眠らない世界で彼女は眠る

楠木 楓

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初めての朝

3.出発

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「なぁに?」

 体を反転させ、父を見る。
 ふわりと揺れた髪とスカートが美しい軌道を作り上げた。

「よく、眠れたか?」
「……うん。ぐっすりだったよ」
「そうか」

 ボリスの瞳が歪む。
 沈痛の色をホーリーは責めない。

 私が生まれたことを後悔したか、などと言う無意味な問いかけには既に終止符が打たれている。父も母も、紛うことなくホーリーを愛し、その生にこれ以上ない喜びを抱いてくれていた。それは、彼らが死ぬその瞬間まで変わることはないのだろう。数年前、ホーリーはその結論に至った。
 彼らが抱くのは、容易いと軽く背を押してやれぬ境遇に子供を置いてしまうことになった罪悪感だ。

 しかし、それももうすぐ終わる。
 普通の子供達と同じように学校へ行き、生活をし、当たり前のように溶け込めば、両親は安心するに違いない。

「良かった」
「ありがとう」

 目の中に浮かんでいる色に変化はないけれど、ボリスの表情には安堵が浮かべられていた。優しい父だ。子供のために心を砕き、歩み寄ろうとしてくれている。
 ホーリーはその心に救われる。

「お父さん」

 父の言葉に傷つくでも、戸惑うでもなく、ただ笑って言葉を返して洗面所へと向かった娘の後姿を見送り、マリーは小さく声をかけた。

「すまん」
「あの子は特別、人の心に敏い子よ。
 きっと、あなたがどういう気持ちになっていたかも気づいたわ」

 食器洗浄機が稼動している音が静かな部屋に響く。
 マリーは呆れ顔を夫に向けていた。

 まだ子供だからと言ってしまうには、ホーリーは考え方も人を見る目も成熟している。顔を合わせる機会こそ少なくとも、血の繋がった両親の感情を見抜くことなど容易いだろう。
 ホーリーのそういった部分に、マリーは何度舌を巻いたことかわからない。

「だがな、私はまだ実感がないんだ。
 お前と違って、ホーリーと朝を一緒にしてきたわけじゃないから」
「そりゃそうでしょうよ。
 わかっているからこそ、私だって口で言ってるだけなの」

 自分と同じだけの時間を夫が娘と過ごしていたのならば、彼女は迷うことなく愛する夫の頭を引っ叩いたことだろう。母の愛とはそれだけ重く、強いものだ。

「あの子が望んであんな風に生まれたわけじゃないように、私達もまた、そう在れと望んであの子をあんな風に生んだわけじゃない。
 気持ちに踏ん切りをつけるのにかかった時間は短くないわ」
「私も、その後を追わないとだな」
「できるだけで駆け足で来て頂戴」
「我が妻ながら厳しいことを言う」
「当たり前よ。私にとって、あなたよりもホーリーの方がずっと大切なんだから」

 二人は顔を見合わせ、くすくすと笑いあう。
 彼らの間にある愛は、結婚した時から少しも変わっていない。そこにあった愛の一部を娘に向けたわけではなく、新たに生まれた多量の愛が可愛い我が子へ向かうだけだ。
 故に、彼らは幸せだ。
 家庭には暖かなものが増えるばかりで、欠けゆくものなど一つもないのだから。

「お父さん! お母さん!
 私、そろそろ行くね」
「待ちなさい。私も一緒に行こう」

 身支度を済ませ、学校指定の鞄を手にしたホーリーがリビングへ顔を出す。
 爛々と輝く目は、これから出会う人達への希望で満ちていた。

「やった!
 じゃあ、お父さん早く!」
「はいはい」

 席を立ち、傍らに置いていた仕事用の荷物を手にする。

「いってらっしゃい。
 ホーリー、たくさんお友達を作るのよ」
「うん!」

 マリーの出勤までにはまだ時間があったため、彼女は娘と夫の二人を玄関前で見送ることにした。
 スーツを着た夫と制服を身にまとった娘。
 二人が家の前で並ぶ姿は感動的ですらある。

 ホーリーは今にもスキップをしださんばかりの陽気さで、親としては微笑ましいやら、少し心配やら、複雑な気分だ。
 これから先、彼女の前には幾多の困難が立ちふさがるだろう。その幾つを助けてやれるのだろうか。せめて、自分達が生きている間くらいは手の届く範囲に収まってくれればいいのに。
 世界中の親が胸に抱く思いをホーリーの両親もまた、抱いていた。

「良いお友達がたくさんできるといいな」

 ボリスも目を細め、娘の明るい未来を思う。
 自分達は娘の最期を看取ることはできない。

 先に生まれた者の宿命であり、最愛の娘との間にある残酷なまでの寿命の差でもある。
 押し付けるようで申し訳ないけれど、そんなとき、同年代の心優しい友人がいれば、きっと彼女に手を貸してくれることだろう。

「いってきまーす」

 手を大きく振り、父と並んでホーリーは学校への道を行く。
 整備された道路には小石の一つも見当たらず、カプセル型の移動容器と出勤、通学中の者達がちらほらと見える程度だ。危険など感じる余地もないほど、平和に溢れた風景に、母は思わず言葉を零す。

「何て、ありふれた景色」

 まさか、そこを行く少女が、この世界で唯一眠りを得た人間なのだと、誰が想像できようか。
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