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冷えゆく新婚の別邸
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フロントナック侯爵邸の広大な敷地の一角に建てられた白亜の別邸。そこは、私とロマリオ様の新婚生活のために新築された、幸福の象徴のはずだった。
私の好みに合わせて誂えられた淡いブルーのカーテン、兄パトリックが贈ってくれた美しい細工の調度品。けれど今、この家を支配しているのは、私の愛した夫ではなく、招かれざる「不運な客」だった。
「奥様、スープをお持ちしました。……少しでも召し上がってください。お顔が、日に日に細くなって……」
震える声でそう言ったのは、実家から連れてきた侍女のリリアだった。彼女と、その夫である護衛のマリオだけが、今の私にとって唯一の心許せる相手だ。
リリアは私の手を握り、悔しそうに唇を噛んだ。
「お聞きになりましたか? エメリア様……今度は『不安で涙が止まらないから外に出られない』と仰って、旦那様に抱き抱えられてお庭を散歩されたそうですわ」
「……そう。またなのね」
私は力なく笑った。エメリアがこの家に来て二週間。彼女の「不運」と「不安」は日ごとに巧妙さを増していた。
彼女は、私とロマリオ様が少しでも二人きりになろうとすると、絶妙なタイミングで悲鳴を上げる。あるいは、私がロマリオ様のために作った刺繍を「あら、私のお母様が使っていたものに似ていて……思い出して胸が苦しいわ」と涙を流して台無しにする。
そのたびに、ロマリオ様は私にこう言うのだ。
「ジュリエット、君は健康で、家族もいて、何もかも持っているじゃないか。でも彼女には僕しかいないんだ。少しくらい譲ってあげてもいいだろう?」
『持てる者は、持たざる者に分け与えるのが当然だ』という、残酷なまでの善意。
リリアの夫、マリオが部屋の入り口で、苦渋に満ちた表情で頭を下げた。
「奥様。申し訳ございません。旦那様に従妹殿の様子を報告しようとしましたが、今は取り次げないと……。あの女の連れてきた使用人たちが、まるで盾のように旦那様を囲っております」
エメリアは「ダグラス男爵家の生き残り」として、数人の使用人を連れてきていた。彼らはエメリアの忠実な手先となり、ロマリオ様に私の声を届かせないよう画策している。
マリオとリリアは、必死に私を守ろうとしてくれている。けれど、主であるロマリオ様がエメリアに心酔している以上、彼らも動ける範囲が限られていた。
「いいのよ、二人とも。ありがとう。あなたたちまで不当な扱いを受けないように気をつけて」
「奥様……! そんな、ご自分のことだけを考えてくださいませ!」
リリアが涙をこぼしたその時、部屋の扉がノックもなしに乱暴に開かれた。立っていたのは、眉間に深い皺を刻んだロマリオ様だった。
「ジュリエット、話がある」
その冷え切った声に、背筋が凍る。リリアとマリオが私を庇うように前に出たが、ロマリオ様はそれを一瞥して吐き捨てた。
「下がれ。夫婦の話だ」
二人が渋々退出するのを見届けた後、ロマリオ様は机の上に一通の書類を叩きつけた。それは、エメリアが継承する予定のダグラス男爵位に関する委任状だった。
「エメリアが怯えている。君の侍女たちが、彼女に向かって『居候の分際で』と罵ったそうじゃないか。本当か?」
「えっ!嘘……そんなこと、リリアたちがするはずありませんわ」
あまりの冤罪に、私は椅子から立ち上がった。リリアは私のために心を痛めてはいるが、礼儀を欠くような真似は絶対にしない。
「彼女は泣きながら、自分のせいで新婚の僕たちが不仲になるのが耐えられないから、死んでお詫びするとまで言ったんだぞ! 彼女の繊細な心を、君の部下たちがどれほど傷つけたと思っているんだ!」
「ロマリオ様、落ち着いてください。彼女の言葉だけを信じるのですか? 私や、私の連れてきた者たちの言葉は……」
