契約妃は隠れた魔法使い

雨足怜

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64嫌で、嫌いで、それなのに。

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 安堵のせいか、ここ最近の慣れない徹夜のせいか。
 わかることは一つ、倒れないように踏ん張ろうとしても、体が言うことを聞かないということだけ。

 体が目に傾く。
 倒れる、とどこかぼんやりとした頭で考えながら、迫る床を見つめて。

「っ!!」

 とっさに抱き留められた大きな腕に、ぞわりと全身の毛が逆立った。
 鼻腔をくすぐる清涼感のある香りは、白樺のそれ。慣れない、わたしのものでもフィナンのものでもない匂い。

 顔を上げれば、気遣う殿下の顔がすぐそばにあって。
 助けてもらっておきながらこみ上げる罵声を、硬く唇をかみしめて奥底に押しやる。

「大丈夫か? やはり調子が悪いのだろう? 送っていこう。今馬車を――」
「大丈夫、です」

 視界の端、わたしを助けようと手を伸ばした姿勢で固まるフィナンに目でお礼を言ってからアヴァロン殿下と向き合う。

 見下ろされる形になった彼は、先ほどよりもずっと威圧感があった。こんな時に、殿下の背丈とか、自分との違いとか、そういうことばかりを気にするわたしはどこかおかしいのだろうか。
 自分の背の低さ、肩幅の違い、腕周りの筋肉の差、そういうことに意識が向く。

 自分はどうしようもなく女だとわたしに言い聞かせていた。
 自分はどうしようもなく、殿下に勝てないのだと言い含めるようだった。

 けれど、そんなことは知ったことじゃなかった。
 ただ、これ以上わたしの生活をひっかきまわしてほしくなった。
 せっかくの落ち着ける日常を壊してほしくなかった。

 魔法を使える機会があって。
 フィナンという心許せる相手ができて。
 お兄さまとも時折話ができて、アマーリエと会える機会もあって、エインワーズ様という頼りになるのかならないのかよくわからない、けれどともにアマーリエを揶揄える話し相手ができて。
 魔女の円卓という、ほかの魔法使いたちと交流できるここと休まる場を手に入れた。

 十分だった。
 結婚したばかり、あるいは必死に王子妃として取り繕うとしていた夏のころに比べれば見違えるほどに幸福な日々がそこにあった。

 それは、けれど砂上の楼閣に過ぎないのだと、わたし自身が告げる。
 フォトスの警告を忘れたのかと。魔女の円卓の次回開催が未定なのを忘れたのかと。

 いいや、忘れてなんていない。だから書物を読み漁った。
 精霊に見放された土地のことを知ろうと思った。

 その調査の気分転換に過ぎなかったはずなのに、どうしてこう心労を与えられないといけないのか。

「……もしわたしの体調が悪いように見えるのでしたら、それはきっとあなたのせいですね」
「私の?」
「ええ。気分転換の時間に割って入って、胃の痛くなるような時間をわたしに過ごさせる。女性に苦痛を味わわせるのがご趣味なのでしょう?」

 周囲がざわめく。それに、口の端が吊り上がる。
 言ってやった。
 もっと言ってやれ。
 心の暗黒面が顔をのぞかせる。このまま、これまでのうっ憤を晴らしてしまえ。
 結婚相手わたしのことなんて少しも覚えていない殿下を懲らしめろ――

「……私は、そんな男に見えるのか?」

 果たして、頭上から降ってきた言葉は、まるで雨で濡れそぼって途方に暮れたような子犬のような声をしていた。

 はっと顔を上げた先、そこには氷の王子などという呼び名はおよそ似つかわしくない、感情的な顔をした男の姿があった。

 困惑し、憤り、その気持ちを必死に押し込め、苦し気になぜと問う彼から、その悲しみに満ちた目から、視線が離せなかった。

「私が、君を苦しめたのか? 君にとって、私は苦痛でしかないのか……なぁ、君は――」
「わたしにとって、あなたは存在すること自体が許しがたい」

 本音が漏れた。それは紛れもない本音、わたしの心からの言葉だった。

 今更、何を言っているのか。

 政略結婚にもほどがある結婚式をしたじゃないか。立会人は神父一人で、誰からも祝福をもらえない祝いの式。
 初夜に旦那様が足を運ぶことが無く、口さがない貴族たちから瑕疵令嬢などと噂された。

 わたしが、どれだけみじめに感じたと思っているの?

 こんなわたしだって、夢に見ていた。
 決して多くはなくても、大事な友人や家族、そして相手の家族に祝福されて結婚する、そんな、些細な、可愛らしい乙女の夢。

 その夢を、あなたは踏みにじったでしょう?

 そうして結婚して、あなたは、婚約者であるわたしのことをすっかり忘れ去った。
 そのくせ、今更どうして、そんな顔をしてわたしの前に現れるの。
 どうして、わたしにそんな目を向けるの。
 それじゃあ、期待してしまう。
 夢を見てしまう。

 可能性を、考えてしまうのだ。
 祝福される結婚が、わたしにもあったかもしれない。
 他でもないあなたと、手を取り合って門出を迎える、そんな日があったかもしれない。
 戦友のように、互いを支えあって政務をして、この国をよりよくしていく。
 愛は無いかもしれなくて、けれど確かな絆がある、そんな夫婦になれたかもしれない、なんて。

 叶わなくて、余計苦しくなる未来を夢想してしまうの。

 ――あるいは、今でもまだ遅くないなんて、そんなことを、考えてしまうから。

「……もう二度と、わたしの前に顔を見せないでください」

 目の奥がごろごろしていた。
 こみ上げる涙を、彼に見せる気はなかった。

 一歩、力強く踏み出した足は、今度こそ折れることなく床をとらえた。
 まっすぐに、前へ。
 歩き去ろうとするわたしを、けれど殿下は力強い腕で引き留める。

「スミレッ」
「……その呼び名もやめてもらえますか。スミレの乙女って、意味が分からないんですよ」

 何がスミレだ。何が乙女だ。
 そうした勝手な呼び名でしかわたしのことを記憶していない男が、わたしを引き留めてくれるな。わたしをしばってくれるな。

「何を、言っている。君は、スミレだろう? そう、名乗って……ッ」
「名乗る? わたしが?」

 殿下に握られた腕が痛むのを承知で、彼をにらむ。
 まっすぐに見た先、困惑に瞳を揺らす殿下は、少なくとも嘘を言っているようには見えなかった。

「……殿下は、何を――」

 口にして、後悔した。
 こんな場所で、殿下などと呼ぶべきではない。ろくに変装をしていない彼はすでに知る人が見れば正体なんてわかりきっているけれど、それでも、呼ぶべきじゃなかった。

 何より、わたしがこの人をアヴァロン王子殿下だと知っていると、口にすべきじゃなかった。
 だってわたしは今、不敬罪を課せられるほどのことを口にしていた。

 でも、もう、どうでもいい。

「……」
「……」

 にらむ。
 親の仇を見るように。
 わたしの敵を見るように。
 さっさとどこへでも立ち去ってしまえ。いや、わたしが立ち去ればいいのか。
 けれど足は動かず、このまま殿下を威圧して排除したい気持ちが勝った。

 さっさと尻尾を振って、どこかへ逃げ出してしまえー―

 なんて、ただただ周りの視線が居たくて、思考が空回りしているだけ。

 足は床に縫い付けられたように動かず、どうしていいかもわからない。
 わたしも、殿下も。

「あの、場所を変えませんか?」

 だからこそ、わたしたちはフィナンの助け舟に一も二もなく飛びついた。
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