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その穏やかさに、名前はなかった
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朝の空気は、王都よりもずっと澄んでいた。バークレー辺境伯領の朝は早い。だが、オレーリアはその静けさを、もう寂しいとは思わなかった。
オレーリアは、窓を少しだけ開け、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。腕の中では、小さな命が、規則正しい寝息を立てていた。
まだ三ヶ月。柔らかな金色の産毛と、閉じた瞼の奥に隠された青い瞳。誰の子かなど、今さら確かめる必要もないほど、はっきりとした色を持っている。
「……寒くない?」
問いかける声は、自然と低くなる。返事はない。ただ、赤子は小さく身じろぎし、オレーリアの胸に顔を埋めた。
それだけで、笑みが零れた。かつては、朝が怖かった。目覚めるたびに、何かを失ったような、足場のない感覚があった。
今は違う。起きれば、やるべきことがある。抱き上げる腕があり、守るべき温度がある。それだけで、十分だった。
朝食の支度をしながら、最愛の息子ローランドを優しく揺らす。辺境の台所は広く、使い勝手がいい。――ウィリアムが「教師をするなら、ここがいい」と勧めてくれた場所だ。
彼は、何も聞かなかった。理由も、過去も、責めるような視線も向けなかった。
必要だったのは、家と仕事と、安全な場所。彼は、対価を求めず、それだけを与えた。友情というには、過分で、そして誠実だった。
オレーリアはローランドを揺りかごに寝かせる。今日も、村の子どもたちに文字を教える日だ。教師としての仕事も、この家も、ここでの暮らしも。すべて、ウィリアムが手配してくれたものだった。恩を感じないわけではない。けれど、それを恋と混同するほど、彼女はもう幼くなかった。
昼前、ローランドを乳母に預け、外套を羽織り、オレーリアは学校へ向かう。
教室に入ると、子どもたちの声が一斉に上がった。
「先生!」
「きょうも来た!」
「赤ちゃんは?」
「今日はお留守番よ」
そう答えると、少し残念そうな声が上がる。それが、くすぐったかった。
教師として立つこの場所では、彼女は“誰かのもの”ではない。
名前を呼ばれ、言葉を交わし、知識を渡す。それだけの関係が、今のオレーリアには心地よかった。
夕方、仕事を終えて戻ると、ローランドは眠っていた。小さな胸が上下するのを見て、そっと息を合わせる。指先で、柔らかな頬に触れる。
「……大丈夫よ」
誰に言うでもない言葉。
不安が消えたわけではない。先のことが、すべて見えているわけでもない。それでも。この子を抱いて立っている自分は、もう、過去に縋る必要はなかった。
ただ、エドワードを選ばなかった。彼に縋るという選択を、しなかっただけだ。
腕の中の温もりが、その決断を、静かに肯定していた。小さな寝息が、腕の中から伝わってくる。その温もりを確かめるように、そっと指先を動かす。
――守るべきものが、ここにある。
それだけで、胸の奥は不思議なほど静かだった。
ウィリアム・バークレー辺境伯令息は、助けてくれただけ。オレーリアが立つ場所を、選ばせてくれただけ。
母として。そして、一人の大人として。オレーリアは、静かに日常へと歩き出す。
かつて、王都を離れたいと相談したオレーリアに、バークレー辺境伯領への旅路を手配してくれた。それが、どれほど心強かったことか。
「無理はするな。辺境は王都みたいに、都合よく回らない」
ウィリアムのぶっきらぼうな物言いに、オレーリアは小さく笑った。彼は、余計な詮索をしない。過去も、父親の名も、聞こうとはしなかった。
王都に暮らす彼は、遠くから、ただ、必要なものを差し出し、困れば手を貸す。それだけの、真っ直ぐな男だった。
恋ではない。けれど、背中を預けられる相手だと、オレーリアは思っている。
ノーフォーク伯爵家には、すべてを話した。父が病に伏した間、家を守ったこと。その働きを、家族は誰よりも知っている。
「お前が選んだ道なら、私たちは支える」
そう言われた日のことを、オレーリアは忘れない。
――戻る場所がある、という事実が、彼女を強くしていた。
過去を恨むことは、もうしなかった。許すこともしない。
ただ、エドワードを選ばなかった。彼に縋ることを、自分に許さなかっただけだ。
母として、生きる。それが、オレーリアの答えだった。
