眠らない世界で彼女は眠る

楠木 楓

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眠る赤ん坊

1.誕生

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 世界は眠らない。
 二十四時間、三百六十五日、常に稼動し続けていることをそう称しているわけではない。
 常に地球の何処かは朝であり、誰かが起きている、ということでもない。


 人類から眠りが抜け落ちた、ということだ。






 人々は朝も夜も関係なく動き回る。
 一日の区切りは時計と、午前零時と共に鳴り響く日付変更音で感じるのが常だ。

 できる社会人、等という文句が記載されている電子書には、すべからく今日の日付がわかる時計と手帳の所持が書かれている。むろん、こんなものは初歩中の初歩なのだが、悲しいかな、それらの所持を忘れ、今が約束の日であることに気づけなかった、という例は後を絶たない。
 立体映像機によって写されるニュースやテレビ番組に日付が表示されているため、何とかなるだろう、と油断してしまう新人の多さが如実に出ている事例だ。
 対策として各会社は新人に徹底して時計と手帳の所持を言いつけるのだが、失敗を経なければ学ばない人間というのはどの世代にもいる。

 そんな、眠るという前提を失った世界で、人類が繁栄してきた中、生まれてきたのがホーリーだ。
 地球上にただ一人。眠りが必要なヒト。

「先生!」

 十二年ほど前、母の産道を通り、この世界に生を受けたホーリーは病院の看護師や医者を混乱へと突き落とす。

 産声を上げた時も、母の手に始めて抱かれた後、医者の手によって新生児室に運ばれた時も、大きな異変は見られなかった。体重も身長も平均。出産が極端に早まったわけでも、遅れたわけでもない。
 医者としてはいつも通り。
 マリーとしては初の試みではあったが、体力の消耗は思ったほどではなく、安産であった。

 ホーリーの異常が露見したのは生後一週間と少しという時間が経ってからのことだった。
 腹を空かせて泣いている赤ん坊や室内に流れている教育音に耳を済ませている赤ん坊がいる中で、ホーリーだけが瞼を下ろし、じっとしていたのだ。

 通常、生後三日ほどは、羊水や栄養の供給が失われたことに体を対応させるため、赤ん坊は目を閉じ、じっとしている傾向にある。
 しかし、四日目、遅くとも一週間も経てば目を開け、見えないながらも周囲を観察し、音に反応するようになるものだ。

「うちの子、どうしちゃったんですか……!」

 ミルクを飲み、げっぷもする。
 目を開けている時は興味深げな様子を見せることもある。
 しかし、他の赤ん坊達が常にその状態であるにも関わらず、一日の大半を目を閉じて過ごしているホーリーの姿は、異常としか言えないものであった。

 母の訴えを受け、また、病院側としても赤ん坊の健やかな成育のため、すぐさま検査が行われた。
 脈、体温、心音、血液、レントゲン、DNA。
 簡単なものから大型の機材を必要とするものまで。医者は手を尽くした。

「すみません。
 こちらも方々手を尽くしたのですが」
「……そう、ですか」
「一応、命に別状がないことだけは確認できています」
「わかりました」

 下された検査結果は原因不明。
 ホーリーの体に異常は見られなかった。
 健康そのもの。臓器が不完全ということもなく、一般的な赤ん坊と違うところは行動のみ。

 この時、既にホーリーとマリーは一ヶ月間も入院を余儀なくされており、これ以上、医療機関でできることはないこと、希望するのであれば退院しても構わないことを告げられた。
 何か不足の事態があったときの対応を考えるのであれば、継続して病院に留まるべきかもしれない。
 だが、近場で最も大きな病院であるこの場所は、人の入れ替わりも激しい。咎める者はおらずとも、心境として本当に必要である出産待ちの人間へベッドを明け渡したいというものがある。

 腕の中にはミルクをお腹いっぱいに飲んで眠っているホーリー。
 このまま、あるかもわからぬ事態に怯えながら病院で暮らすより、異常はないという言葉を信じ、普通の子供と同様に自宅でのびのびと育ててやりたい。マリーはそう決意した。

「ただいま」
「おかえり。
 大変だったね」

 退院の日。ボリスは妻が移動容器に揺られて帰ってくるのを今か今かと心をざわつかせながら待っていた。
 入院中、何度も病室を訪れ、静かに気絶しているホーリーを妻と共に見つめた時間は短くない。不意に薄い瞼が持ち上がり、母親譲りの美しい瞳が現れたときなど、隠された秘宝をようやくのことで見つけたかのような達成感と喜びがあった。

 愛おしい娘だ。たとえ、一日の大半を気絶して過ごしていたとしても、ミルクを求める姿や見えていない目でどこかを見つめる姿に嫌悪感など抱けるはずがない。
 彼女は夫婦の間に不明瞭な未来をもたらしたが、家族で共に過ごせるという事実を前にすれば、些細ささいな問題にもならないことだ。

「ホーリーは」
「今は気絶してる」

 母の腕に抱かれ、瞼を閉じているホーリーは小さな鼻息を漏らし、胸を上下させている。生きている証だ。

「だっこしてもいいかい?」
「そっと、ね」

 声を潜め、マリーはボリスの腕へホーリーを移動させる。
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