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第23話 魔法を使わぬ者
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窓から注ぐ柔らかな光が、木製のカウンターやタイル張りの床を金色に染め上げる。午後の喧騒が最高潮に達する店内は、まるでオーケストラのようにスタッフたちが呼吸を合わせて動いていた。活気に満ちた声と、食器の触れ合う軽やかな音が心地よく響く。
「星トマトプレート、あと三つお願いしまーす!」
ルナの甲高い声が響き渡ると同時に、ミィが手早くトマトを星形にカットし、深紅の果汁をきらきらとこぼす。
「はーいっ! ミィ、トマトの角度、3度傾けて!」
ミィは包丁を扱う手を止めずに、手慣れた様子で一枚を斜めに傾ける。まるで夜空を駆ける流れ星のように、瑞々しいトマトが皿上に踊った。
厨房はまさに戦場だ。鍋が沸騰する音、フライパンに油がはじける音、スタッフ同士の呼吸がピタリと合い、緊張感と一体感が入り混じっていた。その中でひときわ静かな存在がいた。
エルド・マクシミリアン、王立魔道院元・主席研究員にして、筆の家のスクロール職人――彼だけが、喧騒の中で静寂を纏っていた。
「エルドさーん、火球のスクロール切れとるばい。補充お願い!」
雑貨屋の売り子担当フィナが売れ筋スクロールの追加を頼んできた。
その声に、厨房亭の厨房奥で料理の補佐をしながらスクロールを書いているエルドは、眉一つ動かさずに応じる。
「ああ、わかった。炎属性強化符式、書き足しておく」
エルドが取り出したのは、薄い羊皮紙と長めの羽ペン。銀色に輝く軸を握りしめると、ペン先からは淡い蒼光がほのかに漏れ出す。
羽ペンが紙の上を滑るたび、複雑な魔導陣が繊細に浮かび上がり、瞬く間に新たなスクロールが完成した。
その速度と正確さは尋常ではない。細かい呪文符号がまるで無数の星屑のように集い、ひとつの強力な呪文として結晶していくのだ。
「……やっぱすごいなぁ、エルドのスクロール。威力も範囲も申し分なし」
リュウが小声でつぶやく。遠目にもわかるほど、ミランダが補助魔法スクロールを手に満足げに微笑んでいる。
リュウの瞳がふと、エルドの背中に注がれる。
「けど、そういや……エルドが直接魔法を使ってるとこ、一度も見たことないよな」
厨房の騒音が一瞬遠ざかり、リュウの頭に素朴な疑問が生まれた。それは、まるで彼の心に小さな石が落ちたかのように、静かに波紋を広げた。
その夜、筆の家の裏庭、焚き火の残り香がほのかに漂い、涼しい夜風が草木を揺らす。満天の星空を背に、ルナがそっとリュウに寄り添った。月明かりが二人の影を長く伸ばす。
「なあ、リュウ。ひとつ気になるっちゃけど……」
ルナの声には好奇心と少しの不安が、まるで小さな波のように混ざり合っていた。
「ん?」
リュウは腰掛けた丸太から顔を上げる。焚き火の炎が、彼の瞳の中で揺れる。
「エルドってさ、魔力あるのに、なんで魔法そのものを使わんと?敵が襲ってきても、毎回スクロールばっか。直接撃てば、楽になる場面もあるやろ?」
リュウはしばらく黙り、夜空の星を見つめた。数多の星々が、まるで彼の問いかけを待つかのように瞬いている。
「……それは、たぶん“使いたくない”んじゃないかな」
「……使えんのじゃなくて?」
「いや、あいつの魔力は、俺らの十倍はあるはずだ。もし直接ぶっ放したら、地形が吹き飛ぶレベルだよ」
ティアが焚き火の向こうから、静かに言葉を重ねる。炎の揺らめきが、彼女の表情を複雑に照らしていた。
「彼は明らかに、“魔法を制限”してる。制御ではなく、“封印”のような意志があるわ」
「それって、何か……過去にあったっちゃろ?」
「……たぶんね」
その頃、筆の家の物置小屋では、時間だけが止まっているかのような静寂が支配していた。
リュウが古びた木扉をそっと押し開けると、埃混じりの空気とともに、キャンドルの揺らめく灯りが出迎えた。その薄暗い空間に一人、エルドが静かにひざまずいていた。
ぼろぼろになった革表紙の魔導書を前に、彼は指先でページをゆっくりとなぞる。まるで、そこに刻まれた文字の一つ一つが、過去の痛みを蘇らせるかのように。
「……いつか、この本に書かれた魔法が使えれば、きっと、村のみんなも喜んでくれるって、そう思ってたんだ」
