2 / 2
不実な夫の帰宅
しおりを挟む
隣国への出張から三週間。オリビエが無事に帰還したその日、屋敷はいつも通りの静謐を保っていた。
「フィー、ただいま! 会いたかったよ」
玄関ホールに響くオリビエの声は、以前のように明るく、弾んでいた。
私は階段を下り、夫を出迎える。オリビエは私を見るなり、嬉しそうに両腕を広げた。
「お帰りなさい、リヴィ。予定より早かったのね」
私は微笑み、彼の胸に飛び込むふりをして、その肩に顔を寄せた。
瞬間、鼻を突いたのはオリビエの香りサンダルウッドの香りではない。安価な薔薇の油と、知らない女の肌の匂い。
私は反射的に吐き気を覚えたが、それを愛おしそうな溜息に変えて、彼から身を引いた。
「……お疲れのようね。少し痩せたかしら?」
「ああ、交渉が大変でね。でも、キャトリーヌがよく気がついてくれて助かったよ。彼女、海を見て子供みたいに喜ぶんだ。フィーにも見せてあげたかったな、あの光景」
オリビエは無邪気に語る。私を「フィー」と呼ぶその口で、別の女との思い出を楽しそうに披露する彼の無神経さに、胸の奥が冷えていく。
彼は、私が嫉妬することを恐れていない。なぜなら「フィーは僕を信じているし、僕たちは特別な絆で結ばれている」と、慢心しているからだ。
「そう、彼女が役に立ったなら良かったわ。……でも今夜はごめんなさい、リヴィ。ルミナスから届いた真珠の検品が山積みで、食事は書斎で摂るわね」
「えっ? せっかく帰ったのに。……フィー、最近、仕事に根を詰めすぎじゃないかい? 僕との時間も大切にしてほしいな」
オリビエが寂しそうに私の手を取る。かつてなら、私はその手に甘えて仕事を放り出していた。けれど今は、その指先がキャトリーヌのどこに触れたかを想像すると、肌に粟が生じる。
「分かっているわ。でも、この取引はリヴィと私の夢でしょう? 貴方が外で頑張ってくれた分、私もここを守りたいの」
「……。ああ、そうだね。君は本当にしっかりしているな。誇りに思うよ」
オリビエは満足げに頷き、私の額に軽いキスを落として自室へ向かった。
彼が「寂しさ」を埋めるために、また明日、事務室でキャトリーヌを呼ぶことを、私は確信していた。
深夜。書斎で私は一人、両親への手紙を書き始めた。
それは、オリビエが計上した「出張中の私用経費」――高級な宝飾品や、女連れでなければ泊まらないような宿の領収書の写しを添えた、絶縁への布石だ。
『お父様、お母様。私は、オリビエとの関係を清算する決意をしました』
文字が滲まないよう、震える手を押さえつける。
私は、夫に悟られないよう、これからのスケジュールを構築した。
つわりが本格化する時期には、別居。お腹が目立ち始める頃には、ゆったりとしたドレープの新作ドレスでカモフラージュする。
(……ごめんなさい、私の可愛い赤ちゃん)
お腹に触れる。
オリビエはきっと、子供が生まれれば「愛しているのは君だけだ、魔が差したんだ」と泣いて縋るだろう。
けれど、その「愛」は、私を、そしてこの子を裏切った事実を消し去ることはできない。
翌朝。商会の事務室に現れたキャトリーヌの首筋には、隠しきれない薄れた痕があった。
「おはようございます、フィー様。……あ、いえ、ステファニー様。昨夜はオリビエ様と素敵なお時間を過ごされましたか?」
彼女は、リヴィが私を呼ぶ愛称をわざと口にし、勝ち誇ったように微笑んだ。
私はその醜悪なまでの優越感を見つめ、静かに紅茶を啜った。
「ええ、リヴィはとても疲れていたみたい。あんなに熱心に働いてくれるなんて、貴方のサポートのおかげね。これからも、彼を支えてあげてちょうだい」
キャトリーヌは一瞬、戸惑ったように目を見開いたが、すぐに満足げに口角を上げた。
(そうよ、私が彼を支えているの。貴方みたいな冷たい女に、彼は勿体ないわ……)
まるで、彼女の心の声が聞こえるようだった。
『滑稽だわ』、と私は思った。彼女が奪おうとしているのは、すでに芯が腐り、倒れるのを待つだけの巨木だというのに。
オリビエ、そしてキャトリーヌ。貴方たち二人が「不貞」という甘い蜜に酔いしれている間に、私は出口を塞ぎ、彼らを迷宮ごと焼き払う準備を整える。
窓の外では、ミモザの花びらが、オリビエの歩く道に降り積もっていた。
それはかつての私たちが誓った愛の残骸のように、ただ静かに、踏みつけられていく。
_________
エール📣いいね❤️お気に入り⭐️応援よろしくお願いします🙇♀️
「フィー、ただいま! 会いたかったよ」
玄関ホールに響くオリビエの声は、以前のように明るく、弾んでいた。
私は階段を下り、夫を出迎える。オリビエは私を見るなり、嬉しそうに両腕を広げた。
「お帰りなさい、リヴィ。予定より早かったのね」
私は微笑み、彼の胸に飛び込むふりをして、その肩に顔を寄せた。
瞬間、鼻を突いたのはオリビエの香りサンダルウッドの香りではない。安価な薔薇の油と、知らない女の肌の匂い。
私は反射的に吐き気を覚えたが、それを愛おしそうな溜息に変えて、彼から身を引いた。
「……お疲れのようね。少し痩せたかしら?」
「ああ、交渉が大変でね。でも、キャトリーヌがよく気がついてくれて助かったよ。彼女、海を見て子供みたいに喜ぶんだ。フィーにも見せてあげたかったな、あの光景」
オリビエは無邪気に語る。私を「フィー」と呼ぶその口で、別の女との思い出を楽しそうに披露する彼の無神経さに、胸の奥が冷えていく。
