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◇ 動き出した時計の針 フローディア視点
深い霧の中にいるような、重く静かな日々だった。
十歳の夏、突然体が動かなくなったあの日から、私の世界は寝台の上だけになった。
『白睡病』。
体が少しずつ透明になり、やがて魂まで消えてしまう不治の病。
鏡を見るたび、指先や足首が淡く透けていくのを見て、私は「ああ、私はもうすぐ神様の元へ帰るのだわ」と、どこか他人事のように受け入れていた。
申し訳ないのは、二歳年下の妹、メリッサのことだった。あんなにお転婆で、太陽のように笑っていた大好きな妹。
私が病に倒れたせいで、あの子は自由を奪われた。私に代わって伯爵家を継ぐために、毎日深夜まで、可愛らしい指をインクで汚して勉強に励んでいる。
時折、見舞いに来てくれるメリッサの瞳からは、かつての輝きが消え、ひどく疲れ切った『大人の顔』をしていた。
(ごめんなさいね、メリッサ。私のせいで、あなたの子供時代を奪ってしまって……)
謝りたくても、声が出ない日も多い。私はただ、寝台の上で粛々と、自分の死を待つことしかできなかった。
私が十三歳の時、メリッサと幼馴染のシモン様の婚約が決まった。
その報告を聞いた時、私は胸の奥が、氷を飲み込んだように冷たくなるのを感じた。
私の初恋は、シモン様だった。
けれど、死にゆく私に、誰かを愛する資格なんてない。
元気なメリッサと、優しいシモン様。二人が結ばれるのは、この家にとっても、何より彼ら自身にとっても、一番幸せなことに違いなかった。
それなのに。
「フローディア。今日は天気がいいよ。少しだけ、外の空気を吸いに行こうか」
シモン様は、面会に来るたびに私を優しく抱き上げてくれる。
歩くことも、自力で起き上がることさえ叶わないこの体を、彼は壊れ物を扱うように大切に扱い、庭の薔薇を見せてくれた。
彼の腕の中は、驚くほど温かくて、安心した。
首筋に触れる彼の呼気や、力強い鼓動を感じるたび、私は自分の「生」を実感することができた。
(いけないわ。彼はメリッサの婚約者。……私が見ていい夢じゃない)
そう自分に言い聞かせても、彼と目が合うたび、その瞳の中に宿る熱烈な光に、心臓が痛いほど跳ねる。
彼が私を想ってくれている。それは、確信に近い予感として私の中にあった。
けれど、私は何も言わなかった。彼も、言葉にはしなかった。
私たちはただ、残り少ない時間を惜しむように、静かに、罪深い沈黙を共有していた。
( ごめんなさい、メリッサ。今だけだから。……私が死ぬまでの、ほんの少しの時間だけ、彼を独り占めさせてね)
それは、私の最後で最大の我儘のつもりだった。
私が死ねば、彼は本来の居場所であるメリッサの元へ戻る。
この甘い時間は、死という終わりがあるからこそ許される、神様からの贈り物なのだと信じて疑わなかった。
そうして迎えた、私の十五歳の誕生日を目前にした冬。
死の影は、いよいよ私の喉元まで迫っていた。
肺が白く透け、呼吸をするたびに意識が遠のく。
(ああ、ようやく終わるのね。シモン様、お父様、お母様……そして、メリッサ。お世話に……なりました……)
私は、永遠に続くであろう眠りに落ちようとした。
――その時だった。
「フローディア! 目を開けておくれ、フローディア!」
遠のく意識の中で、父の絶叫が聞こえた。
唇に触れる、冷たくて苦い液体。
それが喉を通った瞬間、私の体の中で、止まっていた時計の針が、激しい音を立てて動き出した。
内臓が焼けるような熱さ。
それから、じわじわと全身に満ちていく、強烈な「生命」の感触。
「……あ、……ぁ……」
数時間後、私が目を開けた時。
目の前には、涙で顔を濡らした父と母、そして、今にも私を奪い去らんばかりの形相で立ち尽くすシモン様の姿があった。
「フローディア! 助かったんだ! 薬が効いたんだよ!」
父の言葉に、私は呆然とした。
助かった? 十五歳まで生きられないはずの私が?
あきらめていた未来が、再び私の手の中に転がり込んできたというの?