◇◇◇
その報告は、王都から離れた辺境伯領の近況として、淡々とした文面で届けられた。
ーーーーー
バークレー辺境伯領。
ノーフォーク伯爵令嬢オレーリア。
教師として勤務。
金髪に青い目の乳児一名と共に、
穏やかに暮らしている――。
ーーーーー
それだけだった。
華やかな功績も、問題も、波風もない。ただ、平穏である、という事実だけが記されている。
(……金髪に青い目の乳児)
エドワードは、その一語を何度も心の中で反芻した。そして次の瞬間、頭を殴られたような衝撃に襲われる。低く、長い――咽び泣くような声が、喉の奥から漏れた。
(僕の子だ。僕と、オレーリアとのあいだに――確かに、生まれた命だ)
我が子の名を呼べない。父と名乗ることもない。
朝は早く、空気は澄み、子どもはよく眠り、彼女は仕事を持ち、誰にも怯えず、誰にも縋らず、生きている。
報告には、ウィリアムの名も添えられていた。
住まいと職の斡旋。
身元の保証。
それ以上の関与は、なし。
(……それだけ、か)
胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちる。
オレーリアが求めていたのは、これだった。声高な愛でも、激情でもない。
守られた日常。明日を不安に思わずに済む生活。子を抱いたまま、安心して眠れる夜。
――自分は、それを与えられなかった。
与えなかったのではない。与えようと、しなかったのだ。
言葉にする覚悟を持たず、形にする責任から逃げ、沈黙を“優しさ”だと、都合よく信じていた。
あの夜。
彼女の身体の温もりを、確かめるように抱いた。
だが、その先にあるものを、何ひとつ示さなかった。
(……俺は、彼女の身体しか求めていなかったと見られても、否定できない男だった)
ウィリアムは違った。おそらく、彼は触れなかったのだ。そして何より、彼はオレーリアから、何ひとつも奪わなかった。
ただ、暮らせる場所を整え、生きていける仕事を用意し、危険のない環境を、淡々と差し出した。
それだけで、オレーリアの心が、穏やかになったのではないか……。
報告書の文字が、滲む。
彼女が選ばなかったのは、“エドワード”ではない。
彼女が選ばなかったのは、不安のある未来だった。
エドワードは、机に手をつき、深く息を吐いた。
胸を締めつけるのは、嫉妬ではない。喪失でもない。――安らぎを与えられなかったという、確かな事実。
オレーリアの世界に、もう自分の出番はない。それを、初めて、受け入れた。穏やかな日常は、彼の手の届かない場所で、すでに始まっている。
そしてその平穏こそが、エドワードにとって、何より残酷な現実だった。
____________
エール📣・いいね❤️ をいただけると物語づくりの励みになります。
📣 新連載スタート!
【可愛い年下人気騎士の恋人は、泣いて謝って、また浮気する~ジレジレ恋愛×浮気男(試練多め)~】
オレーリアは、窓を少しだけ開け、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。腕の中では、小さな命が、規則正しい寝息を立てていた。
まだ三ヶ月。柔らかな金色の産毛と、閉じた瞼の奥に隠された青い瞳。誰の子かなど、今さら確かめる必要もないほど、はっきりとした色を持っている。
「……寒くない?」
問いかける声は、自然と低くなる。返事はない。ただ、赤子は小さく身じろぎし、オレーリアの胸に顔を埋めた。
それだけで、笑みが零れた。かつては、朝が怖かった。目覚めるたびに、何かを失ったような、足場のない感覚があった。
今は違う。起きれば、やるべきことがある。抱き上げる腕があり、守るべき温度がある。それだけで、十分だった。
朝食の支度をしながら、最愛の息子ローランドを優しく揺らす。辺境の台所は広く、使い勝手がいい。――ウィリアムが「教師をするなら、ここがいい」と勧めてくれた場所だ。
彼は、何も聞かなかった。理由も、過去も、責めるような視線も向けなかった。
必要だったのは、家と仕事と、安全な場所。彼は、対価を求めず、それだけを与えた。友情というには、過分で、そして誠実だった。
オレーリアはローランドを揺りかごに寝かせる。今日も、村の子どもたちに文字を教える日だ。教師としての仕事も、この家も、ここでの暮らしも。すべて、ウィリアムが手配してくれたものだった。恩を感じないわけではない。けれど、それを恋と混同するほど、彼女はもう幼くなかった。
昼前、ローランドを乳母に預け、外套を羽織り、オレーリアは学校へ向かう。
