義妹にすべてを奪われた公爵夫人の回帰、今度は私があなたの居場所を奪う番です

恋せよ恋

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本編 逆襲の幕開け

虚空を見つめる死に戻り令嬢

「エメラルダ、少し話がある。……入るぞ」

  返事も待たずに扉が開く。重厚な足音と共に部屋へ踏み込んできたのは、ワーグナー公爵家の次期当主、レオナルドだった。

 以前の人生でのエメラルダなら、この足音を聞いただけで弾けるように立ち上がり、満面の笑みで彼を迎えていただろう。「レオナルド様! お会いできて嬉しいわ、お仕事はお疲れではありませんか?」と、甲斐甲斐しく椅子を引き、彼のお気に入りの茶葉を命じていたはずだ。

 だが、今のエメラルダは動かない。
 窓際の長椅子に深く腰を下ろしたまま、膝の上に置いた本に視線を落としている。

「……何の御用でしょうか、レオナルド様」

 顔も上げず、鈴の音のように澄んだ、けれど感情の起伏を一切排した声。
 レオナルドが、一瞬だけ言葉を詰まらせたのがわかった。彼にとって、エメラルダは常に自分を熱烈に追いかけ、機嫌を伺ってくる「退屈なほど扱いやすい女」だったからだ。

「シャルロットのことだ。彼女が泣きながら訴えてきた。君に鏡を投げつけられ、ひどい暴言を吐かれたと……。一体どういう風の吹き回しだ? 君はもっと温厚で、義妹思いの女だと思っていたが」

 レオナルドの声には、明確な不快感と、どこか「自分の方が上の立場である」という傲慢さが滲んでいた。

 以前のエメラルダなら、この詰問に顔を青くし、「違います、あれは事故で……! シャルロットを傷つけるつもりなんて!」と、必死に弁解していただろう。
 だが、今のエメラルダの内面は、冷え切った湖面のようだった。

 エメラルダは、ゆっくりと本を閉じた。しかし、レオナルドとは目を合わせない。彼女は窓の外、遠く広がる王都の街並みを、まるで現世に未練などない聖女のような虚ろな目で見つめた。

「……ええ。彼女の言う通りかもしれませんわ」

「何だと?」

「私、気づいてしまったのです。……私がこのまま公爵家に嫁げば、きっと皆様を不幸にしてしまうのだと」

 エメラルダは、はぁ、と儚げな溜息を吐き出した。その肩は微かに震え、今にも消えてしまいそうな危うさを孕んでいる。

「エメラルダ……?」

「レオナルド様。貴方はお若く、前途有望な公爵家の嫡男。……私のような、感情の制御もままならない、度量の狭い女が隣に立つべきではないのですわ。シャルロットの方が、ずっと貴方に相応しい……。そう思うと、胸が締め付けられて、自分を抑えられなくなってしまったの」

 エメラルダは、決してレオナルドを見ない。ただ虚空を見つめ、何かに怯えるように自分の細い肩を抱きしめた。

「私……貴方の重荷になりたくないの。……いいえ、なってはいけないのですわ。この縁談自体が、間違いだったのかもしれません。……うっ、ひっく……」

 細い指の間から、一粒の涙が零れ落ちる。
 それは、かつての執着に満ちた重い涙ではない。自分から身を引こうとする、あまりにも潔く、そして悲劇的な涙だ。

「待て、エメラルダ。何を言っているんだ。縁談が間違いだなんて、そんな勝手な……!」

 レオナルドの声に、焦りが混じり始めた。
 彼は、エメラルダに「愛している」と縋られることには慣れていた。だが、「貴方の重荷になるから消える」と突き放される経験など一度もなかったのだ。

 人間というのは勝手な生き物だ。いつでも手に入ると思っていた獲物が、自ら死を選ぼうとするかのように遠ざかると、急にそれを繋ぎ止めたくなる。

「顔を上げろ、エメラルダ。僕を見ろ」

 レオナルドが強引にエメラルダの隣に座り、彼女の肩を掴んだ。
 内面の怒りを押し殺し、エメラルダは力なく、糸が切れた操り人形のように視線を彼へと向けた。その瞳は焦点が合っておらず、深い絶望の沼に沈んでいるように見える。

「……レオナルド様。私は……私は貴方を愛するのが、怖くなってしまったのです。……どうか、私を捨ててくださいな。それが貴方の幸せのためですわ」

「馬鹿なことを言うな! 誰がそんなことを望む! シャルロットのことなら、僕が言い聞かせる。君がそんなに追い詰められていたなんて……」

 レオナルドの顔に、明らかな後悔の色が浮かぶ。
 彼は、エメラルダが自分を嫌いになったのではなく、「愛しすぎるあまり、自分の未熟さに絶望して身を引こうとしている」のだと、盛大な勘違いをしてくれたのだ。

「……本当に、いいのですか? 私、またシャルロットに酷いことをしてしまうかもしれませんわ……。貴方を思うあまり、自分を制御できなくなって……」

「いいんだ。君のその激しさも、僕への愛ゆえなのだろう? ……すまなかった、エメラルダ。君を一人で悩ませてしまった」

 レオナルドが、エメラルダを優しく抱きしめる。
 その胸板の厚み、香水の匂い。かつては狂おしいほど求めた場所だ。だが今は、鳥肌を通り越して、肌が腐り落ちそうなほどの嫌悪感しかない。

「……ありがとうございます、レオナルド様。……ああ、私、なんて幸せ者なのかしら」

 エメラルダはレオナルドの背中に手を回し、そっと彼にしがみついた。
 レオナルドには見えない彼女の表情は、今や冷酷なまでに美しく、壮絶な微笑を湛えていた。

「(……死ねばいいのに、最低男)」

「ん? 何か言ったか?」

「いいえ。……貴方の鼓動が、とても力強いわ、と言ったのですわ。……ふふふ」

 エメラルダは、腕の中の「獲物」の感触を確かめるように、さらに強く抱きしめた。
 
 かつての献身的な彼女は、もうどこにもいない。
 そこにいるのは、絶望を餌にして蘇った、美しき復讐者だけだった。
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