「君は嫉妬しているんだ、ジュリエット! 僕が彼女を気にかけるのが気に入らないから、そんな卑劣な嫌がらせを!」
ひどい。ひどすぎる。十年間、私たちは何を積み上げてきたのだろう。
私の知っているロマリオ様は、こんなに短慮で、人の言葉を一方的に決めつける人ではなかった。
「……嫉妬、ですか。私が? 愛する夫を従妹に奪われ、新婚の夜さえ一人で過ごさせられている妻が、嫉妬するのはいけないことなのですか?」
「エメリアは病人なんだ! 不運に見舞われた可哀想な従妹を助けるのが、フロントナック侯爵家の務めだろう!」
彼は、正義の味方に酔いしれている。エメリアを救っている自分という「騎士」の物語に。そしてその物語の中で、私は「美しい悲劇を邪魔する悪役令嬢」に仕立て上げられているのだ。
「明日から、彼女の体調が安定するまで、主寝室のこの部屋の隣の部屋に彼女を住まわせることにした。僕もすぐ駆けつけられるようにね」
「……まさか。ここは、私とあなたの……」
「文句を言うな。君の心の狭さには失望したよ」
ロマリオ様はそれだけ言い捨てると、背を向けて出て行った。
バタン、と大きな音を立てて閉まった扉。それは、私の心の中に残っていた最後の一片の「希望」が砕け散った音だった。
暗い部屋に取り残された私は、膝から崩れ落ちた。
駆け寄ってきたリリアとマリオの泣き声が遠くに聞こえる。
「……ああ、そうか」
涙さえ出なかった。ただ、胸の奥に灯っていた温かな火が、ふっと消えた感覚だけがあった。
「……もう何も言わないわ」
私は、自分の指に光る結婚指輪を見つめた。ロマリオ様が選んでくれた、永遠の愛の誓い。それが今は、冷たくて重い、ただの金属の塊にしか見えなかった。
明日、あの女がこの家の隣室に居を構える。愛を誓い合った新居で、夫は私の嘆きを無視して、彼女の嘘に寄り添う道を選んだのだ。木の香りが鼻を突くたび、私の心は急速に冷えていく。ロマリオ様。……あなたが私の心を殺したことに気づく日は、きっともう来ないのでしょうね。
___________
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私の好みに合わせて誂えられた淡いブルーのカーテン、兄パトリックが贈ってくれた美しい細工の調度品。けれど今、この家を支配しているのは、私の愛した夫ではなく、招かれざる「不運な客」だった。
「奥様、スープをお持ちしました。……少しでも召し上がってください。お顔が、日に日に細くなって……」
震える声でそう言ったのは、実家から連れてきた侍女のリリアだった。彼女と、その夫である護衛のマリオだけが、今の私にとって唯一の心許せる相手だ。
リリアは私の手を握り、悔しそうに唇を噛んだ。
「お聞きになりましたか? エメリア様……今度は『不安で涙が止まらないから外に出られない』と仰って、旦那様に抱き抱えられてお庭を散歩されたそうですわ」
「……そう。またなのね」
私は力なく笑った。エメリアがこの家に来て二週間。彼女の「不運」と「不安」は日ごとに巧妙さを増していた。
彼女は、私とロマリオ様が少しでも二人きりになろうとすると、絶妙なタイミングで悲鳴を上げる。あるいは、私がロマリオ様のために作った刺繍を「あら、私のお母様が使っていたものに似ていて……思い出して胸が苦しいわ」と涙を流して台無しにする。
そのたびに、ロマリオ様は私にこう言うのだ。
「ジュリエット、君は健康で、家族もいて、何もかも持っているじゃないか。でも彼女には僕しかいないんだ。少しくらい譲ってあげてもいいだろう?」
『持てる者は、持たざる者に分け与えるのが当然だ』という、残酷なまでの善意。
リリアの夫、マリオが部屋の入り口で、苦渋に満ちた表情で頭を下げた。
「奥様。申し訳ございません。旦那様に従妹殿の様子を報告しようとしましたが、今は取り次げないと……。あの女の連れてきた使用人たちが、まるで盾のように旦那様を囲っております」