教室に入ると、子どもたちの声が一斉に上がった。
「先生!」
「きょうも来た!」
「赤ちゃんは?」
「今日はお留守番よ」
そう答えると、少し残念そうな声が上がる。それが、くすぐったかった。
教師として立つこの場所では、彼女は“誰かのもの”ではない。
名前を呼ばれ、言葉を交わし、知識を渡す。それだけの関係が、今のオレーリアには心地よかった。
夕方、仕事を終えて戻ると、ローランドは眠っていた。小さな胸が上下するのを見て、そっと息を合わせる。指先で、柔らかな頬に触れる。
「……大丈夫よ」
誰に言うでもない言葉。
不安が消えたわけではない。先のことが、すべて見えているわけでもない。それでも。この子を抱いて立っている自分は、もう、過去に縋る必要はなかった。
ただ、エドワードを選ばなかった。彼に縋るという選択を、しなかっただけだ。
腕の中の温もりが、その決断を、静かに肯定していた。小さな寝息が、腕の中から伝わってくる。その温もりを確かめるように、そっと指先を動かす。
――守るべきものが、ここにある。
それだけで、胸の奥は不思議なほど静かだった。
ウィリアム・バークレー辺境伯令息は、助けてくれただけ。オレーリアが立つ場所を、選ばせてくれただけ。
母として。そして、一人の大人として。オレーリアは、静かに日常へと歩き出す。
かつて、王都を離れたいと相談したオレーリアに、バークレー辺境伯領への旅路を手配してくれた。それが、どれほど心強かったことか。
「無理はするな。辺境は王都みたいに、都合よく回らない」
ウィリアムのぶっきらぼうな物言いに、オレーリアは小さく笑った。彼は、余計な詮索をしない。過去も、父親の名も、聞こうとはしなかった。
王都に暮らす彼は、遠くから、ただ、必要なものを差し出し、困れば手を貸す。それだけの、真っ直ぐな男だった。
恋ではない。けれど、背中を預けられる相手だと、オレーリアは思っている。
ノーフォーク伯爵家には、すべてを話した。父が病に伏した間、家を守ったこと。その働きを、家族は誰よりも知っている。
「お前が選んだ道なら、私たちは支える」
そう言われた日のことを、オレーリアは忘れない。
――戻る場所がある、という事実が、彼女を強くしていた。
過去を恨むことは、もうしなかった。許すこともしない。
ただ、エドワードを選ばなかった。彼に縋ることを、自分に許さなかっただけだ。
母として、生きる。それが、オレーリアの答えだった。
◇◇◇
その報告は、王都から離れた辺境伯領の近況として、淡々とした文面で届けられた。
ーーーーー
バークレー辺境伯領。
ノーフォーク伯爵令嬢オレーリア。
教師として勤務。
金髪に青い目の乳児一名と共に、
穏やかに暮らしている――。
ーーーーー
それだけだった。
華やかな功績も、問題も、波風もない。ただ、平穏である、という事実だけが記されている。
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エドワードは、その一語を何度も心の中で反芻した。そして次の瞬間、頭を殴られたような衝撃に襲われる。低く、長い――咽び泣くような声が、喉の奥から漏れた。
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彼女の身体の温もりを、確かめるように抱いた。
だが、その先にあるものを、何ひとつ示さなかった。
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ウィリアムは違った。おそらく、彼は触れなかったのだ。そして何より、彼はオレーリアから、何ひとつも奪わなかった。
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それだけで、オレーリアの心が、穏やかになったのではないか……。
報告書の文字が、滲む。
彼女が選ばなかったのは、“エドワード”ではない。
彼女が選ばなかったのは、不安のある未来だった。
エドワードは、机に手をつき、深く息を吐いた。
胸を締めつけるのは、嫉妬ではない。喪失でもない。――安らぎを与えられなかったという、確かな事実。
オレーリアの世界に、もう自分の出番はない。それを、初めて、受け入れた。穏やかな日常は、彼の手の届かない場所で、すでに始まっている。
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