彼は、私が嫉妬することを恐れていない。なぜなら「フィーは僕を信じているし、僕たちは特別な絆で結ばれている」と、慢心しているからだ。
「そう、彼女が役に立ったなら良かったわ。……でも今夜はごめんなさい、リヴィ。ルミナスから届いた真珠の検品が山積みで、食事は書斎で摂るわね」
「えっ? せっかく帰ったのに。……フィー、最近、仕事に根を詰めすぎじゃないかい? 僕との時間も大切にしてほしいな」
オリビエが寂しそうに私の手を取る。かつてなら、私はその手に甘えて仕事を放り出していた。けれど今は、その指先がキャトリーヌのどこに触れたかを想像すると、肌に粟が生じる。
「分かっているわ。でも、この取引はリヴィと私の夢でしょう? 貴方が外で頑張ってくれた分、私もここを守りたいの」
「……。ああ、そうだね。君は本当にしっかりしているな。誇りに思うよ」
オリビエは満足げに頷き、私の額に軽いキスを落として自室へ向かった。
彼が「寂しさ」を埋めるために、また明日、事務室でキャトリーヌを呼ぶことを、私は確信していた。
深夜。書斎で私は一人、両親への手紙を書き始めた。
それは、オリビエが計上した「出張中の私用経費」――高級な宝飾品や、女連れでなければ泊まらないような宿の領収書の写しを添えた、絶縁への布石だ。
『お父様、お母様。私は、オリビエとの関係を清算する決意をしました』
文字が滲まないよう、震える手を押さえつける。
私は、夫に悟られないよう、これからのスケジュールを構築した。
つわりが本格化する時期には、別居。お腹が目立ち始める頃には、ゆったりとしたドレープの新作ドレスでカモフラージュする。
(……ごめんなさい、私の可愛い赤ちゃん)
お腹に触れる。
オリビエはきっと、子供が生まれれば「愛しているのは君だけだ、魔が差したんだ」と泣いて縋るだろう。
けれど、その「愛」は、私を、そしてこの子を裏切った事実を消し去ることはできない。
翌朝。商会の事務室に現れたキャトリーヌの首筋には、隠しきれない薄れた痕があった。
「おはようございます、フィー様。……あ、いえ、ステファニー様。昨夜はオリビエ様と素敵なお時間を過ごされましたか?」
彼女は、リヴィが私を呼ぶ愛称をわざと口にし、勝ち誇ったように微笑んだ。
私はその醜悪なまでの優越感を見つめ、静かに紅茶を啜った。
「ええ、リヴィはとても疲れていたみたい。あんなに熱心に働いてくれるなんて、貴方のサポートのおかげね。これからも、彼を支えてあげてちょうだい」
キャトリーヌは一瞬、戸惑ったように目を見開いたが、すぐに満足げに口角を上げた。
(そうよ、私が彼を支えているの。貴方みたいな冷たい女に、彼は勿体ないわ……)
まるで、彼女の心の声が聞こえるようだった。
『滑稽だわ』、と私は思った。彼女が奪おうとしているのは、すでに芯が腐り、倒れるのを待つだけの巨木だというのに。
オリビエ、そしてキャトリーヌ。貴方たち二人が「不貞」という甘い蜜に酔いしれている間に、私は出口を塞ぎ、彼らを迷宮ごと焼き払う準備を整える。
窓の外では、ミモザの花びらが、オリビエの歩く道に降り積もっていた。
それはかつての私たちが誓った愛の残骸のように、ただ静かに、踏みつけられていく。
_________
エール📣いいね❤️お気に入り⭐️応援よろしくお願いします🙇♀️
433
この作品は感想を受け付けておりません。
あなたにおすすめの小説
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
【完結】精霊に選ばれなかった私は…
まりぃべる
ファンタジー
ここダロックフェイ国では、5歳になると精霊の森へ行く。精霊に選んでもらえれば、将来有望だ。
しかし、キャロル=マフェソン辺境伯爵令嬢は、精霊に選んでもらえなかった。
選ばれた者は、王立学院で将来国の為になるべく通う。
選ばれなかった者は、教会の学校で一般教養を学ぶ。
貴族なら、より高い地位を狙うのがステータスであるが…?
☆世界観は、緩いですのでそこのところご理解のうえ、お読み下さるとありがたいです。
断腸の思いで王家に差し出した孫娘が婚約破棄されて帰ってきた
兎屋亀吉
恋愛
ある日王家主催のパーティに行くといって出かけた孫娘のエリカが泣きながら帰ってきた。買ったばかりのドレスは真っ赤なワインで汚され、左頬は腫れていた。話を聞くと王子に婚約を破棄され、取り巻きたちに酷いことをされたという。許せん。戦じゃ。この命燃え尽きようとも、必ずや王家を滅ぼしてみせようぞ。
【完結】英雄様、婚約破棄なさるなら我々もこれにて失礼いたします。
紺
ファンタジー
「婚約者であるニーナと誓いの破棄を望みます。あの女は何もせずのうのうと暮らしていた役立たずだ」
実力主義者のホリックは魔王討伐戦を終結させた褒美として国王に直談判する。どうやら戦争中も優雅に暮らしていたニーナを嫌っており、しかも戦地で出会った聖女との結婚を望んでいた。英雄となった自分に酔いしれる彼の元に、それまで苦楽を共にした仲間たちが寄ってきて……
「「「ならば我々も失礼させてもらいましょう」」」
信頼していた部下たちは唐突にホリックの元を去っていった。
微ざまぁあり。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる