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壁の向こうの楽園
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新築されたばかりの別邸は、防音性も優れていたはずだった。それなのに、隣の部屋から漏れ聞こえてくる笑い声は、私の鼓膜を針で刺すように鋭く突き刺さる。
主寝室のすぐ隣。本来なら、私の着替えを助ける侍女や、将来生まれてくる子供のために空けておくはずだったその部屋に、エメリア・ダグラスが入居して三日が経った。
「ふふっ、お兄様。このスープ、とっても美味しいわ。……ああ、でも、お義姉様の分まで私がいただいてしまっていいのかしら。お義姉様、最近はお部屋に引きこもってばかりで、私とお食事してくださらないから……」
エメリアの鈴を転がすような声が、開いた扉の隙間から廊下へ、そして私の部屋へと滑り込んでくる。
「いいんだよ、エメリア。ジュリエットは少し……気分が優れないだけだ。君が気に病む必要はない。さあ、冷めないうちに飲みなさい」
ロマリオ様の声は、どこまでも優しい。その優しさは、かつて私だけが独占していたものだった。
私は自室のソファで、リリアが淹れてくれた冷めた紅茶を眺めていた。食欲など、もう何日も前にどこかへ消えてしまった。
「奥様、もう扉を閉めてまいります。あんなもの、お聞きになる必要はありませんわ」
リリアが悔しさに顔を歪め、バタンと大きな音を立てて寝室の扉を閉めた。マリオも部屋の外で、エメリアの連れてきた下劣な使用人たちを睨みつけながら、必死に私の尊厳を守ろうとしてくれている。
けれど、家の主が「新妻よりも不運な従妹」を選んでいる以上、彼らの忠義も空虚に響くだけだった。
夜が更け、邸内が静まり返った頃。ようやくロマリオ様が私の部屋を訪れた。だが、その顔に愛の面影はない。あるのは「義務を果たしに来た」という冷淡な義務感と、私に対する隠しきれない苛立ちだった。
「まだ起きていたのか、ジュリエット。……君がそうやって暗い顔で沈み込んでいるせいで、エメリアが怯えている。自分がこの家にいるから、君を不幸にしているのではないかと、自分を責めて泣いているんだぞ」
開口一番、彼は私を責めた。ひどい!あまりにもひどい……。
新婚早々、夫を奪われ、家の平穏を壊されたのは私なのに。どうして被害者であるはずの私が、加害者である彼女の心をケアしなければならないのか。
「……ロマリオ様。私は、あなたと二人で過ごしたいだけなのです。新婚のこの時期に、なぜ壁一枚隔てた隣に他の女性を住ませるのですか? それが、私への愛の形なのですか?」
絞り出すような私の問いに、ロマリオ様は鼻で笑った。
「愛? 愛しているからこそ、君には僕の家族を……エメリアを慈しんでほしいと言っているんだ。ダグラス男爵家を継ぐ彼女は、まだ若く、守り手が必要なんだ。君のような、侯爵家の令嬢として不自由なく育った強い女性には、彼女の痛みはわからないのか?」
強い女性……。彼の中で、私は「何を与えなくても壊れない頑丈な女」に分類されたのだ。
エメリアが流す嘘の涙は「真珠」のように扱われ、私が流す真実の涙は「身勝手な嫉妬」と切り捨てられる。
ロマリオ様はそれ以上私に触れようともせず、ソファの端に腰掛けた。
「明日は、エメリアを連れて街へ出る。彼女の気分転換に、新しいドレスを誂えてやるつもりだ。君も来るか? ……まあ、そんな顔をされたら、彼女が楽しめないから、留守番をしていた方がいいかもしれないな」
言葉のナイフが、私の心を切り刻む。かつて、彼は私の誕生日に「君を世界一美しく飾るドレスを贈る」と約束してくれた。その約束も、今はエメリアのために上書きされていく。
「……ええ、お留守番をしておりますわ。どうぞ、お二人で『新婚夫婦』のようなひと時を過ごしください」
皮肉を込めたつもりだった。けれど、ロマリオ様には届かない。彼は「分かってくれたか」と満足げに頷き、早々に部屋を出て行った。向かう先は、自分の寝室ではなく、隣のエメリアの部屋だ。