かつて両親が初めて贈ってくれた古い入門書には、希望と重責が静かに同居していた。それは、彼の幼い心を押し潰すほどの重みだったのかもしれない。
《火を灯す魔法は、希望の炎となる。だがその火が、すべてを焼き尽くすこともある》
エルドの細い指が頁の一節を押さえる。その瞳に、深い悔恨と痛みの影が悲しく揺れた。遠い日の記憶が、彼を苛むように。
「……僕には、“灯す資格”なんてないよ」
月明かりに照らされる魔導書の影が、まるで彼の抱える傷を映し出すかのように、不穏に揺らめいた。
静寂を破るように、背後で木扉が軋んだ。ひそやかな音は、エルドの張り詰めた神経を逆撫でする。
「エルド。そろそろ、話してもいいんじゃないか?……お前が“魔法を封じた”理由を」
エルドはゆっくりと顔を上げ、リュウと静かに視線を交わした。その瞳の奥には、長年秘めていたであろう深い悲しみが宿っていた。
深い沈黙の中、二人の間に、エルドの秘められた新たな物語の幕が下りた。
あの時はゆっくりと巻き戻る。
王都から遥か東へ、小川がせせらぐ渓谷に寄り添うように佇むラウズ村。木漏れ日が揺れる林道を抜けると、茅葺き屋根の家々が点在し、あたりには薬草と薪の香りがほのかに漂う。
人口百にも満たない小さな集落――にもかかわらず、その村に一筋の光を放つかのように、ひとりの少年が生まれた。エルド・マクシミリアン、その名が村中に知れ渡る天才少年だった。
「ねえ聞いた? エルドくん、また浮遊魔法成功させたって!」
「あら、昨日は火球で薪を燃やしたらしいわよ。うちのお母さんびっくりしてたんだから!」
「ほんと、天才だよね。絶対いつか王都に行けるって!」
村の大人たちの囁き声は、エルドの耳にも心地よく響いた。
十歳にも満たない少年が、小さな村の大人たちを魔法で助けるたびに、村の人々は喜びの声をあげた。学紋入りの小さなローブをはためかせ、エルドは今日も新しい呪文に挑んでは成功を重ねる。村の集会所には、彼をひと目見ようと人が集まり、子どもたちは尊敬と希望のまなざしを向けていた。
家路につけば、木の扉を開けた先には優しい笑顔の両親が待っている。
「エルド、お前がこの村の誇りだ。父さん、毎日が楽しみでな」
父は大きな手で息子の頭をくしゃりと撫でながら言い、薪割りで真っ黒になった顔に微笑みを浮かべた。その手は、エルドの頭を優しく包み込んだ。
「私は、お前が嬉しそうに呪文を唱える姿を見るのが一番幸せよ」
母は薬草の匂いが混じる穏やかな声でそう告げ、手作りのスープをすくったお皿を差し出した。温かい湯気が、幼いエルドの頬を撫でる。
二人は貯金を切り崩し、高価な魔導書を買い与えた。
「この本があれば、もっとすごい魔法が使えるようになるはずだ」
そんな言葉を耳に、エルドの胸は期待と喜びでいっぱいになった。彼の未来は、希望に満ちているはずだった。
そして、あの日が訪れる。
村の北に広がる原生林で、その密度を増した魔物たちが暴れ出した。轟音と咆哮が谷間に響き渡ると、人々は一様に顔色を失い、集会所に駆け込んできた。外からは、木々がへし折れる音と、魔物たちの耳障りな唸り声が聞こえてくる。
「エルドなら……エルドなら、きっと何とかしてくれる!」
「お前が“村の天才”だろう? 魔法で魔物を吹き飛ばしてくれ!」
期待と重圧に満ちた声が、エルドの幼い肩にのしかかる。まだ十三歳の少年は、畳の縁に爪を立てながら、全身を硬直させ震えていた。目の前には、期待と不安が入り混じった大人たちの顔が並ぶ。その視線が、まるで重い鎖のようにエルドを縛り付ける。胸の鼓動が早鐘のように打ち鳴らし、喉がひどく乾く。
「……僕が……行きます。みんなを守ります」
エルドは小さくうなずき、震える指でぎゅっと呪文書を握りしめた。両親も言葉はなく、ただ深く頷いて肩に手を置くだけだった。その手の温かさが、かえってエルドの心を締め付けた。
村外れの開けた草原。
薄い霧が低く立ちこめ、足元の草が白く光る。不穏な静寂の中、そこへ、目を赤くぎらつかせたウルフ型魔獣の群れ、巨大イノシシ、空を覆うカラスの群れが、まるで悪夢のように群れを成して迫ってきた。大地を揺らす蹄の音、不気味な羽ばたき、そして獣たちの飢えた咆哮が、エルドの耳に直接響く。
「……大丈夫。僕は――天才なんだから!」
エルドは荒い呼吸を整え、震える唇で詠唱を始めた。汗が額からこめかみを伝い落ちる。
