認知症患者との日々

楠木 楓

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0話 思い出す日々

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 春が失われつつある昨今、あっという間に夏の暑さが地上を包む。
 適度な水分補給を念頭に入れつつアスファルトの上を歩くのは、灰色のスーツに身を包んだ一人の女。中島さつきだ。

 雨の日も風の日も暑い日も寒い日も、会社から会社を渡り歩く営業職半年目。
 といっても、ピカピカの新社会人ではなく、既に二度の転職を終えているクタクタの中途者である。それも順調にキャリアアップを続けてきた結果として今の仕事に就いているわけではない。
 前職もその前も別の職種であり、関連会社ですらない。

 明確なキャリアプランなく過ごすこの生き方が、果たしてこれは今の時代に則した在り方なのか、ただただ無作為に生きる愚か者なのかは議論の余地がある。
 だが、少なくとも今までの経験が無為に期したことはない、と、中島は自負していた。
 それは例えば、今この時もそうである。

「良い天気ねぇ」
「暑いから早く帰ろな」

 人生で笑った分だけ顔にしわを刻んできたのであろう老夫婦が穏やかな口調で中島の傍を通り過ぎる。
 薄手とはいえシャツスーツを着込んでいる彼女と違い、老夫婦は半袖に麦わら帽子と季節感に則った服装だ。お婆さんの服は落ち着いた色味ながらに可愛らしい花柄で、歳を理由におしゃれを辞めるつもりはないらしい。

 熟年離婚がどうこうとワイドショーで語られることが少なくない中、彼らのように仲睦まじい様子を見ることができるというのは心が軽くなる。
 結婚は人生の墓場、モラハラ、ATM扱い。
 インターネットや雑誌などに掲載される結婚は辛く悲しいものが数多くある。より刺激的なものが大衆にウケる、という理屈は確かにあるのだろうけれど、そんな情報に溢れる世の中では未婚率が上がるのも必然。少なくとも中島は結婚というものに殆ど憧れがないままおばさんのラインに足を踏み入れている。

 良いものを見た、と温かなものに満たされていた中島はそっと後ろを振り返る。
 見えるのはお爺さんの背中。そして、彼が押す車椅子の一部。

 歳をとって足腰が悪くなってしまう、というのは珍しい話ではない。例え、妻が車椅子生活を余儀なくされたとしても、ああして共に散歩することはできる。
 暖かな光景を見守りつつも、中島の意識は彼らの少し先。ころころと回る車輪の先にあった。

 段差がないか。窪みはないか。障害物はないか。
 しばしの間、不躾にならぬ程度に見つめ続け、二人の先がおぼろげにしか見えなくなってしまったところで前へ向き直る。

 ふ、と息を吐いてしまうのは安心感からだ。
 歳をとるとちょっとした段差で躓き、転び、骨を折ってしまう。
 本人のあずかり知らぬところで体は衰えて行き、簡単なことで壊れてしまうのだ。

 若い頃ならば骨折してしまったとしても多少の不便で済むが、歳を重ねればそれだけでは済まない。
 完治に時間がかかってしまうのはもちろんのこと、動かさずにいることで筋力が低下してしまい元に戻らなくなってしまう可能性もある。また、部位によっては入院となってしまい、今まで過ごしてきた環境と全く違う場所に置かれることで一時的に認知症のような症状を発症することもある。

 赤の他人、会話もしたことがないような人のことを気にしてしまうのは、中島が心優しいからではない。両親や祖父母の介護に勤しんでいるというわけでもない。
 ただ単純に、半年程前まで介護士として働いていた名残だ。

 職業病の一種といえばいいのか、知ってしまっているが故に無視できないといえばいいのか。ふとした瞬間、目についた高齢者のことを見てしまう癖が中島にはついていた。
 長く勤めていたわけではなく、看護師のような医療従事者でもないけれど、救急車を呼ぶくらいならばできる。必要があれば車椅子の移動を手伝うこともできる。
 何もないのが一番なのは当然なのだが、万が一の際、何も知らない人間よりは役にたつことができるだろう。

 改めて道を進み始めた中島は視線だけを動かして周囲を見る。
 平日の真昼間であるが、町を行く人の影は多い。

 講義に余裕があるらしい大学生達、赤ちゃんや幼児とその親、専業主婦や主夫をしているのか平日休みなのか働き盛りの人々。そこに紛れる高齢者。
 元気に散歩をしたり、杖をつきながら買い物をしている高齢者達は氷山の一角でしかない。

 人間、知らないモノは目につかないようにできている。
 介護という仕事を経る前の中島は家や施設にいる高齢者について考えたことなどなかった。テレビ番組や本のタイトルで何となく知っているつもりになっていただけで、彼らが見えるほど深い知見など持っていなかった。

 日本が目の当たりにしている超高齢化社会など、文字上だけの存在でしかなく、強いていうのであれば今後も介護職は人手が足りないのだろうな。過去の中島はその程度の感想を抱くばかりであった。
 しかし、今の中島は知っている。

 宅配物を受け取るためだけに顔を出したお婆さんがもし、引きこもりがちになっていなたらば、社会性の喪失や体力の減少によって認知症や寝たきりのリスクが高まってしまう。
 かといって、世の中の高齢者全てに目を行き届かせられるほど行政は暇ではなく、人材も足りていない。介護を専門とする人間はいつだって不足していて、今、苦しんでいる高齢者や家族全てを助けることもできない。

 辞めた身で、とは思うけれど、中島は願わずにはいられない。
 自分が関わった利用者とその家族に幸せが訪れることを。
 そして、いずれ行く我が身が幸福であることを。
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