眠らない世界で彼女は眠る

楠木 楓

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初めての学校生活

8.楽しい日々

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 時の流れというものは早いもので、ホーリーが学校生活を始めて二ヶ月が経過した。
 目まぐるしく過ぎ去る毎日はとても楽しいもので、彼女が本で知り、話で聞き、想像していた生活よりもずっと幸福な時間であった。

 クラスメイトからも教師達からも、この世界の異物であるかのような扱いを受けることはなく、他の皆と同じように授業を受け、同じように接してもらっている。
 若干の不安があった授業に関しても、今のところ無理なく理解することができており、合間の小テストはクラスで上位の点数を取り続けている。
 まさに順風満帆の生活と言っていいだろう。

「ホーリーさん」
「はい」

 ある日の放課後、ホーリーはライノに声をかけられ、足を止めた。

 睡眠に関する質問コーナーは数巡を終えたところで幕を下ろしており、休み時間や朝礼前、放課後に彼女を囲むのは仲の良い友人達だけとなっていた。他のクラスメイトとも声をかけあい、コミュニケーションをとってはいるのだが、入学から数ヶ月も経てば、それぞれが、それぞれのコミュニティを形成するものだ。
 ホーリーはエミリオとマリユス、そしてシオンと特に仲が良く、放課後に彼らと遊びに行くことも珍しくない。

「体の調子はいかがですか」
「とっても元気ですよ」
「そうですか。それは良かった」

 ライノは安堵の表情を浮かべ、数度、首を縦に動かした。
 世界唯一を持った女の子、という事実は、ホーリーを大切に扱う充分な理由であるが、それ以上に、自身の生徒であるという肩書きは重い。
 クラスに馴染めるよう、しかし、浮いた存在にならぬように特別扱いはしない。慎重な対応とバランス感覚が求められるそれを自分ができているのか否か。ライノは自信が持てなかったのだ。

「私は眠らないのでわからないのですが、ホーリーさんは平均して八時間程の睡眠をとると聞きましてね」
「時々、夜更かししちゃったりもするんですけどね」

 ホーリーは苦く笑う。
 彼女以外は二十四時間、活動を続けてるのだ。面白そうなテレビ番組やゲームのイベントなどもあり、一時間二時間、時には四時間もの夜更かしをしてしまうこともあった。

「学校でおおよそ十一時間。睡眠に八時間。
 残された時間は五時間足らずで、宿題もある。
 大変でしょう」
「でも、みんなと一緒に授業を受けるのは楽しいので」

 あれは質問が新たな疑問を呼び、ホーリー自身も回答に限界を感じ始めていた頃のことだっただろうか。
 疑問に答えれば答えるほど、新たな謎が浮かび上がり、今の知識レベルで質問を続けることは無謀であるとホーリーを含めた皆が気づき始めていた。明確な回答など数えるほどしかなく、大抵の質問はそこから終わりのない議論へと移行するばかり。

 各々、次が最後の質問であると決めたあの時。ホーリーでもすぐさま答えを出せる質問があった。
 それが、睡眠とはどの程度の時間をとるものなのか、というもの。

 八時間程は意識のない時間があるのだ、と答えたあの時。周囲の目は驚愕に見開かれていた。
 ホーリーにとっては必要不可欠な時間であり、あって当然のものだが、彼らにとっては違っている。何もできず、何も考えることのできない時間が、八時間もある。

 耳が痛くなりそうな沈黙の後は、ホーリーを慰める会が開催された。
 学校と睡眠で一日を終えるというのは、なんとも味気ないではないか。

「無理はしないでくださいね」
「はーい」

 散々に同情され、哀れまれたホーリーであったが、返した言葉は気にしないで、という、心からの願いであった。

 周囲との差異は身にしみるほど感じていたし、使える時間の少なさもわかっている。だが、ホーリーにとってはそれが当たり前であり、同情や哀れみを受けるような事柄ではないのだ。
 自分が眠っている間に放送されているテレビ番組のことを話さない、などという気遣いは不要であり、他の者と一切変わらぬ扱いを受けることの方が余程、幸福であるのだと。

「あ、おーい!
 ホーリー!」

 背後から聞きなれた声が聞こえ、ホーリーが振り返れば、夕日に照らされた廊下の向こう側でエミリオが立っている。

「なーにー」
「カラオケ! 行こうぜ!」
「わかったー!」

 今朝はいつものメンバーでカラオケについて話していたので、もしかすると声がかかるかもと思っていたら案の定だ。ホーリーは悩むことなく肯定の言葉を返す。
 先日、開発されたシンガーロイドの新曲が入るのだ、とシオンが嬉しそうに話していたので、主導は彼女だろう。

 時事情報をメインに搭載されたかのシンガーロイドはポップながらも毒のある曲を歌うのだ、と情報通のシオンは楽しげに豪語していた。過去を風刺するような歌詞が実に痛快なのだ、とも。

「ちゃんと親御さんに連絡をいれておかないといけませんよ」
「大丈夫でーす」
「ライノちゃんったら過保護なんだからぁ!」

 注意に対して軽く返したのはホーリー。冗談混じりに口調を変えたのはエミリオだ。
 入学以降、教師を敬おうという気概が欠片も見られず、友人と接するかのような態度に何度かお叱りも受けている。それでもなお変わらぬのだから、これはもはや彼の個性なのだろう。
 不思議なことではあるが、エミリオが変化するよりも、教師達が彼の愛嬌にほだされる方がずっと早かった。

「廊下は走らない」
「あいよー!」
「返事だけなんだから」
「じゃあお前も歩けよな」

 ちゃん付けを注意するよりも、廊下を駆けることへの注意を向ければ、しっかりとした返事がエミリオの口から飛び出る。中身が伴っていないのはホーリーの言葉通りであるのだが。
 二人はライノに見送られ、パタパタと廊下を行く。

