認知症患者との日々

楠木 楓

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五話 社会性

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 人間とは社会の中で生きていく存在だ。
 広い目で見れば食事一つにも無数の人間が関わっており、狭く見れば日々を営む心の健康のために友人や知人と交流を深めていく。

 故に、人には様々な顔を使い分ける技術が求められる。
 円滑な交流の為、両親には、友人には、初対面の人間には、どのような顔をすればいいのか。
 そうして人生という長い年月の中で培われてきた術というのは簡単に失われるものではない。

「岩下さん、お手洗い大丈夫ですか?」
「おう」

 声が低く、威圧的な雰囲気のある岩下であるが、中島を含めた施設のスタッフからの評価としては比較的楽な利用者、というものである。
 見た目こそ色黒でがっしりした体型、といういかにもガテン系であるが、彼が声を荒げる瞬間というのはほぼないに等しい。

 寡黙であり、中島の声掛けにも基本的には、おう、いや、そうか、の三種類の返答が基本であるものの、入浴介助に拒否はなく、食事や排泄も自立して行うことができる。
 帰宅願望も少なく、時間通りに来所し、時間通りに帰宅していく。

 社長からは、もっとコミュニケーションを、いて楽しい空間を、とせっつかれるものの、他の利用者の介助や見守りを考えれば後回しになりがちだ。
 行事ごとにも積極的に参加することは少なく、時折、バラエティ番組を見て楽しげにしているのが精々。
 中島としても暇を見繕って会話を試みているが盛り上がったことはない。

「今日も岩下さんから笑顔を引き出せませんでした~」

 おやつの時間が過ぎれば利用者の帰宅が始まる。
 徐々に利用者が減っていくため、業務に対する緊張感というものも緩んでいく。残り利用者が二、三人ともなれば見守りや介護と並行して明日の準備や施設内清掃が行われ、合間合間に今日一日に関する雑談なども介護士間で和気あいあいと進む時間となる。

 中島は廊下に掃除機をあてつつ、手すりや電気のスイッチなどを消毒して回っている先輩スタッフへ本日の徒労を報告した。

「仕方ないって。あの人を笑わせれたら大したもんよ」

 軽く流されるのは中島が新人だからというわけでも、業務に情熱を持っていないからでもない。
 ここ数年、スタッフの手によって岩下が笑ったという事象が数回程度しか目撃されていない、という純然たる事実による返しである。

「でも……」
「それに、うちに来てる間はああして落ち着いてるんだから十分だと思うしね」
「え?」

 きょとん、とした顔をする中島に、先輩は一拍の間を置いてから、あなた知らなかったのね、と言葉を続けた。

「岩下さんはサ高住から来てるんだけど、あっちではすごいらしいのよ」

 サービス付き高齢者住宅。略してサ高住。
 住まいや食事、夜間の見回りなど、ある程度の介護や見守りを受けることができる。比較的介護度も低く、有料老人ホームに入ることができない岩下は普段、そこで日常生活を営んでいるらしい。
 中島の勤めるデイサービスへは認知症ケアや入浴などのために別途来所しているそうだ。

 岩下を始め、サービス付き高齢者住宅からの来所も珍しいものではない。
 家族が近場に住んでいない、独身である、などの理由から、一人では暮らせないものの老人ホームに入るほどではない、あるいは介護度がそこまで高くない人達は同様の形をとっている。

「凄い?」
「かなり暴れてるみたいよ」
「えっ! 岩下さんが?」

 扉を力任せにこじ開けようとする、備品を壊す、職員の暴力を振るう。
 先輩の口から出てくるその様は、普段デイサービスでのんびりと過ごしている岩下からは想像もつかない。

「夜、見回りしてた人が顔面を殴られた、ってのも聞いたわ」
「こわっ……」

 歳をとっているとはいえあの体格だ。理性なく本気で殴られたとすれば、痛いで済めば儲けもの。最悪の場合、骨か歯が持っていかれるかもしれない。

「でも何でなんですかね」

 中島は眉を寄せて考える。
 質の悪いサービス付き高齢者住宅もあるにはあるだろうけれど、少なくとも入浴時の岩下を見るに体に打撲痕を初めとする怪我は見られず、持ち込まれる着替えも気温に合わせたものが不足なくしっかりとしたものばかりだ。

 見えぬ部分はわからぬが、それでも虐待を受けているわけではないはず。
 嫌なことを言われ続けているのだろうか。ぞんざいに扱われているのだろうか。

 心配そうな中島へ先輩は困った顔をしてみせた。

「人間ってね、表と裏の顔があるでしょ」
「……え? まあ、そうですね」
「認知症になってもね、意外とそういうところが残ってる人は多いの」

 デイサービスはあくまでも週に数回、数時間だけ利用する、言わば外の世界だ。
 たとえ本人がこの場のことを忘れてしまっていたとしても、時間がくれば帰れる、ここは一時的に来てるだけ、というのは理解できることが多い。

 故に、外の顔で彼らは過ごす。
 いつ帰れるのだろうか、と不安になることはあれど、裏の顔を出すまでには至らないのだ。

 対してサービス付き高齢者住宅や自宅での生活は違う。
 利用者の意思に反してそこは紛うことなく彼らの家で、それ以上の帰る場所というのはたいていの場合存在していない。説得されようとも宥められようとも、納得できるはずがないのだ。

「だから、デイサービスにいる間だけでも、利用者さんも家族さんも精神的に落ち着けるっているのはとても大切なことだと思うのよね」

 介護している側の苦痛は言うまでもない。
 外に飛び出して事故にあわぬよう、人間らしい生活ができるようにサポートしようとしているにも拘わらず、返ってくるのは暴言や暴力。魔が差すこともあるだろう。何十、何百と踏みとどまった瞬間があるだろう。その回数を少しでも減らせるように、デイサービスはある。

 認知症患者側の苦痛もある。
 彼らは真っ当に家に帰りたいと願っているだけだ。身の回りに起こる、意味不明な事象、言動から逃れたいと思っているだけで、心の底から他者を傷つけたいとは思っていない。そうせざるを得ないだけなのだ。

 両者の気持ちを平等に汲み取り、負担なくわかり合わせることはできない。
 いかなる決意も肉体的、精神的疲労の前には崩れ落ち、認知症患者が若返ることはない。
 理屈では取り払えないものがある。

「たまに見学に来られる家族さんなんかが、あんな穏やかに過ごしてる父は初めてみました、って喜んでくれると、あぁ、この仕事してて良かったなぁ、って思えるの」

 それはそれとして、嫌なことも辛いことも多いけど、と先輩は笑っていた。
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