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第24話 炎に沈んだ村
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夕暮れのラウズ村、空には茜色の雲が漂い、遠くからは子供たちの歓声や、談笑する大人たちの声が聞こえてくるはずだった。しかし、その光景はすべて、脳裏に焼き付いた遠い日の幻想。今、目の前に広がるのは、炎と黒煙に彩られた地獄絵図だった。燃え盛る家屋の合間から、かろうじてくすぶる黒焦げの柱が、痛ましく虚空に突き出している。熱波と焦げ付く匂いが、エルドの呼吸を奪った。
「う……そ……だろ……」
エルドは、揺れる足取りで村の入り口に立ち尽くした。足元では、炭と化した草がパチパチと乾いた音を立て、風に舞う火の粉が、まるで生き物のように彼の頬をかすめていく。ここは、“魔物の襲撃を受けた”場所ではない。生気が完全に奪われ、“蹂躙された後”の、ただの廃墟だった。
その残酷な認識が、胸の奥を凍てつかせる。喉の奥で嗚咽がせり上がり、それを必死にのみ込むように、エルドは一歩、また一歩と前へ進んだ。地面には、誰かのものか、焦げ付いた布切れや、ひしゃげた食器が散乱している。
黒焦げた柵を乗り越え、辛うじて原型を留めている倒壊した家の扉を押し開ける。かつて、家族の温かい笑い声と賑やかな食卓が満ちていたはずの居間は、すでに骨組みだけを晒し、無機質な焦げた木材の骨格がむき出しのまま佇んでいた。壁も天井も焼け落ち、煤けた空が直接見えた。
「父さん……母さん……!」
エルドは、声にならない嗚咽をこらえながら、煤けた家中を必死に探した。すべてが焦土に還され、足元には木の破片と瓦礫が散乱している。だが、彼の両親の痕跡は、どこにも見当たらなかった。焦燥と絶望が、彼の心を深く蝕んでいく。
代わりに見つけたのは、黒く焦げた断片だった。それは、見覚えのある厚手の表紙のかけら――彼が初めて両親から手渡された、大切な一冊の『魔術入門書』の一部だった。その小さなかけらが、エルドの心を深く抉る。
「っ……ああああああ!!」
怒り、後悔、そしてどうしようもない絶望が、熱い鉄のようにエルドの胸を締めつけた。涙と汗が混じり合い、彼の頬を伝い落ちる。震える腕を振り上げ、地面に叩きつけた拳が、ぬかるんだ土の上に、彼の心の痛みを映すかのように深い溝を刻んだ。その時、微かな地響きと共に、不気味な影が背後に迫る。
そのとき――
「グオオオオオ!!」
まだ村に残っていた魔物たちが、地を揺るがすけたたましい咆哮とともに、焦げた木片の陰から飛び出し、エルドに襲いかかってきた。腐臭と獣じみた咆哮が、エルドの耳を劈く。鋭い牙と爪が、渾身の勢いでエルドの細い体を捉えようとする。
「……来るな!!」
エルドの体から、一瞬にして膨大な魔力が迸った。それは、彼自身も制御の及ばない、内なる深淵から湧き上がる力だった。胸の奥で荒々しくうずき、こめかみを激しく脈打たせる。彼の瞳が、赤く燃える炎を宿したかのように輝いた。
「やめろおおおおおおおおおおお!!!!」
その叫びが引き金となり、抑えきれない爆発的な魔力の奔流が、地の底から湧き上がるように村全体を貫いた。
大気が唸り、遠くの山肌には悲鳴のような裂け目が走り、瓦礫の下からは青白い閃光が不気味に吹き上がった。炎はさらに勢いを増し、黒煙とともにラウズ村全体を丸ごと呑み込んでいく。魔物も、木々も、頑丈な石造りの家も、そしてもし、まだ残された人々がいたとしても、そのすべてが、強大な魔力の渦に巻き込まれ、跡形もなく消え去った。何もかもが、エルドの意に反して塵と化した。
