上 下
24 / 170
4 勇者が生まれる

23 イザベラともう一人 2

しおりを挟む
 目の前に立つ少女、メリーに憑依している誰か。その誰かに殺意がなかったとしよう。だからと言って、得体のしれない人間と話したくなる獣人はそれほどいない。――現に私は何も話したくはない。そんな私の気持ちを汲んでか彼女は口を開かない。
 たった二人しかいない部屋だ。その二人が黙りこんだら、聞こえてくるのは蛇口から流れる水の音と、蓄音機から流れる小さな音だけだった。日常の音だけが聞こえるある意味での無音状況だ。

 そんな無音が1時間ほど続いた。

 もし仮に、彼女が1人の獣人としてメリーの体を使わずに私の前に現れたとしたらなら、この無言が続く状況も悪くはないだろう。元来私は静かな場所を好む性格だ、だから、普段なら特に気に留めることもない。心地よい日常の音だけを聞いて、獣人の声が聞こえないというのは至福の時間だ。
 残念ながらそんな至福の時間を汚すものがいる。それこそが目の前に立つ彼女だ。
 さて、どうやってメリーの体を取り返すかだ。攻撃は……出来るはずないし、まずは対話といこうじゃないか。話て解決出来る相手ならいいのだがな。

「それで、メリーの体は返してくれるんだろうな?」
 それはもっとも重要なことだ。
 私は額から右目のさらに右を流れる冷や汗をそのままに、彼女の方をじっと見据えた。彼女の口調、仕草、表情、そこから敵意をすぐに察知できるようにだ。
 彼女? は、「メリーさんを傷つけるつもりはありません」と言ったが、それイコールで危害を加えるつもりはないという意味を表しているわけではない。メリーの体は、今現在はメリーだけのものではない。つまり、彼女は自分のためにメリーを傷つけないと言っているのかもしれない。
 油断は……するべきではない。自分より格上の相手とは今まで何度も渡り合ってきたが、どいつもこいつも口も達者だったし、自身の考えを動きに出さない。――心理的思考を相手に読ませないのだ。

 そんな私の心を読んだのだろう。彼女は薄っぺらい笑いを浮かべながら、調子のいい口調で言った。
「心外ですね。私が傷つけないと言ったら、どんな傷一つつけませんよ。体にも、精神にも、もちろん彼女が取り巻く環境を含めた時間軸にもね」
「それは……イエスととっていいってことか? ずいぶんと回りくどい言い方だな」
 要約するとそんな感じだろう。その言葉を信じていいのかはわからないが、いずれにせよ私にとっては真実だった方が都合がいい。今彼女が敵に回っても何もメリットがない。
 それよりも気になるのは、時間軸という言葉だ。それが何を意味するのかを知ることが、彼女の正体を見破るヒントになりそうだ。正体も目的も分からない相手だ……わずかなヒントでも見逃すことは出来ない。
 
「回り道が好きですからね」
 彼女は唐突にそんな冗談を言う。
 私とは違って、身体的にも精神的にもずいぶんと余裕がありそうだ。私は冗談を笑う気にもなれない。
「私は嫌いだ。あんたの目的は何なんだ? できれば早く教えてもらいたい」
「あら、ずいぶんと余裕がないのね? それもしょうがないか……あなたたち獣人にとって時間は有限ですものね?」
 先ほどまでとは違い、彼女はくつくつと笑う。嘘くさい作り笑いではなく、下卑た笑いだ。私を嘲ているような感じがして気分はよくない。

「まるであんたにとっては無限であるかのような言い草だな?」
「なるほど、言いえて妙ねですね。だけどそれは違う。時間というのもは誰にとっても有限です」
 どうやら彼女は私のことをおちょくっているようだ。もしそうでなければ精神がいかれている。いやいや、もしかしたらいかれているのは私の方だって言う可能性も0ではない。
 そもそも彼女の言葉に乗っかってしまったのは私だ。それさえしなければ、話は進んでいたかもしれない。
 もう一度仕切り直そう。

「わかった……もう私は余計なことには受け答えしない。だから目的を話してくれ」
「そうですね。でははっきりと申し上げます。私はケンさん……つまり乾 健二さんに恩恵を与えるためにこちらにやってきました」
 今度はすんなりと目的を話してくれた。
 だがその言葉の意味は依然として分からない。イヌイ、ケンジ、オンケイ……どれも聞いたことない言葉だ。いや、頭がこんがらがっているからそう感じるだけで、もしかしたら、彼女は『イヌイ・ケンジという人物に恩恵を与えたい』と言っているのかもしれない。
 
「いやいや、だからそう言ってるじゃないですか……まあそれはどうでもいいか。とにかく詳しく説明するなら、神である私の主は、乾 健二さん、すなわち犬種のケンさんに『神の恩恵』を与えるタイミングをずっと計っておられました。ですが、彼には妹のほかに頼れる人物もおらず、仲間たちともずっと距離を置く始末……直接ケンさんに恩恵を与えるということも出来なくはないのですが、ご本人はゆるゆる過ごしたいなんてことを常々おっしゃられております。さてどうしたものか……神は頭を悩ませました」