エメリアは「ダグラス男爵家の生き残り」として、数人の使用人を連れてきていた。彼らはエメリアの忠実な手先となり、ロマリオ様に私の声を届かせないよう画策している。
マリオとリリアは、必死に私を守ろうとしてくれている。けれど、主であるロマリオ様がエメリアに心酔している以上、彼らも動ける範囲が限られていた。
「いいのよ、二人とも。ありがとう。あなたたちまで不当な扱いを受けないように気をつけて」
「奥様……! そんな、ご自分のことだけを考えてくださいませ!」
リリアが涙をこぼしたその時、部屋の扉がノックもなしに乱暴に開かれた。立っていたのは、眉間に深い皺を刻んだロマリオ様だった。
「ジュリエット、話がある」
その冷え切った声に、背筋が凍る。リリアとマリオが私を庇うように前に出たが、ロマリオ様はそれを一瞥して吐き捨てた。
「下がれ。夫婦の話だ」
二人が渋々退出するのを見届けた後、ロマリオ様は机の上に一通の書類を叩きつけた。それは、エメリアが継承する予定のダグラス男爵位に関する委任状だった。
「エメリアが怯えている。君の侍女たちが、彼女に向かって『居候の分際で』と罵ったそうじゃないか。本当か?」
「えっ!嘘……そんなこと、リリアたちがするはずありませんわ」
あまりの冤罪に、私は椅子から立ち上がった。リリアは私のために心を痛めてはいるが、礼儀を欠くような真似は絶対にしない。
「彼女は泣きながら、自分のせいで新婚の僕たちが不仲になるのが耐えられないから、死んでお詫びするとまで言ったんだぞ! 彼女の繊細な心を、君の部下たちがどれほど傷つけたと思っているんだ!」
「ロマリオ様、落ち着いてください。彼女の言葉だけを信じるのですか? 私や、私の連れてきた者たちの言葉は……」
「君は嫉妬しているんだ、ジュリエット! 僕が彼女を気にかけるのが気に入らないから、そんな卑劣な嫌がらせを!」
ひどい。ひどすぎる。十年間、私たちは何を積み上げてきたのだろう。
私の知っているロマリオ様は、こんなに短慮で、人の言葉を一方的に決めつける人ではなかった。
「……嫉妬、ですか。私が? 愛する夫を従妹に奪われ、新婚の夜さえ一人で過ごさせられている妻が、嫉妬するのはいけないことなのですか?」
「エメリアは病人なんだ! 不運に見舞われた可哀想な従妹を助けるのが、フロントナック侯爵家の務めだろう!」
彼は、正義の味方に酔いしれている。エメリアを救っている自分という「騎士」の物語に。そしてその物語の中で、私は「美しい悲劇を邪魔する悪役令嬢」に仕立て上げられているのだ。
「明日から、彼女の体調が安定するまで、主寝室のこの部屋の隣の部屋に彼女を住まわせることにした。僕もすぐ駆けつけられるようにね」
「……まさか。ここは、私とあなたの……」
「文句を言うな。君の心の狭さには失望したよ」
ロマリオ様はそれだけ言い捨てると、背を向けて出て行った。
バタン、と大きな音を立てて閉まった扉。それは、私の心の中に残っていた最後の一片の「希望」が砕け散った音だった。
暗い部屋に取り残された私は、膝から崩れ落ちた。
駆け寄ってきたリリアとマリオの泣き声が遠くに聞こえる。
「……ああ、そうか」
涙さえ出なかった。ただ、胸の奥に灯っていた温かな火が、ふっと消えた感覚だけがあった。
「……もう何も言わないわ」
私は、自分の指に光る結婚指輪を見つめた。ロマリオ様が選んでくれた、永遠の愛の誓い。それが今は、冷たくて重い、ただの金属の塊にしか見えなかった。
明日、あの女がこの家の隣室に居を構える。愛を誓い合った新居で、夫は私の嘆きを無視して、彼女の嘘に寄り添う道を選んだのだ。木の香りが鼻を突くたび、私の心は急速に冷えていく。ロマリオ様。……あなたが私の心を殺したことに気づく日は、きっともう来ないのでしょうね。
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