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氷の令嬢の諦観
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学園の廊下を歩けば、どこからともなく囁き声が聞こえてくる。
それは、飛ぶ鳥を落とす勢いでその名を轟かせるリカルドへの賛辞と、対照的に、婚約者に公然と軽んじられている私への憐憫だった。
「……セシリア様、本当にあんな扱いでよろしいのですか?」
唯一の味方である侍女のアンナが、馬車の中で悔しそうに拳を握りしめる。
今日も昼食の席で、エドワード殿下は私の目の前でミナ・アルベール嬢に果実を剥いて食べさせていた。王家の次期後継者としてあるまじき、品性を欠いた振る舞いだ。
「構わないわ、アンナ。これは政略結婚。殿下の心がどこにあろうと、私がオーブライト公爵家の義務を果たすことに変わりはないもの」
私は窓の外を流れる景色を眺めながら、淡々と答えた。
心は、ずっと前に凍りついている。父からも母からも、私は「公爵家の道具」として育てられた。感情を出すことは弱さを晒すことだと、そう教え込まれてきた。
だから、殿下がミナ嬢にどれほど溺れようと、私を公衆の面前で無視しようと、私の仮面が剥がれることはない。
ただ――。あの茶色の瞳に、見つめられる時だけを除いて。
「リカルド……様……」
学園の校舎裏、次の講義へ向かう途中で彼と鉢合わせた。
リカルドは数人の男子生徒に囲まれていたが、私を見つけるなり、それまでの穏やかな笑みを消し、射抜くような鋭い視線を私に向けた。
かつてのひょろひょろとした少年は、今や制服の肩幅が窮屈に見えるほど、逞しい青年へと成長している。
「セシリア公爵令嬢。ご機嫌麗しゅう」
完璧な一礼。
けれど、その声は低く、地を這うような怒りを含んでいた。
周りの生徒たちが私たちのただならぬ雰囲気に気圧され、足早に去っていく。二人きりになった静寂の中で、リカルドは一歩、私に近づいた。
「……何よ。用がないなら通してくださる?」
「殿下の振る舞い、ご覧になりましたか」
リカルドの声が震えている。
「ご覧になったはずだ。あんな女に鼻の下を伸ばし、あなたの誇りを踏みにじっているあの男を。……なぜ、あなたは笑っていられるんだ!」
「笑ってなどいないわ。ただ、無関心なだけよ。リカルド、あなたには関係のないことだと言ったはずよ」
私は彼を冷たく突き放そうとした。これ以上、彼の熱に触れてしまえば、私が必死に守り続けてきた「氷の城」が溶けて崩れてしまうような気がしたから。
「関係ない? 俺をここまで作り上げたのはあなただ、セシリア! 俺の肌、髪の質、服の着こなし、言葉遣い……俺のすべてにあなたの痕跡がある。それなのに、あなたを傷つける奴を、俺が黙って見ていられると思うのか!」
リカルドが私の手首を掴んだ。
熱い。火傷しそうなほどの体温が、手袋越しに伝わってくる。
「……離しなさい。あなたは今、私を助ける力など持たない、ただの学生でしょう。無茶な振る舞いは、私があなたに費やした時間と金を無駄にするだけよ」
私はわざと、彼が最も嫌がる「金」と「施し」の話を持ち出した。
リカルドは屈辱に顔を歪め、ゆっくりと私の手を離した。
「……そうですね。今の俺は、まだあなたの所有物でしかない」
彼は自嘲気味に笑った。
だが、その瞳の奥にある炎は消えていなかった。むしろ、より深く、静かな殺意を孕んだ決意へと変わっていく。
「見ていてください、セシリア。俺は、あなたをその檻から救い出す。たとえあなたが、それを望んでいないとしても」
彼が去った後、私は自分の手首を抑え、その場に立ち尽くした。動悸が止まらない。
優秀で賢くて、どこか冷めた私の心が、唯一激しく波打つのは、彼と向き合っている時だけだ。
リカルドの世話を焼き、彼を一人前の男に仕立て上げること。それだけが、私の人生で唯一、自分の意志で行ったことだった。
――数日後、学園に衝撃的なニュースが走った。
リカルド・グラン子爵令息が、王太子の側近候補から外れ、第二王子派の重鎮である「エルンスト伯爵家」の養子に入ることが決まったという。
エルンスト伯爵家は、我がオーブライト公爵家の筆頭家門。
つまり、リカルドは「貧乏子爵家の三男」という足枷を脱ぎ捨て、私を支える最有力な「貴族の嫡男」として、表舞台に躍り出たのだ。
一方で、エドワード殿下はミナ嬢との関係を隠そうともしなくなっていた。彼女は女狐としての本領を発揮し、殿下だけでなく、その周囲の側近候補たちにも巧妙に色目を使い始めていた。
学園のサロンでは、高笑いする殿下と、その腕に縋り付くミナ嬢。
私は一人、誰にも見られない隅の席で、読みかけの本を閉じた。
「……ゲームが始まったのね」
リカルド。あなたが選んだ道が、私を救うためのものなのか、それとも私を壊すためのものなのか。冷え切った私の心に、わずかな期待と、それ以上の恐怖が入り混じる。
