上 下
3 / 12

みそカツの香りのする駅(3)

しおりを挟む
東海の中心都市・名古屋。
その都心部で最大容積を持つとされる名古屋駅地下街・エスカ。
柱には国民的アイドルの名古屋派生ユニットのひとりひとりのポスターが貼ってある。
サインやメッセージがマジックによる手書きであるところも好印象を持たせる。



その地下街の中にあるオレンジの文字の珈琲店。
店の中ほどにある、2人対面で座ることのできるカップル席には男が1人。

対面の席には誰も座っていない。

決して2人席を1人で独占しているわけではない。その証拠に彼の席のテーブルには2対のトレイがある。
彼側のトレイにはコーヒーカップと平皿1枚。平皿にはピザが乗っている。
もう1つのトレイには色の違うコーヒーカップ、そして手つかずのサンドウィッチ。

相方はどこに行ったのだろうか。お手洗いか。

その行方は彼を含めたその場に居合わせた誰もが知っていた。それを物語るテーブルの野口英世の存在も。
そして彼の様子も覇気がないように見える。スマホを手に握って俯いてる。
しかし珈琲店の時間は止まらない。
何もなかったように店員は仕事に勤しみ、集っている客はそれぞれで憩っている。






★★★






俺はしばらく「緒方」という名前と里美について、グルグルと混乱に近い状態だった。
体感で5分、もしかしたらそこまで経っていないのかもしれない。
先ほどのやり取りで熱くなっていた頭が冷えてきた。元に戻ってきた頭で考え出す。


……里美はそんなにも花火大会に行きたかったのだろうか……


そこまで自己主張もメールもしてこなかったはずだ。
俺自身、ナナちゃん人形の告知を見て思い出したのだ。してきているはずはない。
前もって知っていれば、それなりの返事はできたはずだ。

なぜなんだ。思えばずっと表情は暗かった。

本人はなぜか俺の前では冷静を装うように努力しているみたいだが、相方の目線ではバレバレである。
そして全く手をつけてないサンドウィッチ。でも、空のコーヒーカップ。
彼女も緊張していたのか。でも何を思って緊張をしていたのだろう。
「花火大会を男と行く」これを告げるためなのか。


「うーん」


俺は軽く唸りながら自己分析を続ける。周りから見ると滑稽かもしれないが、気にしない。
しかし、俺自身も熱くなってしまうとは。それだけ彼女を好きということなのか。
それとも彼女と2人きりで過ごす、そんな男を羨ましいと思ったからなのか。
ただの独占欲からなのか。それは今更だろう。遠距離恋愛してる時点で解決済みである。
基本的に俺自身、里美が知らないところで何をしていようが無干渉を貫くつもりでいる。
里美から見れば、俺が出張先で何をしているか、確かめる術がない。
彼女から俺について何も言わない現状、こちらだけうるさく言うのは筋が通らない、そう思っているからである。



そう考えているうちに1つの結論にたどり着く。
彼女は「行ってくるね」と言っていた。
「さよなら」ではない。と、いうことはそんなに悲観することではないのかもしれない。
そして「緒方」という名前も男とは限らない。そして2人で行くとも言っていない。

半ば現実逃避、夢想、妄想、願望に近い結論。いや、推論か。

自分自身でも笑ってしまいそうだが、その推論にすがりたくなる。
自分の予想に反して別れを切り出されるようならば、それは仕方のないことだ。
今はそう考えて、彼女の理性を信じることにする。今までも信じてきたからな。



勝手に願望に近い形で決着づけた俺は珈琲店を後にした。
ただ笑顔になれる程、人間はできていない。
頭の中では「緒方という男と2人きりで楽しんでる」映像が支配している。
「緒方」の顔はなぜかウチの係長。なんでだよ!

一種の強がり。悔しい。

ならばどうして追いかけなかったのか。痛恨の極みである。
とりあえず今夜、花火大会が終わった頃合いにメールでも送るか。
「楽しかった?」と。幾分かの余裕と冷静さを込めて。そうしよう。




券売機で新幹線のチケットを購入。
気づけば17時前。珈琲店で何時間過ごしていただろうか。
里美が出て行ってどれくらい経っていたのだろうか。把握していない。
店に入ってメニュー頼んで、少し待ったら料理が出てきて、お互い飲み物飲んで。
計算できそうなものなのだが、不確定なことが多すぎる。

時間の経過を感じ取れないほど頭に血が上っていたのか。真っ白になっていたのか。

その事実に驚愕する。
俺もまだまだ冷静な判断を下せる「人格者」という者にに成りきれていないということなのか。
仕事やその他普段の生活では、冷静に自分の状況を分析して判断を下せるようになっている。
そう自負していたはずなのだがこの失態。
やはり、里美は俺にとって大切な存在なのか。実感する。
こんな状態で別れを切り出されたらどうするんだ、そんな悪夢が身を擡げる。
が、半ば強引に押さえつける。今は考えない、考えたくない、と。



プルルルルルル・・・



安全柵の内側に下がるよう促すアナウンスの後にけたたましいサイレンが響く。
俺の手には先ほど売店で買った缶ビールと味噌カツ串が入った袋。
心では納得しても飲まないとやってられないですよ・・・
これはメールの返信次第では帰り着いた地で2次会、はしご酒かな。
そうしよう、会社の仲間でも呼んでありったけ飲もう。



そう思った俺は、指定席に座り1人晩酌を始めるのであった。

里美の笑顔を信じて。
しおりを挟む

処理中です...