「何を話してたんだ?」

 校門前で合流し、カラオケ店へ向かう途中、シオンが尋ねた。

「体調のこと」
「どこか悪いの?」
「ううん。
 ただ、寝る時間のことがあるから心配してくれてたみたい」

 心配そうな顔をしたのはマリユスだ。
 彼は楽観的なエミリオや、目の前にあるものをそのまま受け入れるシオンと違い、少々心配性なところがある。自分達に知らされていないところで、眠りに関する新たな異常が見つかったのではないか、と気を揉んでくれていたようだ。

「どうしたってオレらとは違うもんな」
「そう、なんだ――」

 ふわ、という気の抜けた音と殆ど同時に、ホーリーは目線を下にやり、細い手で口元を隠す。
 吐き出された息は空気と混じり消えていった。

「どうかしたか?」
「クシャミだろ」
「え、あくび……」

 首を傾げるエミリオに見当違いな答えを渡したのはシオンだ。
 真顔で冗談を言うこともある彼女だが、今回に関していえば本気の色が見てとれた。

 思慮深い彼女でも知らぬことがあるのか、と思って数秒。ホーリーはそういえばこれも眠りがあるからこそなのかもしれない、と考え直す。
 専門家のように自分に付き添っていたあの病院の人間でさえ、眠りに関しては不明な点が多いのだ。あくびというものがホーリーにのみ与えられた動作であるというならば、秀才であるとはいえシオンが知っているはずがなかった。

「眠たい時とか、暇な時に出るんだけど、もしかして皆は出ない?」

 自分で口にして改めて気づいたが、両親を含め、今までホーリーはあくびをしている人間を見たことがない。あまりにも自然な動作であり、幼い頃に医者からあくびという名称を聞いていたため、まさかこれすら世界で己ただ一人のものだとは思いもしなかった。

「出ないよー」
「オレもオレも」
「あくび? 始めて聞くなぁ」

 三者三様であったが、答えは一致している。

「そっか。あくびって出ないものなんだね。
 何だか不思議」

 生理的な涙がじわりと零れるあの感覚も、息を吐ききった後に訪れるつかの間の覚醒も、噛み殺しきれぬ衝動も。ホーリーのみがわかるものであり、他の誰とも共有することはできない。
 世界に取り残されたような気持ちに陥ることも、今更と言っていい程、経験してきているし慣れたものだ。
 縫い針で皮膚の表面を軽く突いた程度の痛みが胸を指すだけで済む。

「というか、お前は今、眠たいのか?」
「んー、ちょっとだけ」

 シオンの問いかけにホーリーは嘘偽りなく答える。

 学校生活にも慣れ、友達づきあいも増えた。
 こうして皆で出かけることも多く、楽しいからこそ時間も忘れてしまう。
 自己管理を怠っているつもりはないのだが、ホーリーもまだ幼い子供だ。自制心よりも欲求の方が優先されることは少なくない。

 最低限、クラスの皆に間抜けな寝顔と涎だけは見られまいと努力しているのだが、帰宅後の予習復習や入浴、食事で潰れる時間を思えば、学校で皆が話していた話題のゲームや番組、雑誌に心が揺らぐこともある。
 徹夜からの居眠りだけは回避し続けているのだが、うつら、とした薄い眠気まで解消しきることはできなかった。

「どうする。今日は帰るか?」
「このくらい平気だよ」

 珍しく気を使ってくれたらしいエミリオへホーリーは人差し指と親指で作った輪っかを見せる。
 多少の睡眠不足では体調を崩すこともない。ふとした瞬間にやってくる眠気はあるが、皆と楽しい時間を過ごしていればそれも吹き飛んでしまうというものだ。

 調子にのってこれを続けていると痛い目を見ることになってしまうのだが、過去の経験でよくよく思い知っている彼女は自身の限界を超えた無茶はしない。
 第一、眠気やあくびというものは、充分な睡眠をとっていたとしても気温や音、心地良さからじわりと迫ってくるものだ。
 その度に体をおもんばかり、家に帰っていては碌に遊ぶこともできなくなってしまう。

「無理はしないでね」
「ありがとう。
 疲れたらちゃんと帰るから大丈夫だよ」

 眉を下げているマリユスへ言葉を返してやれば、横からエミリオの笑い混じりな言葉が飛んでくる。

「ホーリーは貧弱だからな!」
「誰が貧弱よ。誰が!」
「イッテ!」

 軽くすねを蹴ってやればエミリオは眉を寄せて飛び上がった。
 学校指定のパンプスは三年間の使用に耐えるものとなっており、相応の強度がある。軽くとはいえど、当たれば痛い。

「……ホーリィィ!」
「キャー!」
「あっ! おい! 先に行くなよ!」
「ホーリーは意外と足が速いな」

 怒りを背後に浮かび上がらせたエミリオがキッとホーリーを睨めば、彼女は口角を上げて走って行く。突然の追いかけっこに置いていかれてなるものか、と残りの二人も駆け出すが、四人の中で最も体育の成績が悪いマリユスはどうしても数歩遅れてしまう。
 前を行くシオンは黒髪を風になびかせ、余裕の表情でホーリーとエミリオの戦いを観察していた。

 カラオケ店につくまできっとあの二人は走り続けるのだろう。
 息を切らせ、受付を済まし、しばらくの間はシオンとマリユスの間をマイクが行き来する。息が整い、思考も働くようになったところで彼らも参戦し、デュエットを歌うのだ。

 数日前にも似たようなことがあった。
 シオンは口元に笑みを浮かべ、数十歩も後ろにいるマリユスへ激励の言葉を投げてゆく。
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