窓の外では、不穏な黒雲が広がり始めていた。王国の未来を揺るがす嵐の予感とともに。
____________
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それは、飛ぶ鳥を落とす勢いでその名を轟かせるリカルドへの賛辞と、対照的に、婚約者に公然と軽んじられている私への憐憫だった。
「……セシリア様、本当にあんな扱いでよろしいのですか?」
唯一の味方である侍女のアンナが、馬車の中で悔しそうに拳を握りしめる。
今日も昼食の席で、エドワード殿下は私の目の前でミナ・アルベール嬢に果実を剥いて食べさせていた。王家の次期後継者としてあるまじき、品性を欠いた振る舞いだ。
「構わないわ、アンナ。これは政略結婚。殿下の心がどこにあろうと、私がオーブライト公爵家の義務を果たすことに変わりはないもの」
私は窓の外を流れる景色を眺めながら、淡々と答えた。
心は、ずっと前に凍りついている。父からも母からも、私は「公爵家の道具」として育てられた。感情を出すことは弱さを晒すことだと、そう教え込まれてきた。
だから、殿下がミナ嬢にどれほど溺れようと、私を公衆の面前で無視しようと、私の仮面が剥がれることはない。
ただ――。あの茶色の瞳に、見つめられる時だけを除いて。
「リカルド……様……」
学園の校舎裏、次の講義へ向かう途中で彼と鉢合わせた。
リカルドは数人の男子生徒に囲まれていたが、私を見つけるなり、それまでの穏やかな笑みを消し、射抜くような鋭い視線を私に向けた。
かつてのひょろひょろとした少年は、今や制服の肩幅が窮屈に見えるほど、逞しい青年へと成長している。
「セシリア公爵令嬢。ご機嫌麗しゅう」
完璧な一礼。
けれど、その声は低く、地を這うような怒りを含んでいた。
周りの生徒たちが私たちのただならぬ雰囲気に気圧され、足早に去っていく。二人きりになった静寂の中で、リカルドは一歩、私に近づいた。
「……何よ。用がないなら通してくださる?」
「殿下の振る舞い、ご覧になりましたか」
リカルドの声が震えている。
「ご覧になったはずだ。あんな女に鼻の下を伸ばし、あなたの誇りを踏みにじっているあの男を。……なぜ、あなたは笑っていられるんだ!」
「笑ってなどいないわ。ただ、無関心なだけよ。リカルド、あなたには関係のないことだと言ったはずよ」
私は彼を冷たく突き放そうとした。これ以上、彼の熱に触れてしまえば、私が必死に守り続けてきた「氷の城」が溶けて崩れてしまうような気がしたから。
「関係ない? 俺をここまで作り上げたのはあなただ、セシリア! 俺の肌、髪の質、服の着こなし、言葉遣い……俺のすべてにあなたの痕跡がある。それなのに、あなたを傷つける奴を、俺が黙って見ていられると思うのか!」
リカルドが私の手首を掴んだ。
熱い。火傷しそうなほどの体温が、手袋越しに伝わってくる。
「……離しなさい。あなたは今、私を助ける力など持たない、ただの学生でしょう。無茶な振る舞いは、私があなたに費やした時間と金を無駄にするだけよ」
私はわざと、彼が最も嫌がる「金」と「施し」の話を持ち出した。
リカルドは屈辱に顔を歪め、ゆっくりと私の手を離した。
「……そうですね。今の俺は、まだあなたの所有物でしかない」
彼は自嘲気味に笑った。
だが、その瞳の奥にある炎は消えていなかった。むしろ、より深く、静かな殺意を孕んだ決意へと変わっていく。
「見ていてください、セシリア。俺は、あなたをその檻から救い出す。たとえあなたが、それを望んでいないとしても」
彼が去った後、私は自分の手首を抑え、その場に立ち尽くした。動悸が止まらない。
優秀で賢くて、どこか冷めた私の心が、唯一激しく波打つのは、彼と向き合っている時だけだ。
リカルドの世話を焼き、彼を一人前の男に仕立て上げること。それだけが、私の人生で唯一、自分の意志で行ったことだった。
――数日後、学園に衝撃的なニュースが走った。
リカルド・グラン子爵令息が、王太子の側近候補から外れ、第二王子派の重鎮である「エルンスト伯爵家」の養子に入ることが決まったという。
エルンスト伯爵家は、我がオーブライト公爵家の筆頭家門。
つまり、リカルドは「貧乏子爵家の三男」という足枷を脱ぎ捨て、私を支える最有力な「貴族の嫡男」として、表舞台に躍り出たのだ。
一方で、エドワード殿下はミナ嬢との関係を隠そうともしなくなっていた。彼女は女狐としての本領を発揮し、殿下だけでなく、その周囲の側近候補たちにも巧妙に色目を使い始めていた。
学園のサロンでは、高笑いする殿下と、その腕に縋り付くミナ嬢。
私は一人、誰にも見られない隅の席で、読みかけの本を閉じた。
「……ゲームが始まったのね」
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