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六話 入浴悲喜こもごも
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朝。今日一日の段取りを介護士間で決めた後、中島は気合を入れる。
「今日こそは……!」
「頑張ってね!」
「ファイト!」
先輩達からの声援は彼女を茶化すようなものではなく真剣そのもの。
彼らもまた、強く願っているのだ。成功を。
「黛さんをお風呂にいれるぞ!」
介護士として働く前と今で中島の認識や印象が変わったものは数多くある。
利用者視点の考え方や、家族の苦労、接し方。ペットを飼っているためか、排泄の介助や始末も想像よりは気楽に行うことができたのも印象の変化の一つだ。
多種多様な変化がある中、彼女が最も強く認識を改めたもの。
それが入浴の介助である。
「水曜は入ってくれたんだっけ?」
「いや、失敗しました」
「先週もダメだったから……」
「そろそろ不味いね」
あちらこちらからため息が出るのも無理はない。
件の黛はかれこれ二週間ほど入浴ができていないのだ。
これは当施設内だけの話だけではない。
一人暮らしをしている彼女は自分の意思で入浴することができず、利用している介護サービスもこの施設の分だけ。つまり、正真正銘、二週間以上入浴をせずに過ごしていることになる。
体の清潔を保つ、というのは健康的な生活を営む上で欠かせない要素だ。
周囲との関わりにも影響が出るし、介助する側としても困る。何より不衛生から病気にかかる可能性がある以上、放置するなどできるはずがない。
ならば何故、黛は二週間も入浴をせぬまま放置されているのか。
中島を含む介護士の怠慢か。否、そんなはずがない。
「素直に入ってくれたらいいんだけど」
先輩の一人が呟く。
そう。黛は入浴拒否が強いことで有名な利用者であった。
「黛さん。お風呂に入りましょう」
「まだ朝じゃない。
家に帰ってから入るわよ」
にっこりと笑って拒否。
中島は胸中でため息をつく。
世の中には朝風呂を好む人間もいるが、大半の人は夕方から夜にかけて入浴する生活リズムを刻んでいるだろう。そして、家に風呂があるのならば、わざわざ他人の家で風呂に入ることは少ない。
真っ当に、常識的に考え、黛は入浴を拒絶している。
何故、ただ遊びに来ただけの場で風呂に入らなければならないのか。それも太陽が真上にすら昇っていない時間に。
認知症患者である自覚のない彼女は当たり前のように思う。
これがただの高齢者であったならば、多少の危険はありつつも自身で入浴して終わりだ。
けれど、黛はそうではない。
帰宅して、散らかっている部屋を掃除しようとしては忘れ、物の場所が変わり行くばかり。そうこうしている間に時が過ぎ、食事をとって眠たいと感じたから眠る。
体に蓄積していく垢に彼女は気づけない。
「では、みんなさんの健康をチェックするために体重を計りたいので服だけ脱いでもらってもいいですか?」
「なんでよ。服を着たままでもいいじゃない」
「正確に計りたいので」
本人が望んでいるのだから、と放置するのは職務怠慢だ。介護士としては利用者の清潔を保つ努力をしなければならないし、本人が気づいていない怪我の確認、異常を察知するためにも入浴を通して全身を観察する必要がある。
よって、介護士はあれやこれやと手を変え品を変え、利用者に入浴する気になってもらわなければならない。
施設によっては強制的に服を脱がせ、浴場に放り込むこともあるらしいが、少なくとも中島が勤めているデイサービスでは利用者の意思を最大限に尊重することが決められていた。
その時、その時は時間がかかるけれど、最終的に利用者と良い関係を築くためにはこの手法が一番なのだ、と社長は語る。
「今日も良い天気ですねぇ」
「ちょっと暑くなってきたわ」
「夏ですからね。
あ、せっかくなんで汗流していきませんか?
