【完結】愛しているから、触れないで

恋せよ恋

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かつての迷い子

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 結婚から一年。結婚を経て、オリビエの魅力は深みを増し、振る舞いもまた磨き上げられていった。二人の生活は、誰もが羨むほどに甘く、幸せなはずだった。

 春の陽光が差し込む庭園での華やかなお茶会。王都の令嬢たちが集うその場所で、ローゼリアは一段と輝くような微笑みを湛えて座っていた。

 だが、その心根には、数日前から耳に届く不穏な噂が、不吉な気配となって、確かに胸の奥に根を下ろしていた。

(まさか、オリビエに限って。あれだけ私を甘やかしている彼が……)

 思考を振り払うように紅茶を口に含んだ時、芝生を踏む軽やかな足音が近づいてきた。

「ごきげんよう、ローゼリア様。今日も変わらず、お美しいですこと」
 微笑みを浮かべて近づいてきたのは、キャサリン・フォード伯爵令嬢だった。彼女は卒業後、若くして後妻として嫁ぎ、今は落ち着いた伯爵夫人の気品を纏っている。

「ごきげんよう、キャサリン様。……いえ、今は伯爵夫人とお呼びすべきかしら」
「ええ、どちらでも結構ですわ、ローゼリア様。私こそ、侯爵夫人とお呼びすべきでしょうね。
……それより、オリビエ様の噂――耳にしていらっしゃる?」

 唐突に投げられた言葉に、ローゼリアの心臓が大きく跳ねた。キャサリンの瞳には、同情とは程遠い、鋭く昏い嗜虐の光が宿っている。

「『正論のローゼリア』と名高い侯爵夫人の名声に、傷がつくのではありませんか?」

 ローゼリアは背筋を凍らせた。学園時代、二年生の頃の記憶が鮮明に蘇る。当時、キャサリンは婚約者の浮気に泣きながら、ローゼリアに救いを求めてきたのだ。

 キャサリンの元婚約者は、美しく、優秀で、裕福な伯爵令息だった。彼には男爵令嬢の恋人がいたが、キャサリンを蔑ろにすることはなかった。ただ、自分の想いばかりが重く、彼の心はどこか遠い――その事実に、キャサリンはもがいていた。

 当時のキャサリンは、婚約者に蔑ろにされているわけでもなく、誠実に向き合われてもいた。
 それでも満たされないという、その矛盾した想いに、深く悩まされていたのだ。

 その時、ローゼリアは扇で口元を隠し、冷徹な「正論」を告げたのだ。
『あなた、婚約者の真実の相手だと言う男爵令嬢ごと、一生付き合っていく覚悟はおありなの? きっと、彼はその恋人とは別れませんわ。一旦は距離を置くとしても、何かの拍子にまた関係は始まる。隠れて付き合う背徳感を二人が忘れることはないでしょうから』

 潔癖だったキャサリンは、その言葉に目を覚まされた。そして、好条件だった縁談を「不貞」を理由に自ら破棄したのだ。
 
 その後のキャサリンを待っていたのは、過酷な現実だった。
「学生時代の遊びさえ許せない、度量の狭い令嬢」というレッテル。最高だった元婚約者の条件を上回る縁談など舞い込むはずもなく、結局彼女は、前妻を亡くした六歳年上の男性の元へ後妻として嫁いだ。

 今の夫は誠実で、義両親も親切だ。何不自由ない生活。けれど、そこにはキャサリンがかつて求めた、胸を焦がすような「恋」の熱量はない。

 苦しくとも、切ないあの恋心を、ローゼリアの正論が奪ったのだ。
 キャサリンは感謝しようと努めてきた。恨むまいと決めていた。……けれど、完璧な幸せを享受しているはずのローゼリアに「夫の浮気」という影が差したと聞いた瞬間、心の底に溜まっていた黒い嫉妬が溢れ出した。

「ローゼリア様は、オリビエ様の遊びを、まさかお許しになりませんわよね?」
 気がついた時には、言葉が口から出ていた。

 ローゼリアの頬から、スッと血の気が引いていくのがわかった。

( あなたが、あの時、別れを示唆しなければ……。私は今頃、あの美しく裕福な彼の妻として、燃えるような恋を抱えたまま、この場所で笑っていたはずなのに…… )

 キャサリンの言葉は、かつてのローゼリア自身の言葉を鏡のように映し出していた。

「……オリビエ様は、そんなことはなさいませんわ」

「あら、そう。でも、そのサンダルウッドの香りの奥に、かすかに甘い蜜のような……ええ、下位貴族で流行の、ベルナール男爵夫人がお好みの気配が混じっているように思えるのは、私の気のせいかしら?」

 キャサリンは、ローゼリアの耳元で囁くように笑った。
「あなたの仰った通りですわ、ローゼリア様。『不治の病』に侵された男なんて、価値はありませんもの。……さあ、かつての私に教えてくださったように、あなたも『正しい判断』をなさるのでしょう?」

 ローゼリアは、ティーカップを持つ手が目に見えて震えるのを止めることができなかった。
 かつて自分が「正論」だと信じて他人に与えた言葉が、今、自分を八つ裂きにするための刃となって帰ってきたのだ。

 キャサリンは満足げに一礼すると、優雅な足取りで去っていった。

 一人残されたローゼリアは、春の暖かな陽光の中で、凍えるような孤独と、自らの「正論」が招いた皮肉な報いに、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

(不治の病。……ええ、確かにそう言ったわ、私……。でも、どうして……)

 いつから、彼女は「正論のローゼリア」になってしまったのか。思考は、否応なく過去へと遡っていった。
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