「お兄様? まだ起きてらしたの? 嬉しい!」という彼女の声が聞こえ、扉が閉まる音がした。
私は、静かに立ち上がり、鏡の前に立った。そこには、十九歳の新婦とは思えないほど、生気を失った女が映っていた。
翌日。二人が楽しげに出かけていくのを、私は窓から見送った。
ロマリオ様がエメリアの腰を優しく抱き、馬車に乗せる。その様子は、誰がどう見ても睦まじい夫婦そのものだった。
見送った後、私はふらりと廊下に出た。誰もいないエメリアの部屋。扉は、わざとらしく少しだけ開け放たれていた。
誘われるように中へ入ると、そこには豪華な装飾品と、甘ったるい香水の匂いが充満していた。
机の上には、一通の書き置きがあった。宛先はない。けれど、明らかに私に読ませるために置かれたものだ。
『お義姉様へ。
お兄様は、私のことを「運命の人」だと仰ってくださいました。男爵位を継いだら、私はお兄様の「一番近く」にいられるように、ずっとこの家で暮らします。
お義姉様は、ただの「契約の妻」として、私にお兄様を貸し出してくださいね。
だって、お兄様が選んだのは、あなたの家柄であって、あなたではないのですから。』
「えっ!嘘……まさか、そんな……」
喉の奥が熱くなり、吐き気がした。
彼女は、不幸な少女などではない。確信犯的に、私からすべてを奪うことを楽しんでいる「悪女」なのだ。そして、その片棒を、私の愛した夫が担いでいる。
「奥様! こんなところにいてはいけません!」
駆け込んできたリリアが、私の肩を抱いた。
私は、震える手でその書き置きを握り潰した。
「リリア……マリオ……」
「はい、ここに。ここに、我ら夫婦がおりますぞ、奥様」
マリオが剣の柄を握り、苦しげに跪く。
「……もう、いいわ。もう、十分」
涙は出なかった。代わりに、胸の中にあった「ロマリオ」という名の初恋が、音を立てて崩れ落ちるのを感じた。
愛していた。心から。けれど、彼が私の心をこれほどまでに軽んじ、踏みにじるのであれば。
「私はもう、彼の妻であることをやめるわ」
十九歳の新婦。絶望の嵐の中で、私の心は急速に冷え固まっていく。
それは、後に彼がどれほど泣いて縋っても、二度と溶けることのない氷の心だった。
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主寝室のすぐ隣。本来なら、私の着替えを助ける侍女や、将来生まれてくる子供のために空けておくはずだったその部屋に、エメリア・ダグラスが入居して三日が経った。
「ふふっ、お兄様。このスープ、とっても美味しいわ。……ああ、でも、お義姉様の分まで私がいただいてしまっていいのかしら。お義姉様、最近はお部屋に引きこもってばかりで、私とお食事してくださらないから……」
エメリアの鈴を転がすような声が、開いた扉の隙間から廊下へ、そして私の部屋へと滑り込んでくる。
「いいんだよ、エメリア。ジュリエットは少し……気分が優れないだけだ。君が気に病む必要はない。さあ、冷めないうちに飲みなさい」
ロマリオ様の声は、どこまでも優しい。その優しさは、かつて私だけが独占していたものだった。
私は自室のソファで、リリアが淹れてくれた冷めた紅茶を眺めていた。食欲など、もう何日も前にどこかへ消えてしまった。
「奥様、もう扉を閉めてまいります。あんなもの、お聞きになる必要はありませんわ」
リリアが悔しさに顔を歪め、バタンと大きな音を立てて寝室の扉を閉めた。マリオも部屋の外で、エメリアの連れてきた下劣な使用人たちを睨みつけながら、必死に私の尊厳を守ろうとしてくれている。
けれど、家の主が「新妻よりも不運な従妹」を選んでいる以上、彼らの忠義も空虚に響くだけだった。
夜が更け、邸内が静まり返った頃。ようやくロマリオ様が私の部屋を訪れた。だが、その顔に愛の面影はない。あるのは「義務を果たしに来た」という冷淡な義務感と、私に対する隠しきれない苛立ちだった。
「まだ起きていたのか、ジュリエット。……君がそうやって暗い顔で沈み込んでいるせいで、エメリアが怯えている。自分がこの家にいるから、君を不幸にしているのではないかと、自分を責めて泣いているんだぞ」
開口一番、彼は私を責めた。ひどい!あまりにもひどい……。
新婚早々、夫を奪われ、家の平穏を壊されたのは私なのに。どうして被害者であるはずの私が、加害者である彼女の心をケアしなければならないのか。
「……ロマリオ様。私は、あなたと二人で過ごしたいだけなのです。新婚のこの時期に、なぜ壁一枚隔てた隣に他の女性を住ませるのですか? それが、私への愛の形なのですか?」
絞り出すような私の問いに、ロマリオ様は鼻で笑った。
「愛? 愛しているからこそ、君には僕の家族を……エメリアを慈しんでほしいと言っているんだ。ダグラス男爵家を継ぐ彼女は、まだ若く、守り手が必要なんだ。君のような、侯爵家の令嬢として不自由なく育った強い女性には、彼女の痛みはわからないのか?」
強い女性……。彼の中で、私は「何を与えなくても壊れない頑丈な女」に分類されたのだ。
エメリアが流す嘘の涙は「真珠」のように扱われ、私が流す真実の涙は「身勝手な嫉妬」と切り捨てられる。
ロマリオ様はそれ以上私に触れようともせず、ソファの端に腰掛けた。
「明日は、エメリアを連れて街へ出る。彼女の気分転換に、新しいドレスを誂えてやるつもりだ。君も来るか? ……まあ、そんな顔をされたら、彼女が楽しめないから、留守番をしていた方がいいかもしれないな」
言葉のナイフが、私の心を切り刻む。かつて、彼は私の誕生日に「君を世界一美しく飾るドレスを贈る」と約束してくれた。その約束も、今はエメリアのために上書きされていく。
「……ええ、お留守番をしておりますわ。どうぞ、お二人で『新婚夫婦』のようなひと時を過ごしください」
皮肉を込めたつもりだった。けれど、ロマリオ様には届かない。彼は「分かってくれたか」と満足げに頷き、早々に部屋を出て行った。向かう先は、自分の寝室ではなく、隣のエメリアの部屋だ。
「お兄様? まだ起きてらしたの? 嬉しい!」という彼女の声が聞こえ、扉が閉まる音がした。
私は、静かに立ち上がり、鏡の前に立った。そこには、十九歳の新婦とは思えないほど、生気を失った女が映っていた。
翌日。二人が楽しげに出かけていくのを、私は窓から見送った。
ロマリオ様がエメリアの腰を優しく抱き、馬車に乗せる。その様子は、誰がどう見ても睦まじい夫婦そのものだった。
見送った後、私はふらりと廊下に出た。誰もいないエメリアの部屋。扉は、わざとらしく少しだけ開け放たれていた。
誘われるように中へ入ると、そこには豪華な装飾品と、甘ったるい香水の匂いが充満していた。
机の上には、一通の書き置きがあった。宛先はない。けれど、明らかに私に読ませるために置かれたものだ。
『お義姉様へ。
お兄様は、私のことを「運命の人」だと仰ってくださいました。男爵位を継いだら、私はお兄様の「一番近く」にいられるように、ずっとこの家で暮らします。
お義姉様は、ただの「契約の妻」として、私にお兄様を貸し出してくださいね。
だって、お兄様が選んだのは、あなたの家柄であって、あなたではないのですから。』
「えっ!嘘……まさか、そんな……」
喉の奥が熱くなり、吐き気がした。
彼女は、不幸な少女などではない。確信犯的に、私からすべてを奪うことを楽しんでいる「悪女」なのだ。そして、その片棒を、私の愛した夫が担いでいる。
「奥様! こんなところにいてはいけません!」
駆け込んできたリリアが、私の肩を抱いた。
私は、震える手でその書き置きを握り潰した。
「リリア……マリオ……」
「はい、ここに。ここに、我ら夫婦がおりますぞ、奥様」
マリオが剣の柄を握り、苦しげに跪く。
「……もう、いいわ。もう、十分」
涙は出なかった。代わりに、胸の中にあった「ロマリオ」という名の初恋が、音を立てて崩れ落ちるのを感じた。
愛していた。心から。けれど、彼が私の心をこれほどまでに軽んじ、踏みにじるのであれば。
「私はもう、彼の妻であることをやめるわ」
十九歳の新婦。絶望の嵐の中で、私の心は急速に冷え固まっていく。
それは、後に彼がどれほど泣いて縋っても、二度と溶けることのない氷の心だった。
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