスメラルダを婚約者として真摯に尊重しており、二人の関係は、信頼と恋心をゆっくりと育てている途上にあった。
「このロールケーキ、とても美味しいよ。エメの好きな生クリームがたっぷりだ」
「まあ、嬉しいわ! それに、ユーリの好きな苺ものっているのね。うちのシェフ、ザックは本当に優秀だわ」
エスメラルダの飾らない振る舞いと、無垢で明るい笑顔は、王族としては優しすぎるのかもしれない。それでも、作り手への感謝を当たり前のように口にできる、その気高く澄んだ心根を、オレーリアは誇りに思っていた。
オレーリアは一歩下がった場所から、主の無垢な笑顔を、胸の奥で温かく受け止めながら見守っていた。
――そのオレーリアを、静かに見つめる視線があった。
ユリウス殿下の護衛を務めるウォルター・バークレー辺境伯令息は、エスメラルダ王女の背後に控えるオレーリアの姿に、内心で小さく息を呑んでいた。
(……彼女は、あの時の女か?慈愛の表情で王女を見守る、優秀な女官とは……)
一方オレーリアは、ウォルターの存在に気づいていながら、特段の反応を示さなかった。
あの時の彼女は、あまりにも動揺しきっていて――視界に入ったはずの相手の顔さえ、記憶に留める余裕がなかったのだ。
◇◇◇
エドワードは、どうにもオレーリア女官のことが気にかかっていた。
ふとした拍子に、彼女の横顔が脳裏に浮かぶ。理由は分からない。それでも、そんな自分に戸惑いを覚えていた。
エスメラルダ王女を訪ねるエイドリアン王太子に付き添い、王女の居室を訪問した折、控えの間で思いがけずオレーリア女官と話す機会を得た。
その時の彼女の様子は、明らかに尋常ではなかった。
手指は小刻みに震え、顔色は明らかに悪く、額には冷や汗が滲んでいる。
異変に気づいたエドワードは、思わずソファへと促した。
だがその行為は、オレーリアにとって、さらに恐怖を煽る結果となった。
声を出そうとしても喉が詰まり、歯が小さく、かちかちと鳴る。
その様子を見て、エドワードは苦しげに眉を寄せた。
――彼女だ。
唐突に、確信に近い思いが胸を貫いた。
オレーリアこそが、あの夜の少女だ――それは、事実というより、彼自身の願望を伴った直感だった。
「……すまなかった。あの夜の女性は……君だね。オレーリア伯爵令嬢」
低く、抑えた声。
「あの時……君に、取り返しのつかない恐怖を与えてしまった。心から謝罪する」
一拍、言葉を選ぶように間を置いて。
「……それから、正式に一度、我がチャーチル公爵家で、今後について話し合いたい」
オレーリアは、必死に首を振った。それ以上、何も聞きたくない――全身でそう訴えるように。
「……だが……」
冷酷と評されることもある、常は冷静なエドワードの声が、珍しくわずかに震えた。
「責任を取らねばならない。第一に……子を授かっている可能性もある」
その言葉に、オレーリアの胸がきつく締め付けられる。
震える唇から、必死に言葉を絞り出した。
「……わ、わたし……妊娠は……しておりません……」
瞳に涙が溜まる。
「ですから……もう……放っておいて、ください……!」
弱く、必死な拒絶。
その姿を見た瞬間、エドワードの胸を、何かが強く掴んだ。
(……この怯え方……)
思い出すのは、あの夜。
泣き声を殺し、必死に耐えていた少女の横顔。
――学園時代の同級生、オレーリア・ノーフォーク伯爵令嬢。
目立つ存在ではなかったが、穏やかで、周囲をよく見ていた。
優秀で控えめ。決して前に出ることはなくとも、物事を円滑に整える力を持つ――信頼できる同級生。
(……そんな彼女に……)
派手な美貌ではない。
柔らかな茶色の髪、落ち着いたオリーブ色の瞳。
そして――あの夜、知ってしまった、女性としての温もり。
(……婚約を解消して、女官になったと聞いたが……)
噂では、想い合う相手がいるとも。
(……だが……純潔だった……)
胸の奥が、ずきりと痛む。
(……俺は……)
謝罪だけでは足りない。
だが、これ以上、彼女の恐怖を煽ることもできなかった。
震える指先。必死に涙をこらえる瞳。
全身で拒絶し、逃げ場を失ったかのような、その表情。
――離したくない。
そう思った瞬間、自分の感情がすでに「責任」の範疇を逸脱していることに、エドワードはまだ気づいていなかった。
彼女を傷つけたという事実。
それを償わねばならないという義務。
そして、その奥に芽生え始めた、説明のつかない焦燥と独占欲。
「放っておいてほしい」と告げられたはずなのに――