私は、自分の手を見た。
向こう側が透けていた指先が、今は確かな肉の色を取り戻している。
視線を上げると、部屋の入り口に、こちらを呆然と見つめるメリッサが立っていた。喜びと、困惑と、そして言葉にできない複雑な感情が混ざり合った彼女の瞳。
その瞬間、私の中に、醜くて、けれど抗いようのない黒い感情が芽生えた。
(……私は、生きられる。……だったら。シモン様を、あの子に返したくない)
死ぬから許されると思っていた「不義理」は、私が生き残った瞬間、燃え盛る執着へと姿を変えた。
奇跡の特効薬。
それは、私に命を与えると同時に、優しかったはずの私の心を、取り返しのつかないほどに変貌させてしまったのだ。
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十歳の夏、突然体が動かなくなったあの日から、私の世界は寝台の上だけになった。
『白睡病』。
体が少しずつ透明になり、やがて魂まで消えてしまう不治の病。
鏡を見るたび、指先や足首が淡く透けていくのを見て、私は「ああ、私はもうすぐ神様の元へ帰るのだわ」と、どこか他人事のように受け入れていた。
申し訳ないのは、二歳年下の妹、メリッサのことだった。あんなにお転婆で、太陽のように笑っていた大好きな妹。
私が病に倒れたせいで、あの子は自由を奪われた。私に代わって伯爵家を継ぐために、毎日深夜まで、可愛らしい指をインクで汚して勉強に励んでいる。
時折、見舞いに来てくれるメリッサの瞳からは、かつての輝きが消え、ひどく疲れ切った『大人の顔』をしていた。
(ごめんなさいね、メリッサ。私のせいで、あなたの子供時代を奪ってしまって……)
謝りたくても、声が出ない日も多い。私はただ、寝台の上で粛々と、自分の死を待つことしかできなかった。
私が十三歳の時、メリッサと幼馴染のシモン様の婚約が決まった。
その報告を聞いた時、私は胸の奥が、氷を飲み込んだように冷たくなるのを感じた。
私の初恋は、シモン様だった。
けれど、死にゆく私に、誰かを愛する資格なんてない。
元気なメリッサと、優しいシモン様。二人が結ばれるのは、この家にとっても、何より彼ら自身にとっても、一番幸せなことに違いなかった。
それなのに。
「フローディア。今日は天気がいいよ。少しだけ、外の空気を吸いに行こうか」
シモン様は、面会に来るたびに私を優しく抱き上げてくれる。
歩くことも、自力で起き上がることさえ叶わないこの体を、彼は壊れ物を扱うように大切に扱い、庭の薔薇を見せてくれた。
彼の腕の中は、驚くほど温かくて、安心した。
首筋に触れる彼の呼気や、力強い鼓動を感じるたび、私は自分の「生」を実感することができた。
(いけないわ。彼はメリッサの婚約者。……私が見ていい夢じゃない)
そう自分に言い聞かせても、彼と目が合うたび、その瞳の中に宿る熱烈な光に、心臓が痛いほど跳ねる。
彼が私を想ってくれている。それは、確信に近い予感として私の中にあった。
けれど、私は何も言わなかった。彼も、言葉にはしなかった。
私たちはただ、残り少ない時間を惜しむように、静かに、罪深い沈黙を共有していた。
( ごめんなさい、メリッサ。今だけだから。……私が死ぬまでの、ほんの少しの時間だけ、彼を独り占めさせてね)
それは、私の最後で最大の我儘のつもりだった。
私が死ねば、彼は本来の居場所であるメリッサの元へ戻る。
この甘い時間は、死という終わりがあるからこそ許される、神様からの贈り物なのだと信じて疑わなかった。
そうして迎えた、私の十五歳の誕生日を目前にした冬。
死の影は、いよいよ私の喉元まで迫っていた。
肺が白く透け、呼吸をするたびに意識が遠のく。
(ああ、ようやく終わるのね。シモン様、お父様、お母様……そして、メリッサ。お世話に……なりました……)
私は、永遠に続くであろう眠りに落ちようとした。
――その時だった。
「フローディア! 目を開けておくれ、フローディア!」
遠のく意識の中で、父の絶叫が聞こえた。
唇に触れる、冷たくて苦い液体。
それが喉を通った瞬間、私の体の中で、止まっていた時計の針が、激しい音を立てて動き出した。
内臓が焼けるような熱さ。
それから、じわじわと全身に満ちていく、強烈な「生命」の感触。
「……あ、……ぁ……」
数時間後、私が目を開けた時。
目の前には、涙で顔を濡らした父と母、そして、今にも私を奪い去らんばかりの形相で立ち尽くすシモン様の姿があった。
「フローディア! 助かったんだ! 薬が効いたんだよ!」
父の言葉に、私は呆然とした。
助かった? 十五歳まで生きられないはずの私が?
あきらめていた未来が、再び私の手の中に転がり込んできたというの?
私は、自分の手を見た。
向こう側が透けていた指先が、今は確かな肉の色を取り戻している。
視線を上げると、部屋の入り口に、こちらを呆然と見つめるメリッサが立っていた。喜びと、困惑と、そして言葉にできない複雑な感情が混ざり合った彼女の瞳。
その瞬間、私の中に、醜くて、けれど抗いようのない黒い感情が芽生えた。
(……私は、生きられる。……だったら。シモン様を、あの子に返したくない)
死ぬから許されると思っていた「不義理」は、私が生き残った瞬間、燃え盛る執着へと姿を変えた。
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