実兄の婚約者に恋した貴方を、私はもう愛さない。その椅子、行方不明のお兄様のものですよね?

恋せよ恋

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深淵より愛を込めて

  嵐の夜、船底を打つ波の音は、死神の足音に似ていた。
 私は刺された脇腹を押し包み、冷たい海水が流れ込む船室の隅で、一人、自嘲の笑みを浮かべていた。

 事態は、出港の直前から歪み始めていたのだ。長年私に仕えてきた熟練の侍従たちが、突如として流行り病や急用を理由に乗船を阻まれ、代わりに送り込まれたのは、見慣れない顔の男たちだった。

 モンクトン侯爵家――ヘンリエッタの実家が、私の不在、あるいは「死」を待ち望んでいることは、以前から掴んでいた。だが、まさか実の弟であるシモンまでが、彼らの片棒を担いでいようとは。

(……シモン。お前はどこまで、あの女の涙に毒されたのだ)

 私が弟の不貞と、ヘンリエッタの不実を確信したのは、難破の一月前、パルマン邸の図書室でのことだ。
 書棚の影で密会していた二人の会話。

、パスカル様にがあれば貴方が侯爵ですわね。そうすれば、もしかしたら……私たち誰にも邪魔されずに……』

 ヘンリエッタの甘い囁きに、シモンは否定の言葉を持たなかった。いや、彼はその「」の未来に、恍惚とした表情を浮かべていた。

 弟も、私の命を欲しがっている。
 その事実を知った時、私の中にあった嫡男としての義務感や兄弟愛は、一度死んだ。
 そして、暗闇の中に一筋だけ残ったのは、弟の傍らで「正しく」あろうとしていた、ある女性へのほの暗い情熱だった。

 セシリア・ダルク。
 彼女の知性は、あの無能なシモンには過ぎた宝だった。

 彼女が提出する事務報告書の正確さ、潮目や気象から導き出す鋭い洞察、そして何より、誰もが私を「完璧な継承者」としてしか見ない中で、私という人間の本質にある「冷徹な孤独」を見抜いていた、あのオリーブ色の瞳。

 私は、彼女を愛していた。

 だが、私はパルマン侯爵家の嫡男であり、彼女は弟の婚約者だった。その境界を越えることは、私が最も重んじる「高貴なる者の義務」に反する。だからこそ、私は自らの情を心の最奥に閉じ込め、彼女を遠ざけ、冷たい「婚約者の兄」として振る舞い続けてきた。

 しかし、シモンの裏切りを知った瞬間、私の思考は別の回路へと繋がった。
 もし、このまま私が事故を装って消えれば、シモンは必ずヘンリエッタを選ぶ。そうなれば、セシリアは「捨てられた婚約者」として、社交界の泥沼に突き落とされるだろう。

(ならば、私は一度死のう。死んで、彼女をこの偽りの平和から連れ出そう)

 私が難破船で、刺客の刃をあえて完全には避けず、致命傷を免れる程度に受けたのは、一つの賭けだった。

 死ぬか、生き延びて「亡霊」として彼女を救うか。
 私が海へ落ちる直前、脳裏に浮かんだのは、パルマン家の栄光ではなく、自分の不在を察知して、理知的に、けれど必死に真実を探そうとする彼女の姿だった。

「……パスカル様、準備が整いました」

 隠れ家の暗闇の中、アシュトン商会の男が声をかけてくる。私は思考を現在に戻し、鏡に映る傷だらけの自分を眺めた。

 再会した時の彼女の瞳は、絶望に濡れながらも、私と同じ「復讐」の光を宿していた。シモンに捨てられ、自尊心を切り刻まれ、それでもなお凛として立つ彼女を見て、私の中の「諦めようとしていた人格」が悲鳴を上げた。

 私は、彼女を救いたいのではない。
 彼女と共に、この汚濁に満ちた世界を焼き尽くし、彼女を私だけの「共犯者」として繋ぎ止めたいのだ。

 これは嫡男としての高潔さなどではない。一人の男としての、醜く、救いようのない独占欲だ。

「セシリア。君は、私を選んだのではない。君を裏切った奴らを地獄へ送るための、最も鋭い『刃』として、私を選んだのだな」

 それでいい。今は。
 
 彼女がシモンのために誂えたドレスを、ヘンリエッタに奪わせる。その屈辱さえも、私の計画の一部だ。
 彼女に「正嫡の妻」の意匠を授け、それを盗ませることで、不義の者たちに消えない烙印を押す。
 
 夜会で、彼女が地味な黒いドレスを纏い、影の中で私を待つ時。私は地獄の底から這い上がった「亡霊」として、彼女の前に現れよう。
 そして、全社交界が見守る中で、彼女の手を取り、宣言するのだ。
 
 彼女こそが私の唯一の伴侶であり、パルマン侯爵家の真の主であると。
 
「シモン、ヘンリエッタ……。君たちが最も幸せだと信じる瞬間に、私は帰還する」
 
 私は手袋をはめ、傷を隠した。胸の奥で燻る、彼女へのほの暗い愛情。
 それをいつか、彼女が自ら受け入れてくれる日が来るのか。それとも、この復讐が終われば、私たちはただの他人として別れるのか。
 
 どちらでも構わない。
 この嵐が過ぎ去った後、彼女の瞳が再び輝きを取り戻すのであれば。
 たとえその瞳が、私を憎しみと共に見つめることになったとしても、私は構わないのだ。

 潮は、満ちようとしている。
 パルマン家の嫡男として、そして一人の飢えた亡霊として、私は最後の駒を動かす準備を終えた。
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