その後、静寂がラウズ村に戻ったのは、どれほどの時間が経ってからのことだろうか。辺りはすっかり夜の帳が降り、月光だけが、焦土と化した村を銀白色に冷たく照らし出す。風は止み、焼き尽くされた炎の匂いだけが、冷たい大気の中にいつまでも残っていた。
エルドは、焼け落ちた村の中心でただ一人、座り込んでいた。灰と瓦礫にまみれたローブを引きずり、乾いた涙の跡が頬にくっきりと刻まれている。その瞳は虚ろで、まるで生きる気力を失ったかのようだった。
「……僕の魔法は……人を守るどころか……全部、壊した……」
声はかすれ、言葉は冷たい夜空へ吸い込まれていく。彼の周囲には、もはや知る者の声も、懐かしい足音もない。ただ、重苦しいほどの静謐だけが、息づいているかのように広がっていた。
そして、その日から、エルドは“自分で魔法を使う”ことを完全に封じた。口を開けば、あの日の咆哮が蘇るかのように感じられた。詠唱は固く封印され、呪文陣を描こうとする指先は恐怖に震え、魔導書は鍵のかかった魔櫃の奥深くへと仕舞われた。
『呪文を唱えれば、また誰かを傷つけてしまう。だから僕は、二度と唱えない。でも、魔法を捨てることはできない。ならば、せめて、筆で、魔法を記し、誰かの役に立つように生きよう』
それは、彼なりの“罪滅ぼし”の誓いだった。自分自身を縛り付ける、重い鎖のような誓い。しかし、その誓いが、やがてエルドを王立魔道院へと導き、再び人々を救うための“別の道”を示すことになるのだった。
焼け跡の記憶を胸に、言葉を封じた日々が続く。
ラウズ村が灰燼と化して以来、エルド・マクシミリアンは一度も“魔法”という言葉を口にしなかった。かつての自分を縛るかのように、詠唱も、魔導符式を書くこともせず、ただひたすらに机に向かい、古今東西の魔導理論を深く深く掘り下げていった。彼の指先が触れるのは、墨と紙だけ。しかし、その探究心は尽きることがなかった。
「もう、二度と、自分の魔法で誰かを傷つけたくない」
その誓いこそが、彼のすべての行動原理であり、生きる意味となっていた。
王立魔道院。王都中央にそびえる白亜の巨大建築は、魔導の頂点を極める者たちが集う聖域だった。歴代の大魔導師たちの肖像画が並ぶ長く、荘厳な廊下を、十五歳になったエルドは、震える手で扉のノブを回し、その威厳ある門をくぐり抜けた。彼の顔には、まだ過去の影が色濃く残っていた。
入学初日。彼の素性を知った学生や教授たちは、ざわめきと好奇の目で彼を見つめた。
「詠唱せずに、杖も使わず、紙と筆だけで呪文を記す? そんなことが可能なのか?」
「一体、どんな魔導を学ぶつもりだ? そんな異端なやり方で、本当に力が使えるとでも言うのか?」
誰もが半信半疑だった。しかし、エルドが描く“スクロール”は、やがてその真価を世界に示すことになる。驚異的な速度で複雑な符式を描き上げ、その精度は、まるで神業のように誰も侵せぬ領域に達していた。魔力流の制御図式を示した瞬間、ベテランの教授陣すら息を呑み、助教授は震える声で告げた。
「君の理論……心臓の拍動に合わせて魔力の圧力を微調整することで、暴走率を0.3%も抑えられるだと……? まさか、そんな馬鹿なことが……!」
「はい。その微細な圧力差が、呪文の安定化を劇的に改善します。より少ない魔力で、より強大な力を引き出すことも可能になるはずです」
「こ、こいつは……まさに天才だ……!! 魔導の歴史を塗り替える逸材かもしれんぞ……!」
やがて、エルドの研究室の前には、彼に教えを乞う助手や協力者が列をなし、“主席研究員”という輝かしい肩書きが、彼のもとへもたらされた。彼の名声は、瞬く間に王都中に響き渡った。
だが、それはまた新たな過ちの始まりでもあった。