なぜか、彼女をこのまま手放してはいけないという思いだけが、胸に残った。
――この偶然の再会が、冷静で理性的な公爵令息エドワードの心を、静かに、確実に縛り始めていることを。
――それが、言葉なき執着の始まりであることを、彼自身は、まだ知らなかった。
オレーリアの動揺があまりにも激しかったため、これ以上の会話は仕事中には不可能だと判断し、エドワードはエイドリアンのもとへ戻った。
あの夜の少女が誰であったのか――
それがオレーリア・ノーフォーク伯爵令嬢であったという事実は、許されぬ安堵を伴いながら、エドワードの心を静かに揺さぶっていた。
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東の回廊の向こうから、エドワード・チャーチル公爵令息が、ひとりで歩いてくるのが見えた。
(……怖い……挨拶なんて、できない……。逃げなきゃ)
胸が、きゅっと縮む。
会いたくない。会ってはいけない。
そう強く思った瞬間、オレーリアの身体は、理屈よりも先に動いていた。
足は自然と進路を変え、回廊を曲がり、さらに奥へ――奥へ。
気づけば、ほとんど人の来ない、小部屋が並ぶ一角に迷い込んでいた。
(どうして……こんなところに……)
背後から、確かな足音が近づいてくる。
ひとつ、またひとつ。その規則正しい足音に、心臓が嫌な速さで跳ねた。
(どうしよう……! どうする、どうする、どうする……)
オレーリアは、思い切って近くの小部屋の扉を押し、滑り込むように中へ入った――
本来のオレーリアなら、決して取らない無鉄砲な行動だ。
それほどまでに、彼女の心は乱れ、思考は混乱していた。
近づいていた足音は、オレーリアの隠れた小部屋の前を通り過ぎ、やがて、どこかで扉の開閉する音が小さく響いた。
「……ふう……」
通り過ぎた足音が、エドワードのものだったのかは分からない。
それでも、オレーリアは思わず、大きく安堵の息を吐いた。
――その時。
「……なあ。勝手に入ってきたと思ったら、ドアノブ掴んだまま、扉に額くっつけて固まってるアンタ。……いったい何なんだ?
俺、誰も呼んでねえんだけど。さっさと出てって。……うぜえ」
誰もいないはずの部屋の奥から、声がした。
「――っ!」
あまりの驚きに、小さな悲鳴が漏れ、オレーリアは反射的に振り向いた。
その視線の先には、寝台の上で休んでいたのだろう男が、鋭い眼差しで、胡散臭そうにこちらを睨んでいる。
「あっ……! も、申し訳ございません!す、すぐに退室いたします!お休みのところをお邪魔してしまい、本当に申し訳ございませんでした!」
突然の出来事に、オレーリアは完全に動揺し、相手と目を合わせることすらできないまま、何度も頭を下げる。
そして慌てて扉を開け、部屋を飛び出した。
「……なんだ? 俺を狙ってる女じゃねえのか……。ふーん……」
男は怪訝そうに呟きながらも、大きく欠伸をすると、何事もなかったかのように瞼を閉じ、再び仮眠へと身を委ねた。
◇◇◇
翌日の午後、オレーリアは、主であるエスメラルダ王女に付き従い、王女の婚約者である隣国ルミナス王国第二王子ユリウス殿下とのお茶会に臨んでいた。
王女と同い年の十六歳であるユリウス殿下は、セリオス王立学園二年に在籍する留学生だ。学業に加え、文化交流や繊維技術、流通について学ぶことを目的として、一年の滞在予定で二か月前から王宮に身を置いている。
「ごきげんよう、ユリウス殿下。気持ちのいい陽射しと、涼しい風ですわね」
「やあ、ごきげんよう、エスメラルダ王女。実に心地のいい日だね。お茶会には最高の天気じゃないかな」
少しくだけた口調で返される挨拶と、気さくな笑顔。
銀色の髪に紫の瞳を持つ、愛嬌と気品を併せ持った王子だった。その柔らかな外見とは裏腹に、王族としての鋭さと聡明さを備えた人物である。
ユリウスはエスメラルダを婚約者として真摯に尊重しており、二人の関係は、信頼と恋心をゆっくりと育てている途上にあった。
「このロールケーキ、とても美味しいよ。エメの好きな生クリームがたっぷりだ」
「まあ、嬉しいわ! それに、ユーリの好きな苺ものっているのね。うちのシェフ、ザックは本当に優秀だわ」
エスメラルダの飾らない振る舞いと、無垢で明るい笑顔は、王族としては優しすぎるのかもしれない。それでも、作り手への感謝を当たり前のように口にできる、その気高く澄んだ心根を、オレーリアは誇りに思っていた。
