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ミモザの香りは嘘をつく
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春の陽光が差し込むミモザ商会の執務室。窓の外には、私たちの絆の象徴であるミモザの木々が、鮮やかな黄色い花をたわわにつけていた。
「友情」「感謝」「思いやり」――この花言葉のように、私たちの未来も黄金色に輝いていると信じて疑わなかった。
「……ねえ、フィー。今回の隣国への出張だけど、同行者はキャトリーヌにしようと思うんだ」
書類に目を落としたまま、夫のリヴィ――オリビエ・フォックスが、ふと言い出した。
私は羽ペンを動かす手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
「……事務員のキャトリーヌさんを? リヴィ、珍しいわね。いつもは実務に慣れた男性陣を連れて行くのに」
私が小首をかしげて微笑むと、オリビエはようやく顔を上げ、少し困ったような、それでいて優しい、いつもの「彼らしい」笑顔を浮かべた。学園時代から私を虜にしてきた、あの柔らかな眼差しだ。
「ああ。彼女、一度目の結婚で随分苦労したみたいでね。新婚旅行にも行ったことがなくて、海すら見たことがないって言うんだ。実家の男爵家でも肩身が狭いみたいだし……。少し広い世界を見せてあげれば、彼女の陰りも晴れるんじゃないかな。フィーも、彼女には親切にしてあげていただろう?」
オリビエの声は、どこまでも誠実で、善意に満ちていた。
彼は知らない。その「無垢な優しさ」が、今、妻である私の胸をどれほど深く抉っているかを。
私たちは学園の三年間、親友であり、最高の婚約者同士だった。一ヶ月の新婚旅行では、ミモザの並木道を歩きながら「フィー、君を一生守る。僕たちは世界一幸せな夫婦になろう」と、彼は何度も私の額にキスをくれた。
それなのに、最近のオリビエはどこか遠い。
顔を合わせるのは週に一度。たまに帰宅しても「疲れている」と、私に触れようともしない。
「リヴィ、貴方の優しさは素敵だけど……。今回の出張はルミナス王国との真珠の交渉も含まれているわ。私たちがずっと夢見ていた大事な取引よ? 実務に明るい私の実家の者を同行させた方が、貴方の助けになると思うのだけれど」
私は努めて、対等なビジネスパートナーとして、そして愛する妻として進言した。
けれど、オリビエはわずかに眉を寄せた。
「フィー、君はいつも完璧で、強いからね。でも、彼女……キャトリーヌは違うんだ。君のように一人で立てる強さがない。僕が少し手を貸してあげないと、今にも折れてしまいそうで……。大人の男として、放っておけないんだよ」
――私は、強いから?
その言葉が、冷たい氷の棘となって刺さる。
共に商会を立ち上げ、泥臭い交渉も計算も、オリビエと一緒に乗り越えてきた私の「強さ」は、今や彼にとって守るべき価値を失ったらしい。
「……分かったわ、リヴィ。貴方がそう言うなら」
私はそれ以上、何も言わなかった。
心の中では、事務員たちが囁いていた噂が黒い渦となって渦巻いていた。
『旦那様、また、事務室でキャトリーヌ様と話し込んでいらっしゃるわ』
『泣いている彼女の肩を、旦那様が抱いて……』
まさか、あのオリビエが? 私の親友で、最愛の夫のリヴィが?
一週間後、オリビエはキャトリーヌを含む事務員五名を連れて旅立った。
見送りの際、キャトリーヌは守ってやりたくなるような、儚い微笑みで私に会釈した。
「奥様、オリビエ様をお借りしますわ。精一杯お支えします」
その茶色のアーモンド型の瞳の奥に、暗い独占欲が見えたのは、私の気のせいだったのだろうか。
二人が発った後、私は猛烈な吐き気に襲われた。
診断の結果は、皮肉にも、私たちが愛し合っていた証だった。
「……御懐妊です!六週目といったところでしょう」
医師の言葉を聞いた瞬間、喜びよりも先に、心臓が凍りつくような感覚が走った。
お腹の中に、リヴィとの子が宿っている。でも、彼は今、自分を「必要としてくれる」別の女に夢中なのだ。
「先生。このことは、まだ夫には伏せておいていただけますか」
私は一人、鏡の前に立ち、まだ平らなお腹に手を当てた。
「リヴィ……あなたは、私たちが築いたものを、あまりに軽く扱いすぎたわ」
私は執務机に戻り、手帳を開いた。
これからの数ヶ月、私がすべきことは、愛を乞うことではない。彼が「不遇な女を救うヒーロー」を演じている間に、彼から商会の実権を完全に奪い取り、二度と私の隣に立つ資格がないことを証明するための準備だ。
窓の外では、ミモザの花粉が黄金の雨のように降り注いでいた。それは、かつての幸せの終わりを告げる、静かな葬列のよう。