エルドは、心に深く封印された感情の奥底で、ラウズ村を焼き尽くした深い後悔と罪悪感を抱えたまま、研究に没頭していく。魔法への執着は、いつしか彼を危険な領域へと誘い込んでいった。やがて彼は、「感情と魔力の連動性」の解明を目指し、禁忌とされる研究、禁術へと足を踏み入れていく。
感情増幅呪文:悲しみを力に変える、常識では考えられないような非人道的な回路。
魂の接続魔法:他者の心の一端を“借りてくる”という、魂を弄ぶ禁断の儀式。
時間逆行陣:過去への干渉を試みる、壮大かつ危険極まりない巨大な陣法。
教授や友人たちは、彼の研究が常軌を逸していくことに気づき、何度も制止を試みた。
「エルド、やめなさい! あなたの研究は、もはや“理論”ではなく“執着”になっているわ! このままでは、取り返しのつかないことになる!」
しかし、エルドの耳には、彼らの忠告は届かなかった。彼の心には、ただ一つの強い思いだけがあった。
「僕には……やらなきゃならない理由があるんだ! この研究が、きっとあの日の過ちを、償ってくれるはずなんだ……!」
そして、その執着が引き起こしたのが、歴史に名を刻むことになった「魔道院大爆発事件」(通称・エルドショック)だった。
彼の研究棟は吹き飛び、夜空は三色に輝く不気味な閃光に包まれ、王都全域が一時的に深刻な魔力障害に陥った。大切な魔導書は灰となり、貴重な研究資料は瓦礫と化し、多くの無辜の民が混乱の渦に巻き込まれた。それは、ラウズ村の再現かのように、エルドの心を深く深く苛んだ。
その甚大な責任を問われ、エルドは名誉剥奪、そして王立魔道院からの追放処分を受けることになった。
「お前の魔法は、確かに美しい。だが、それはもう“人のため”ではない。ただ、自分自身を慰めるための、歪んだ力になってしまった」
最期に彼を叱責したのは、いつも優しく導いてくれた、尊敬する師匠だった。その言葉は、エルドの胸に深く深く刺さり、彼は何も言い返すことができなかった。その通りだ、と認めるしかなかった。
自分でもわかっていた。彼の魔法はもはや、“罪から逃げるための魔法”になっていたのだと。
王立魔道院を追放された後、エルドは各地を転々とした。山間の人里離れた研究施設、荒野の小さな集落、海辺の寂れた灯台……どこへ行っても、彼の過去を知る者はいなかった。だが、その孤独と失意の中で、彼は自らの過ちを胸に刻み続け、心の傷は癒えることがなかった。
ある寒い夜、旅の途中で立ち寄った小さな村の、古びた図書館でのこと。彼は偶然、耳にした噂に心を奪われた。
「なあ、知ってるか? 書いたことが現実になるっていう、すげえ“異世界の作家”がいるらしいぜ?」
「ああ、『筆の家』って農家のことだろ? あそこの畑の野菜は、魔法でも使ったみたいに育つって噂だぜ」
その名に、なぜかエルドの心がざわめいた。凍てついていたはずの心の奥底に、微かな温かさが灯ったように感じられた。
“筆で生きる者の家”――。
なんとなく、その響きが、埃をかぶっていた過去の記憶を呼び起こすかのように懐かしかった。彼の心は、その『筆の家』へと導かれるように動き出した。
そして、そこで出会ったのが、リュウたちだった。
リュウとルナは、彼の過去や素性を詮索することなく、エルドを温かく迎え入れてくれた。気づけば、エルドの得意とするスクロールは、彼らが営む畑の作物育成に大活躍していた。墨で描く符式が、土に豊かな恵みをもたらす。それは、かつて彼が破壊した命とは真逆の、生み出す喜びだった。
誰もエルドに「魔法を使え」などとは言わなかった。誰も彼の重い過去を掘り返そうとしなかった。ただ、“いまの彼”を見つめ、彼の持つ知識や技術を、必要な場所で、必要とされる存在として受け入れてくれたのだ。エルドの心の氷が、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