オレーリアは一歩下がった場所から、主の無垢な笑顔を、胸の奥で温かく受け止めながら見守っていた。
――そのオレーリアを、静かに見つめる視線があった。
ユリウス殿下の護衛を務めるウォルター・バークレー辺境伯令息は、エスメラルダ王女の背後に控えるオレーリアの姿に、内心で小さく息を呑んでいた。
(……彼女は、あの時の女か?慈愛の表情で王女を見守る、優秀な女官とは……)
一方オレーリアは、ウォルターの存在に気づいていながら、特段の反応を示さなかった。
あの時の彼女は、あまりにも動揺しきっていて――視界に入ったはずの相手の顔さえ、記憶に留める余裕がなかったのだ。
◇◇◇
エドワードは、どうにもオレーリア女官のことが気にかかっていた。
ふとした拍子に、彼女の横顔が脳裏に浮かぶ。理由は分からない。それでも、そんな自分に戸惑いを覚えていた。
エスメラルダ王女を訪ねるエイドリアン王太子に付き添い、王女の居室を訪問した折、控えの間で思いがけずオレーリア女官と話す機会を得た。
その時の彼女の様子は、明らかに尋常ではなかった。
手指は小刻みに震え、顔色は明らかに悪く、額には冷や汗が滲んでいる。
異変に気づいたエドワードは、思わずソファへと促した。
だがその行為は、オレーリアにとって、さらに恐怖を煽る結果となった。
声を出そうとしても喉が詰まり、歯が小さく、かちかちと鳴る。
その様子を見て、エドワードは苦しげに眉を寄せた。
――彼女だ。
唐突に、確信に近い思いが胸を貫いた。
オレーリアこそが、あの夜の少女だ――それは、事実というより、彼自身の願望を伴った直感だった。
「……すまなかった。あの夜の女性は……君だね。オレーリア伯爵令嬢」
低く、抑えた声。
「あの時……君に、取り返しのつかない恐怖を与えてしまった。心から謝罪する」
一拍、言葉を選ぶように間を置いて。
「……それから、正式に一度、我がチャーチル公爵家で、今後について話し合いたい」
オレーリアは、必死に首を振った。それ以上、何も聞きたくない――全身でそう訴えるように。
「……だが……」
冷酷と評されることもある、常は冷静なエドワードの声が、珍しくわずかに震えた。
「責任を取らねばならない。第一に……子を授かっている可能性もある」
その言葉に、オレーリアの胸がきつく締め付けられる。
震える唇から、必死に言葉を絞り出した。
「……わ、わたし……妊娠は……しておりません……」
瞳に涙が溜まる。
「ですから……もう……放っておいて、ください……!」
弱く、必死な拒絶。
その姿を見た瞬間、エドワードの胸を、何かが強く掴んだ。
(……この怯え方……)
思い出すのは、あの夜。
泣き声を殺し、必死に耐えていた少女の横顔。
――学園時代の同級生、オレーリア・ノーフォーク伯爵令嬢。
目立つ存在ではなかったが、穏やかで、周囲をよく見ていた。
優秀で控えめ。決して前に出ることはなくとも、物事を円滑に整える力を持つ――信頼できる同級生。
(……そんな彼女に……)
派手な美貌ではない。
柔らかな茶色の髪、落ち着いたオリーブ色の瞳。
そして――あの夜、知ってしまった、女性としての温もり。
(……婚約を解消して、女官になったと聞いたが……)
噂では、想い合う相手がいるとも。
(……だが……純潔だった……)
胸の奥が、ずきりと痛む。
(……俺は……)
謝罪だけでは足りない。
だが、これ以上、彼女の恐怖を煽ることもできなかった。
震える指先。必死に涙をこらえる瞳。
全身で拒絶し、逃げ場を失ったかのような、その表情。
――離したくない。
そう思った瞬間、自分の感情がすでに「責任」の範疇を逸脱していることに、エドワードはまだ気づいていなかった。
彼女を傷つけたという事実。
それを償わねばならないという義務。
そして、その奥に芽生え始めた、説明のつかない焦燥と独占欲。
「放っておいてほしい」と告げられたはずなのに――
なぜか、彼女をこのまま手放してはいけないという思いだけが、胸に残った。
――この偶然の再会が、冷静で理性的な公爵令息エドワードの心を、静かに、確実に縛り始めていることを。
――それが、言葉なき執着の始まりであることを、彼自身は、まだ知らなかった。
オレーリアの動揺があまりにも激しかったため、これ以上の会話は仕事中には不可能だと判断し、エドワードはエイドリアンのもとへ戻った。
あの夜の少女が誰であったのか――
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