ちょうどお風呂わいてるんですよ~」
お湯が勿体ないから、と。せっかくなんで、と。お願いします、と。
言葉を尽くしていくが黛は首を縦に振らない。
年に数回程度であれば特に問答もなく入浴することもあるのだが、大半はこのように長く時間をかけ、それでも失敗する。
特に新人である中島は黛からの信頼度が低いのか、彼女の入浴介助をした回数は片手の指でも余ってしまう。
正直に言ってしまえばこちらが癇癪を起したい気持ちになることもある。黛などまだマシな方で、中には殺されると泣き喚く利用者や、暴力を振るってくる者もいるのだが、話が通じているように感じられる分、上手くいかないやり取りに苛立ちを感じずにはいられない。
業務に対する義務感だけならばもうとっくに放り出しているかもしれない。中島が根気よく続けることができるのは周囲のサポートと上手くいったその瞬間を知っているからだ。
「ありがとうねぇ」
どうにかこうにか風呂に入った黛は目を綻ばせる。
二週間ぶりの入浴となればそれはもう気持ちが良いことだろう。
「いやぁ、何から何までやってくれて、嬉しいわぁ。
あなた頭洗うのも上手だし、毎日やってほしいくらい」
毎回やらせてくれるのならばそれが一番嬉しい。そう思いながらも中島は笑顔と優しいやり取りを繰り返す。
入浴拒否の苦労を乗り越えれば、次は入浴と言う基本的に危険を伴う作業の始まりだ。
足腰が弱っている高齢者の場合、ちょっとしたはずみで足を滑らせて頭を打つ、ということにもなりかねない。また、長時間の入浴による熱中症や脱水症状など、ありとあらゆるリスクが内包されている。
介護士側を見ても真夏の入浴介助となればむせ返る熱さによる熱中症、水虫などが感染する危険、利用者と共に転倒する可能性など、慎重を期さなければならない業務だ。
ここに衣服の着脱の一部介助、全介助。場合によっては排泄物の始末などといった手間もかかってくる。
大きな施設であれば複数人を一度に入浴させ、入浴と着替えで分担することもできるが、中島の勤める小さなデイサービスでは着替えから入浴、都度都度の風呂掃除まで全て一人でこなす必要があった。
自身で着替えができる利用者であればまだマシであるが、指示を出しても理解ができない利用者やそもそも体が動かない利用者が相手となるとどうしても時間がかかってしまう。
数ヶ月もすれば優先順位をつけ、隙間時間を見つけてどうにか時間を短縮する術を身に着けることができたが、当初は午前中に三人しか入浴できず、午後を担当する先輩の負担を大きくしてしまっていた。
とにもかくにも大変な作業だ。
介護の苦労といえば排泄物関連と夜勤が筆頭に来る、と薄く考えていた中島にとって、入浴回りの苦労という事実は驚きの連続であった。
「ここの人達はいつもよくしてくれるから、本当にありがたいの」
困ったなぁ、と中島は心の隅で考える。
社長や初任者研修の講師達から何度も聞かされ、その度に内心否定を繰り返していた言葉が思い出された。
認知症患者は可愛い。
侮蔑を含んだ物言いではなく、純粋に、子どもを愛らしいと言うように、彼らは利用者を形容する。
否定し続けていたその気持ちが、少しわかってしまうのだ。
我儘を言っていたはずなのにニコッとするところが。
子どものように笑うところが。
冗談を言い合い、共に遊ぶその姿が。
どこか素直で騙されやすいその在り方が。
仕方ないなぁ、と思わせてくる瞬間が、確かにある。
きっとこれは家族では得難い感覚だろう。
彼らには積み上げてきた思い出があり、現状との齟齬は悲しみを生む。
表面上の歴史だけを知り、今の認知症患者だけを知っているからこそ思うことができる。
「困ったことがあったらいつでも言ってくださいね」
「ふふ、ありがとう」
「今日こそは……!」
「頑張ってね!」
「ファイト!」
先輩達からの声援は彼女を茶化すようなものではなく真剣そのもの。
彼らもまた、強く願っているのだ。成功を。
「黛さんをお風呂にいれるぞ!」
介護士として働く前と今で中島の認識や印象が変わったものは数多くある。
利用者視点の考え方や、家族の苦労、接し方。ペットを飼っているためか、排泄の介助や始末も想像よりは気楽に行うことができたのも印象の変化の一つだ。
多種多様な変化がある中、彼女が最も強く認識を改めたもの。
それが入浴の介助である。
「水曜は入ってくれたんだっけ?」
「いや、失敗しました」
「先週もダメだったから……」
「そろそろ不味いね」
あちらこちらからため息が出るのも無理はない。
件の黛はかれこれ二週間ほど入浴ができていないのだ。
これは当施設内だけの話だけではない。
一人暮らしをしている彼女は自分の意思で入浴することができず、利用している介護サービスもこの施設の分だけ。つまり、正真正銘、二週間以上入浴をせずに過ごしていることになる。
体の清潔を保つ、というのは健康的な生活を営む上で欠かせない要素だ。
周囲との関わりにも影響が出るし、介助する側としても困る。何より不衛生から病気にかかる可能性がある以上、放置するなどできるはずがない。
ならば何故、黛は二週間も入浴をせぬまま放置されているのか。
中島を含む介護士の怠慢か。否、そんなはずがない。
「素直に入ってくれたらいいんだけど」
先輩の一人が呟く。
そう。黛は入浴拒否が強いことで有名な利用者であった。
「黛さん。お風呂に入りましょう」
「まだ朝じゃない。
家に帰ってから入るわよ」
にっこりと笑って拒否。
中島は胸中でため息をつく。
世の中には朝風呂を好む人間もいるが、大半の人は夕方から夜にかけて入浴する生活リズムを刻んでいるだろう。そして、家に風呂があるのならば、わざわざ他人の家で風呂に入ることは少ない。
真っ当に、常識的に考え、黛は入浴を拒絶している。
何故、ただ遊びに来ただけの場で風呂に入らなければならないのか。それも太陽が真上にすら昇っていない時間に。
認知症患者である自覚のない彼女は当たり前のように思う。
これがただの高齢者であったならば、多少の危険はありつつも自身で入浴して終わりだ。
けれど、黛はそうではない。
帰宅して、散らかっている部屋を掃除しようとしては忘れ、物の場所が変わり行くばかり。そうこうしている間に時が過ぎ、食事をとって眠たいと感じたから眠る。
体に蓄積していく垢に彼女は気づけない。
「では、みんなさんの健康をチェックするために体重を計りたいので服だけ脱いでもらってもいいですか?」
「なんでよ。服を着たままでもいいじゃない」
「正確に計りたいので」
本人が望んでいるのだから、と放置するのは職務怠慢だ。介護士としては利用者の清潔を保つ努力をしなければならないし、本人が気づいていない怪我の確認、異常を察知するためにも入浴を通して全身を観察する必要がある。
よって、介護士はあれやこれやと手を変え品を変え、利用者に入浴する気になってもらわなければならない。
施設によっては強制的に服を脱がせ、浴場に放り込むこともあるらしいが、少なくとも中島が勤めているデイサービスでは利用者の意思を最大限に尊重することが決められていた。
その時、その時は時間がかかるけれど、最終的に利用者と良い関係を築くためにはこの手法が一番なのだ、と社長は語る。
「今日も良い天気ですねぇ」
「ちょっと暑くなってきたわ」
「夏ですからね。
あ、せっかくなんで汗流していきませんか?