その夜、筆の家の庭先。
小さなランプの灯りが、風に揺れる木々の影を踊らせる中、リュウとエルドは隣り合って静かに腰掛けていた。静寂の中、リュウがそっと口を開く。
「なあ、エルド」
「……ん?」
エルドは、空に瞬く星を見上げていた。
「そろそろ、“使っても”いいんじゃないか? お前の魔法は、きっと誰かを守れる魔法だよ。俺は、そう信じてる」
リュウの真っ直ぐな言葉が、エルドの心を震わせた。エルドは深く息を吸い込み、ゆっくりと瞳を閉じた。月明かりが、彼の横顔をかすかに照らし、その頬に刻まれた過去の傷跡を浮かび上がらせる。
そして、小さく、しかし確かな声で笑った。
「……そうだな。守るために使うなら……もう一度、つかってもいいかもしれない。ありがとう、リュウ」
リュウは、エルドの肩を軽く叩き、彼の背中を押すかのように、にんまりと悪戯っぽく笑う。
「おうよ! お前は、筆の家の“魔法担当”なんだからな!」
「肩書き、軽すぎない?」
エルドは苦笑しながら、思わずツッコミを入れた。
「じゃあ、副業は“爆発担当”とか、どうだ?」
「やめて! マジで笑えないから!」
筆の家に、エルドの小さな笑い声が戻った夜。
エルドは、胸に新たな誓いを刻んだ。かつての罪を繰り返さない、そして、今度こそ誰かのために力を使うという、固い決意。
《罪の筆は、許されるためではなく、誰かを守るために走る。だから、今日もこの手で記す。二度と、誰も、焼かないように》
罪を綴る筆、その言葉が、漆黒の過去を照らし、エルドの新たな未来への確かな一歩となった。
「う……そ……だろ……」
エルドは、揺れる足取りで村の入り口に立ち尽くした。足元では、炭と化した草がパチパチと乾いた音を立て、風に舞う火の粉が、まるで生き物のように彼の頬をかすめていく。ここは、“魔物の襲撃を受けた”場所ではない。生気が完全に奪われ、“蹂躙された後”の、ただの廃墟だった。
その残酷な認識が、胸の奥を凍てつかせる。喉の奥で嗚咽がせり上がり、それを必死にのみ込むように、エルドは一歩、また一歩と前へ進んだ。地面には、誰かのものか、焦げ付いた布切れや、ひしゃげた食器が散乱している。
黒焦げた柵を乗り越え、辛うじて原型を留めている倒壊した家の扉を押し開ける。かつて、家族の温かい笑い声と賑やかな食卓が満ちていたはずの居間は、すでに骨組みだけを晒し、無機質な焦げた木材の骨格がむき出しのまま佇んでいた。壁も天井も焼け落ち、煤けた空が直接見えた。
「父さん……母さん……!」
エルドは、声にならない嗚咽をこらえながら、煤けた家中を必死に探した。すべてが焦土に還され、足元には木の破片と瓦礫が散乱している。だが、彼の両親の痕跡は、どこにも見当たらなかった。焦燥と絶望が、彼の心を深く蝕んでいく。
代わりに見つけたのは、黒く焦げた断片だった。それは、見覚えのある厚手の表紙のかけら――彼が初めて両親から手渡された、大切な一冊の『魔術入門書』の一部だった。その小さなかけらが、エルドの心を深く抉る。
「っ……ああああああ!!」
怒り、後悔、そしてどうしようもない絶望が、熱い鉄のようにエルドの胸を締めつけた。涙と汗が混じり合い、彼の頬を伝い落ちる。震える腕を振り上げ、地面に叩きつけた拳が、ぬかるんだ土の上に、彼の心の痛みを映すかのように深い溝を刻んだ。その時、微かな地響きと共に、不気味な影が背後に迫る。
そのとき――
「グオオオオオ!!」
まだ村に残っていた魔物たちが、地を揺るがすけたたましい咆哮とともに、焦げた木片の陰から飛び出し、エルドに襲いかかってきた。腐臭と獣じみた咆哮が、エルドの耳を劈く。鋭い牙と爪が、渾身の勢いでエルドの細い体を捉えようとする。
「……来るな!!」
