シュレーディンガーの猫に宜しく

繁村錦

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第一章

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 鑑識のジャンパーを着た男性警察官が、女性科学者を死に至らしめた化学薬品を入れた瓶を手に持ち、大屋管理官の許へ歩み寄った。

「シアン化ナトリウムです。これが気化したものを吸って、マル害は死亡したものと思われます」

「そうか」

 大屋は頷くと、背後に立つ検視官の比嘉に、

「死亡推定時刻は」

 と訊ねた。

「死体の状態から判断して、昨夜二十三時から本日未明に掛けて」

「死後八時間以上は経っているといことだな」

「はい」

 比嘉は頷いた。

「で、問題はこの女性が、死亡推定時刻の深夜一時から午前四時掛けて、生きていたという目撃証言があることだ」

 大屋は首を捻ると、お手上げだといったように両腕を広げた。

「そんな馬鹿な……」

 藤岡は怪訝そうに目を凝らし、ブルーシートを掛けられた被害者の死体を見やった。

「まず、午後十一時四十分頃、このラボに設置された防犯カメラに、この女性の動く姿が映っていた。あのカメラだ」

 大屋は、ラボ内の天井部分に取りつけられた防犯カメラを指差した。
 藤岡も、天井に設置された防犯カメラを見上げた。

「管理官、本当に被害者だったのですか」

 藤岡が訊ねると、大屋は真顔で頷いた。

「所轄の人間が確認した。さっき、私もこの目で見た。間違いなく映っていたのはこの女性だった。白衣の下に彼女が着ているベージュ色のサマーセーターも確認済みだ」

 大屋は、ブルーシートを掛けられた被害者を指差した。
 桐谷は頷くと、

「本人かどうかはまだ分かりませんよ。他人が冬月可南子さんに変装した可能性も否定出来ません。ただ、髪型は似ていましたね。背中辺りまで伸びた黒髪に、私のような黒縁眼鏡を掛けていました。白衣の下のサマーセーターも……」

 と補足するように意見を口にした。

「午前零時過ぎには、インターネット回線を使って、岐阜県神岡にあるW大の研究施設と通話している」

 大屋が言うと、

「インターネット回線っていっても、他人が成り済ますことも可能ですよね。さっきこの小娘が……じゃなかった、桐谷警部補殿が言った通り、他人が本人に成り済まし……」

 藤岡が意見した。

 するとその声に被せ大屋が、

「それが、カメラ機能を使って、モニター越しに会話したそうだ。向こうにいる証人にも確認を取った」

 かぶりを振りながら言った。

「証人?」

 藤岡が上擦った声を上げた。

「大谷教授と、講師の加藤先生と、助手の桜井先生の三人だ。教授は嘆いておられた。本日午後三時からの実験が中止になってしまったとな」

「実験って何の実験ですか?」

「藤岡、そんなこと訊ねてどうする気だ。訊いてもお前さんの頭じゃ、とても理解出来ないぞ」

 小松原が嘲るような口調で言った。

「係長、俺を馬鹿にしてるんですか?」

「そう聞こえたか?」

「はい」

「で、どんな実験なんすか?」

「さあ、俺にもさっぱり分からん」

 小松原は両手を広げると、あっけらかんとした表情のまま首を横に振った。

「重力波の観測よ。かの天才物理学者アインシュタインが、我々人類に残した最後の課題よ。一般相対性理論において予言される波動ね。時空の歪みの時間変動が、波動として光速で伝播する現象のことね――」

 比嘉が蘊蓄を騙り出した。

「いや、もういい。アインシュタインって名前聞いただけで、頭が痛くなって来た。見ろ、ジンマシンだ」

 藤岡は袖を捲り上げ、腕に出来た赤い発疹を見せた。

「実験が中止になり、神岡にいる大谷教授は意気消沈気味だそうだ」

 大屋が告げた。

「まあ、仕方がないわね。大学の方でこんな不可解な殺人事件が発生したのだから、実験どころじゃないわね」

 比嘉はまるで自分のことのように、ひどく残念がった。

「あの、ちょっと宜しいでしょうか?」

 不意に桐谷が声を掛けた。

「何だ」

 振り向き様藤岡と大屋が声を揃え、キャリア女性刑事を睨むような目つきで凝視した。

「あちらの方が」

 桐谷は、制服女性警察官二人に付き添われ、落ち着かない様子で第二ラボの外で立ちながら、警察による現場検証を見守る白衣姿の女性を指差した。

「うん?」

「第一発見者の松田美里先生です」

「話を聞いてみるか」

 大屋が言うと、死体の周りにいた捜査員たちが、誰彼なく頷いた。

「死体の傍じゃ、彼女も落ち着かないでしょう、管理官」

 小松原が、第一発見者を見詰めながら言った。

「そうだな。確かロビーの方に椅子とテーブルがあったな。そこで話を聞こう」

 大屋はロビーの方角を指差し、見やった。

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