ミモザの別の顔――『秘密の恋』という花言葉が頭に浮かび、そして、冷たい風と一緒に消えた。
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「友情」「感謝」「思いやり」――この花言葉のように、私たちの未来も黄金色に輝いていると信じて疑わなかった。
「……ねえ、フィー。今回の隣国への出張だけど、同行者はキャトリーヌにしようと思うんだ」
書類に目を落としたまま、夫のリヴィ――オリビエ・フォックスが、ふと言い出した。
私は羽ペンを動かす手を止め、ゆっくりと顔を上げた。
「……事務員のキャトリーヌさんを? リヴィ、珍しいわね。いつもは実務に慣れた男性陣を連れて行くのに」
私が小首をかしげて微笑むと、オリビエはようやく顔を上げ、少し困ったような、それでいて優しい、いつもの「彼らしい」笑顔を浮かべた。学園時代から私を虜にしてきた、あの柔らかな眼差しだ。
「ああ。彼女、一度目の結婚で随分苦労したみたいでね。新婚旅行にも行ったことがなくて、海すら見たことがないって言うんだ。実家の男爵家でも肩身が狭いみたいだし……。少し広い世界を見せてあげれば、彼女の陰りも晴れるんじゃないかな。フィーも、彼女には親切にしてあげていただろう?」
オリビエの声は、どこまでも誠実で、善意に満ちていた。
彼は知らない。その「無垢な優しさ」が、今、妻である私の胸をどれほど深く抉っているかを。
私たちは学園の三年間、親友であり、最高の婚約者同士だった。一ヶ月の新婚旅行では、ミモザの並木道を歩きながら「フィー、君を一生守る。僕たちは世界一幸せな夫婦になろう」と、彼は何度も私の額にキスをくれた。
それなのに、最近のオリビエはどこか遠い。
顔を合わせるのは週に一度。たまに帰宅しても「疲れている」と、私に触れようともしない。
「リヴィ、貴方の優しさは素敵だけど……。今回の出張はルミナス王国との真珠の交渉も含まれているわ。私たちがずっと夢見ていた大事な取引よ? 実務に明るい私の実家の者を同行させた方が、貴方の助けになると思うのだけれど」
私は努めて、対等なビジネスパートナーとして、そして愛する妻として進言した。
けれど、オリビエはわずかに眉を寄せた。
「フィー、君はいつも完璧で、強いからね。でも、彼女……キャトリーヌは違うんだ。君のように一人で立てる強さがない。僕が少し手を貸してあげないと、今にも折れてしまいそうで……。大人の男として、放っておけないんだよ」
――私は、強いから?
その言葉が、冷たい氷の棘となって刺さる。
共に商会を立ち上げ、泥臭い交渉も計算も、オリビエと一緒に乗り越えてきた私の「強さ」は、今や彼にとって守るべき価値を失ったらしい。
「……分かったわ、リヴィ。貴方がそう言うなら」
私はそれ以上、何も言わなかった。
心の中では、事務員たちが囁いていた噂が黒い渦となって渦巻いていた。
『旦那様、また、事務室でキャトリーヌ様と話し込んでいらっしゃるわ』
『泣いている彼女の肩を、旦那様が抱いて……』
まさか、あのオリビエが? 私の親友で、最愛の夫のリヴィが?
一週間後、オリビエはキャトリーヌを含む事務員五名を連れて旅立った。
見送りの際、キャトリーヌは守ってやりたくなるような、儚い微笑みで私に会釈した。
「奥様、オリビエ様をお借りしますわ。精一杯お支えします」
その茶色のアーモンド型の瞳の奥に、暗い独占欲が見えたのは、私の気のせいだったのだろうか。
二人が発った後、私は猛烈な吐き気に襲われた。
診断の結果は、皮肉にも、私たちが愛し合っていた証だった。
「……御懐妊です!六週目といったところでしょう」
医師の言葉を聞いた瞬間、喜びよりも先に、心臓が凍りつくような感覚が走った。
お腹の中に、リヴィとの子が宿っている。でも、彼は今、自分を「必要としてくれる」別の女に夢中なのだ。
「先生。このことは、まだ夫には伏せておいていただけますか」
私は一人、鏡の前に立ち、まだ平らなお腹に手を当てた。
「リヴィ……あなたは、私たちが築いたものを、あまりに軽く扱いすぎたわ」
私は執務机に戻り、手帳を開いた。
これからの数ヶ月、私がすべきことは、愛を乞うことではない。彼が「不遇な女を救うヒーロー」を演じている間に、彼から商会の実権を完全に奪い取り、二度と私の隣に立つ資格がないことを証明するための準備だ。
窓の外では、ミモザの花粉が黄金の雨のように降り注いでいた。それは、かつての幸せの終わりを告げる、静かな葬列のよう。
ミモザの別の顔――『秘密の恋』という花言葉が頭に浮かび、そして、冷たい風と一緒に消えた。
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