エルドの体から、一瞬にして膨大な魔力が迸った。それは、彼自身も制御の及ばない、内なる深淵から湧き上がる力だった。胸の奥で荒々しくうずき、こめかみを激しく脈打たせる。彼の瞳が、赤く燃える炎を宿したかのように輝いた。
「やめろおおおおおおおおおおお!!!!」
その叫びが引き金となり、抑えきれない爆発的な魔力の奔流が、地の底から湧き上がるように村全体を貫いた。
大気が唸り、遠くの山肌には悲鳴のような裂け目が走り、瓦礫の下からは青白い閃光が不気味に吹き上がった。炎はさらに勢いを増し、黒煙とともにラウズ村全体を丸ごと呑み込んでいく。魔物も、木々も、頑丈な石造りの家も、そしてもし、まだ残された人々がいたとしても、そのすべてが、強大な魔力の渦に巻き込まれ、跡形もなく消え去った。何もかもが、エルドの意に反して塵と化した。
その後、静寂がラウズ村に戻ったのは、どれほどの時間が経ってからのことだろうか。辺りはすっかり夜の帳が降り、月光だけが、焦土と化した村を銀白色に冷たく照らし出す。風は止み、焼き尽くされた炎の匂いだけが、冷たい大気の中にいつまでも残っていた。
エルドは、焼け落ちた村の中心でただ一人、座り込んでいた。灰と瓦礫にまみれたローブを引きずり、乾いた涙の跡が頬にくっきりと刻まれている。その瞳は虚ろで、まるで生きる気力を失ったかのようだった。
「……僕の魔法は……人を守るどころか……全部、壊した……」
声はかすれ、言葉は冷たい夜空へ吸い込まれていく。彼の周囲には、もはや知る者の声も、懐かしい足音もない。ただ、重苦しいほどの静謐だけが、息づいているかのように広がっていた。
そして、その日から、エルドは“自分で魔法を使う”ことを完全に封じた。口を開けば、あの日の咆哮が蘇るかのように感じられた。詠唱は固く封印され、呪文陣を描こうとする指先は恐怖に震え、魔導書は鍵のかかった魔櫃の奥深くへと仕舞われた。
『呪文を唱えれば、また誰かを傷つけてしまう。だから僕は、二度と唱えない。でも、魔法を捨てることはできない。ならば、せめて、筆で、魔法を記し、誰かの役に立つように生きよう』
それは、彼なりの“罪滅ぼし”の誓いだった。自分自身を縛り付ける、重い鎖のような誓い。しかし、その誓いが、やがてエルドを王立魔道院へと導き、再び人々を救うための“別の道”を示すことになるのだった。
焼け跡の記憶を胸に、言葉を封じた日々が続く。
ラウズ村が灰燼と化して以来、エルド・マクシミリアンは一度も“魔法”という言葉を口にしなかった。かつての自分を縛るかのように、詠唱も、魔導符式を書くこともせず、ただひたすらに机に向かい、古今東西の魔導理論を深く深く掘り下げていった。彼の指先が触れるのは、墨と紙だけ。しかし、その探究心は尽きることがなかった。
「もう、二度と、自分の魔法で誰かを傷つけたくない」
その誓いこそが、彼のすべての行動原理であり、生きる意味となっていた。
王立魔道院。王都中央にそびえる白亜の巨大建築は、魔導の頂点を極める者たちが集う聖域だった。歴代の大魔導師たちの肖像画が並ぶ長く、荘厳な廊下を、十五歳になったエルドは、震える手で扉のノブを回し、その威厳ある門をくぐり抜けた。彼の顔には、まだ過去の影が色濃く残っていた。
入学初日。彼の素性を知った学生や教授たちは、ざわめきと好奇の目で彼を見つめた。
「詠唱せずに、杖も使わず、紙と筆だけで呪文を記す? そんなことが可能なのか?」
「一体、どんな魔導を学ぶつもりだ? そんな異端なやり方で、本当に力が使えるとでも言うのか?」
誰もが半信半疑だった。しかし、エルドが描く“スクロール”は、やがてその真価を世界に示すことになる。驚異的な速度で複雑な符式を描き上げ、その精度は、まるで神業のように誰も侵せぬ領域に達していた。魔力流の制御図式を示した瞬間、ベテランの教授陣すら息を呑み、助教授は震える声で告げた。