 彼女はため息を一度つくと、私の瞳を覗き込めるぐらいに近い位置まで迫り、再び語り始める。

「そこに現れたのが、アルタという勇者です。『これしかない!』神様は力の限りそう叫びましたよ。ドン引きするぐらいに大きな声で。ケンさんを助ける勇者を『神の恩恵』として生み出せばいいなんて、ありがちなことを考えてしまったんですよ。ええ、本当に凡人的発想です。私ならもっといい方法はいっぱい考えられたでしょうね。ですが残念なことに私は神様ではありません。少しドジな神の使い……使徒とでもいえばいいでしょうか? いいえ、それは少し違います。もっと正確に私の正体を示すならば、天使というべきでしょう。ともかく、ケンさんを間違ってこの世界に呼んでしまった私は責任を取るべくこの地に降り立ったということです。お分かりいただけたでしょうか?」
 自信満々に言い切った彼女だが、残念なことにまったく理解できなかった。

 神とか、天使とか、神の使徒とか……そんなものは誰かが作り出した作り話でしかない。事実それらに直接的に遭遇した者はいない。もしそんなものに出くわしたなんて口走ったら、それだけで精神異常者扱いされるのがおちだ。実際に会ったことがないからこそ、神は尊い存在なのだ。手の届かぬ位置に存在するからこその神だ。――そこらへんに落ちているのは神ではなく、ただの紙屑だ。
「は、はぁ……」
「なんですか、そのありきたりな反応は……これじゃあ私が天使を語る精神異常者みたいじゃないですか?」
 それ以外に何があるというのだろう。いや、人の体を乗っ取るような人物だ。カルト教団の一員って言う可能っ性もあり得るか。
「いや、そうなんだろ?」
「違います。私は間違いなく天使です! ちょっと人間の区別がつかない天使なんです」
 また彼女は意味不明なことを口走る。
てなんだ?」
 それは聞いたこともない言葉だ。だが同時に懐かしいような気もする。聞いたことないはずなのに、響きが懐かしい。
 
 それに対して天使を名乗る彼女は一瞬だけ、『しまった!』という表情をしたが、すぐにニタニタと笑い始める。天使というよりは悪魔だ。そう名乗られた方が幾分か納得できただろう。
「こちらでは獣人って言うんでしたっけ? 見た目が人間と大差ないから区別がつきませんよ……まあいいや、とにかくイザベラさん、あなたにお願いしたい事があります」
 先ほどまでの話を聞くに、彼女のとやらは一つしかない。
「アルタを紹介しろとでも言うのか?」
「ええ」
 私の予想は当たったらしい。だがそれは難しいお願いだ。
「知っていると思うが、私はロットワイラーとは仲が悪いぞ」
 ロットワイラーにお願いするなんてまっぴらごめんだし、そんな弱みを握られるようなことをしたらますます犬種に対する世間のあたりが厳しくなることだろう。
 私の心が読めるなら、自称天使様だってそれぐらいは理解しているはずだ。犬種へのあたりが強くなれば、ケンだって被害を被ることになるだろう

「なるほど、それじゃあ神様の面目丸つぶれですね」
 人の心を読んで、下卑た笑みを浮かべる。まさに悪魔的な行動だ。
 たぶん神様を失墜させるいい機会だとか考えているのだろうが、そんな浅はかな考えは普通に生きてきた者であれば思いつきもしないだろう。こんなのが天使だというのだから世も末だ。本当に彼女が天使だったとして、どうして神様は彼女を天使に選んだのだろう。理由が全く持って皆目見当もつかない。理解が出来ない。――むしろすぐさま堕天させるべきだろう
 おっと、そういえば思考を読まれているのだった。浅はかなのは私だな。彼女の期限を損ねたらどうなるか分かったものじゃない。

「つぶれるのは神様の面目だけじゃないだろうけどね」
「わかってます~! だけど、それが出来なければ、どのみち私が天使を首になってしまうんです~っ!」
 本当に読めない天使だ。悪巧みをしたかと思えば、今度は子供っぽく冗談を言って見せる。もしかすると、私の思考は全て彼女の手の平で踊らされているのではないだろうか……まさかそんなはずないか。
 いずれにしても、ここで彼女を怒らせるのは得策ではない。
「あんたが天使を首になろうが私には関係ないんだけれど、まあ機嫌を悪くされてメリーの体を返してもらえないなんてことになったら困るしな」
「私子供じゃないんでそんなことしませ~ん!」
 なんてふざけた口調で言う彼女だが、感情の起伏が大きい彼女なら冗談でなくやってしまいそうだ。『どうせ天使を首になるんなら、この子の体を使って好きなことしてやる~っ!』なんて言ってな。

「いや、自称天使様にこんなことを言うのは失礼だろうが、あんたならやりかねない……まあそうだな、勇者なんてアルタ以外にもいるだろう? そいつを探し出せばいいんじゃないか?」
 世界に勇者がどれほどいるのかは知らないが、まさか1人しかいないなんてことはないだろう。とにかく、ケンは仕方がないとしても、メリーと私は出来うる限り巻き込まれないようにしなければ。
 私の提案を聞いた彼女は、嬉しそうにはしゃぎ始める。
「そっか、そうよね! そもそも神様は、勇者をケンの仲間にしろとは言ったけど、どの勇者を仲間にしろとは言われてない物ね~!」
 
しおりを挟む

処理中です...