ちょうどお風呂わいてるんですよ~」
お湯が勿体ないから、と。せっかくなんで、と。お願いします、と。
言葉を尽くしていくが黛は首を縦に振らない。
年に数回程度であれば特に問答もなく入浴することもあるのだが、大半はこのように長く時間をかけ、それでも失敗する。
特に新人である中島は黛からの信頼度が低いのか、彼女の入浴介助をした回数は片手の指でも余ってしまう。
正直に言ってしまえばこちらが癇癪を起したい気持ちになることもある。黛などまだマシな方で、中には殺されると泣き喚く利用者や、暴力を振るってくる者もいるのだが、話が通じているように感じられる分、上手くいかないやり取りに苛立ちを感じずにはいられない。
業務に対する義務感だけならばもうとっくに放り出しているかもしれない。中島が根気よく続けることができるのは周囲のサポートと上手くいったその瞬間を知っているからだ。
「ありがとうねぇ」
どうにかこうにか風呂に入った黛は目を綻ばせる。
二週間ぶりの入浴となればそれはもう気持ちが良いことだろう。
「いやぁ、何から何までやってくれて、嬉しいわぁ。
あなた頭洗うのも上手だし、毎日やってほしいくらい」
毎回やらせてくれるのならばそれが一番嬉しい。そう思いながらも中島は笑顔と優しいやり取りを繰り返す。
入浴拒否の苦労を乗り越えれば、次は入浴と言う基本的に危険を伴う作業の始まりだ。
足腰が弱っている高齢者の場合、ちょっとしたはずみで足を滑らせて頭を打つ、ということにもなりかねない。また、長時間の入浴による熱中症や脱水症状など、ありとあらゆるリスクが内包されている。
介護士側を見ても真夏の入浴介助となればむせ返る熱さによる熱中症、水虫などが感染する危険、利用者と共に転倒する可能性など、慎重を期さなければならない業務だ。
ここに衣服の着脱の一部介助、全介助。場合によっては排泄物の始末などといった手間もかかってくる。
大きな施設であれば複数人を一度に入浴させ、入浴と着替えで分担することもできるが、中島の勤める小さなデイサービスでは着替えから入浴、都度都度の風呂掃除まで全て一人でこなす必要があった。
自身で着替えができる利用者であればまだマシであるが、指示を出しても理解ができない利用者やそもそも体が動かない利用者が相手となるとどうしても時間がかかってしまう。
数ヶ月もすれば優先順位をつけ、隙間時間を見つけてどうにか時間を短縮する術を身に着けることができたが、当初は午前中に三人しか入浴できず、午後を担当する先輩の負担を大きくしてしまっていた。
とにもかくにも大変な作業だ。
介護の苦労といえば排泄物関連と夜勤が筆頭に来る、と薄く考えていた中島にとって、入浴回りの苦労という事実は驚きの連続であった。
「ここの人達はいつもよくしてくれるから、本当にありがたいの」
困ったなぁ、と中島は心の隅で考える。
社長や初任者研修の講師達から何度も聞かされ、その度に内心否定を繰り返していた言葉が思い出された。
認知症患者は可愛い。
侮蔑を含んだ物言いではなく、純粋に、子どもを愛らしいと言うように、彼らは利用者を形容する。
否定し続けていたその気持ちが、少しわかってしまうのだ。
我儘を言っていたはずなのにニコッとするところが。
子どものように笑うところが。
冗談を言い合い、共に遊ぶその姿が。
どこか素直で騙されやすいその在り方が。
仕方ないなぁ、と思わせてくる瞬間が、確かにある。
きっとこれは家族では得難い感覚だろう。
彼らには積み上げてきた思い出があり、現状との齟齬は悲しみを生む。
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