「君の理論……心臓の拍動に合わせて魔力の圧力を微調整することで、暴走率を0.3%も抑えられるだと……? まさか、そんな馬鹿なことが……!」
「はい。その微細な圧力差が、呪文の安定化を劇的に改善します。より少ない魔力で、より強大な力を引き出すことも可能になるはずです」
「こ、こいつは……まさに天才だ……!! 魔導の歴史を塗り替える逸材かもしれんぞ……!」
やがて、エルドの研究室の前には、彼に教えを乞う助手や協力者が列をなし、“主席研究員”という輝かしい肩書きが、彼のもとへもたらされた。彼の名声は、瞬く間に王都中に響き渡った。
だが、それはまた新たな過ちの始まりでもあった。
エルドは、心に深く封印された感情の奥底で、ラウズ村を焼き尽くした深い後悔と罪悪感を抱えたまま、研究に没頭していく。魔法への執着は、いつしか彼を危険な領域へと誘い込んでいった。やがて彼は、「感情と魔力の連動性」の解明を目指し、禁忌とされる研究、禁術へと足を踏み入れていく。
感情増幅呪文:悲しみを力に変える、常識では考えられないような非人道的な回路。
魂の接続魔法:他者の心の一端を“借りてくる”という、魂を弄ぶ禁断の儀式。
時間逆行陣:過去への干渉を試みる、壮大かつ危険極まりない巨大な陣法。
教授や友人たちは、彼の研究が常軌を逸していくことに気づき、何度も制止を試みた。
「エルド、やめなさい! あなたの研究は、もはや“理論”ではなく“執着”になっているわ! このままでは、取り返しのつかないことになる!」
しかし、エルドの耳には、彼らの忠告は届かなかった。彼の心には、ただ一つの強い思いだけがあった。
「僕には……やらなきゃならない理由があるんだ! この研究が、きっとあの日の過ちを、償ってくれるはずなんだ……!」
そして、その執着が引き起こしたのが、歴史に名を刻むことになった「魔道院大爆発事件」(通称・エルドショック)だった。
彼の研究棟は吹き飛び、夜空は三色に輝く不気味な閃光に包まれ、王都全域が一時的に深刻な魔力障害に陥った。大切な魔導書は灰となり、貴重な研究資料は瓦礫と化し、多くの無辜の民が混乱の渦に巻き込まれた。それは、ラウズ村の再現かのように、エルドの心を深く深く苛んだ。
その甚大な責任を問われ、エルドは名誉剥奪、そして王立魔道院からの追放処分を受けることになった。
「お前の魔法は、確かに美しい。だが、それはもう“人のため”ではない。ただ、自分自身を慰めるための、歪んだ力になってしまった」
最期に彼を叱責したのは、いつも優しく導いてくれた、尊敬する師匠だった。その言葉は、エルドの胸に深く深く刺さり、彼は何も言い返すことができなかった。その通りだ、と認めるしかなかった。
自分でもわかっていた。彼の魔法はもはや、“罪から逃げるための魔法”になっていたのだと。
王立魔道院を追放された後、エルドは各地を転々とした。山間の人里離れた研究施設、荒野の小さな集落、海辺の寂れた灯台……どこへ行っても、彼の過去を知る者はいなかった。だが、その孤独と失意の中で、彼は自らの過ちを胸に刻み続け、心の傷は癒えることがなかった。
ある寒い夜、旅の途中で立ち寄った小さな村の、古びた図書館でのこと。彼は偶然、耳にした噂に心を奪われた。
「なあ、知ってるか? 書いたことが現実になるっていう、すげえ“異世界の作家”がいるらしいぜ?」
「ああ、『筆の家』って農家のことだろ? あそこの畑の野菜は、魔法でも使ったみたいに育つって噂だぜ」
その名に、なぜかエルドの心がざわめいた。凍てついていたはずの心の奥底に、微かな温かさが灯ったように感じられた。
“筆で生きる者の家”――。
なんとなく、その響きが、埃をかぶっていた過去の記憶を呼び起こすかのように懐かしかった。彼の心は、その『筆の家』へと導かれるように動き出した。
そして、そこで出会ったのが、リュウたちだった。
リュウとルナは、彼の過去や素性を詮索することなく、エルドを温かく迎え入れてくれた。気づけば、エルドの得意とするスクロールは、彼らが営む畑の作物育成に大活躍していた。墨で描く符式が、土に豊かな恵みをもたらす。それは、かつて彼が破壊した命とは真逆の、生み出す喜びだった。
誰もエルドに「魔法を使え」などとは言わなかった。誰も彼の重い過去を掘り返そうとしなかった。ただ、“いまの彼”を見つめ、彼の持つ知識や技術を、必要な場所で、必要とされる存在として受け入れてくれたのだ。エルドの心の氷が、ゆっくりと溶けていくのを感じた。
その夜、筆の家の庭先。
小さなランプの灯りが、風に揺れる木々の影を踊らせる中、リュウとエルドは隣り合って静かに腰掛けていた。静寂の中、リュウがそっと口を開く。
「なあ、エルド」
「……ん?」
エルドは、空に瞬く星を見上げていた。
「そろそろ、“使っても”いいんじゃないか? お前の魔法は、きっと誰かを守れる魔法だよ。俺は、そう信じてる」
リュウの真っ直ぐな言葉が、エルドの心を震わせた。エルドは深く息を吸い込み、ゆっくりと瞳を閉じた。月明かりが、彼の横顔をかすかに照らし、その頬に刻まれた過去の傷跡を浮かび上がらせる。
そして、小さく、しかし確かな声で笑った。
「……そうだな。守るために使うなら……もう一度、つかってもいいかもしれない。ありがとう、リュウ」
リュウは、エルドの肩を軽く叩き、彼の背中を押すかのように、にんまりと悪戯っぽく笑う。
「おうよ! お前は、筆の家の“魔法担当”なんだからな!」
「肩書き、軽すぎない?」
エルドは苦笑しながら、思わずツッコミを入れた。
「じゃあ、副業は“爆発担当”とか、どうだ?」
「やめて! マジで笑えないから!」
筆の家に、エルドの小さな笑い声が戻った夜。
エルドは、胸に新たな誓いを刻んだ。かつての罪を繰り返さない、そして、今度こそ誰かのために力を使うという、固い決意。
《罪の筆は、許されるためではなく、誰かを守るために走る。だから、今日もこの手で記す。二度と、誰も、焼かないように》
罪を綴る筆、その言葉が、漆黒の過去を照らし、エルドの新たな未来への確かな一歩となった。
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眼下には、Sランクパーティーさえも圧倒する、伝説のドラゴン。
―――それは、ただの不運な落下のはずだった。
崩れ落ちる崖から転落する際、杖代わりにしていただけの槍が、本当に、ただ偶然にも、ドラゴンのたった一つの弱点である『逆鱗』を貫いた。
その、あまりにも幸運な事故こそが、竜の命を絶つ『最後の一撃(ラストアタック)』となったことを、彼はまだ知らない。
死の淵から生還した彼が手に入れたのは、神の如き規格外の力と、彼を「師」と慕う、新たな仲間たちだった。
だが、その力の代償は、あまりにも大きい。
彼が何よりも愛していた“酒と女と気楽な旅”――
つまり平和で自堕落な生活そのものだった。
これは、英雄になるつもりのなかった「ただのオッサン」が、
守るべき者たちのため、そして亡き友との誓いのために、
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※小説家になろうさんにも投稿しています。投稿時は初稿そのまま。順次整えます。よろしくお願いします。
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