「インフェルノ・ルーチェ――!」
しかし、声が喉に詰まり、次の言葉が続かない。掌から放たれるはずの炎が、まるで水に消えるように、弱々しく散ってしまった。目の前で魔物たちが歯ぎしりし、唸り声を上げる。その凶悪な瞳が、エルドを射抜くように見つめていた。
「ちがう……うまく……発動しない……っ!」
エルドの手が震え、魔力が暴れだす。焦りと恐怖が胸を締めつけ、額には冷たい汗がにじんだ。全身が硬直し、呼吸すらままならない。
「こわい……っ、なんで……!?」
必死で声を上げるほど、その場の恐怖が増す。周囲の景色が不気味にゆがみ、彼の世界は暗闇に覆われた。幼いエルドの心は、完全にパニックに陥っていた。
そして――
「いやだ……死にたくない……!」
エルドは呪文書を地に叩きつけると、魔物たちの唸りを背に、ただひたすらに逃げ出した。斜面を駆け降り、林を飛び出し、足がもつれても、転んでも、ただただ走り続けた。瞼の裏には母の優しい笑顔がちらつき、父の励ます声が胸に痛く響く。守れなかった、という絶望が、彼を追いつめる。
深い森の奥、ようやく立ち止まり、崩れるように膝をついた。呼吸は荒く、心臓が破れそうだった。恐怖と後悔が、全身を支配する。月明かりに照らされる霧の向こうで、魔物の呻きが遠ざかり、急に静寂が支配する。その静けさが、かえってエルドの罪悪感を増幅させた。
「……僕は、何で逃げたんだ? 守りたかったんじゃなかったのか……」
膝を抱えたまま呟く。胸の奥で、誇りは打ち砕かれ、ただ深い罪悪感が渦巻いていた。「天才」と称された自分は、どこにもいなかった。
「“天才”なんかじゃなかった……」
涙がこぼれ、頬を伝う冷たさが、容赦なく現実を突きつける。彼の心は、凍てついた氷のように冷え切っていた。
数時間後、夜明けの光が稜線を淡く照らし始めた頃、決意を新たにエルドは立ち上がった。傷ついた誇りを抱え、泥だらけの足で村へと向かう。彼の瞳には、贖罪の光が宿っていた。
「父さん、母さん……ごめん。僕はもう逃げないから」
胸の中で何度も誓いを反芻しながら、扉を開く準備をした。その誓いを伝えるために。だが、その期待が叶うには、あまりにも残酷なほど遅すぎたのだった…
「星トマトプレート、あと三つお願いしまーす!」
ルナの甲高い声が響き渡ると同時に、ミィが手早くトマトを星形にカットし、深紅の果汁をきらきらとこぼす。
「はーいっ! ミィ、トマトの角度、3度傾けて!」
ミィは包丁を扱う手を止めずに、手慣れた様子で一枚を斜めに傾ける。まるで夜空を駆ける流れ星のように、瑞々しいトマトが皿上に踊った。
厨房はまさに戦場だ。鍋が沸騰する音、フライパンに油がはじける音、スタッフ同士の呼吸がピタリと合い、緊張感と一体感が入り混じっていた。その中でひときわ静かな存在がいた。
エルド・マクシミリアン、王立魔道院元・主席研究員にして、筆の家のスクロール職人――彼だけが、喧騒の中で静寂を纏っていた。
「エルドさーん、火球のスクロール切れとるばい。補充お願い!」
雑貨屋の売り子担当フィナが売れ筋スクロールの追加を頼んできた。
その声に、厨房亭の厨房奥で料理の補佐をしながらスクロールを書いているエルドは、眉一つ動かさずに応じる。
「ああ、わかった。炎属性強化符式、書き足しておく」
エルドが取り出したのは、薄い羊皮紙と長めの羽ペン。銀色に輝く軸を握りしめると、ペン先からは淡い蒼光がほのかに漏れ出す。
羽ペンが紙の上を滑るたび、複雑な魔導陣が繊細に浮かび上がり、瞬く間に新たなスクロールが完成した。
その速度と正確さは尋常ではない。細かい呪文符号がまるで無数の星屑のように集い、ひとつの強力な呪文として結晶していくのだ。
「……やっぱすごいなぁ、エルドのスクロール。威力も範囲も申し分なし」
リュウが小声でつぶやく。遠目にもわかるほど、ミランダが補助魔法スクロールを手に満足げに微笑んでいる。
リュウの瞳がふと、エルドの背中に注がれる。
「けど、そういや……エルドが直接魔法を使ってるとこ、一度も見たことないよな」
厨房の騒音が一瞬遠ざかり、リュウの頭に素朴な疑問が生まれた。それは、まるで彼の心に小さな石が落ちたかのように、静かに波紋を広げた。
その夜、筆の家の裏庭、焚き火の残り香がほのかに漂い、涼しい夜風が草木を揺らす。満天の星空を背に、ルナがそっとリュウに寄り添った。月明かりが二人の影を長く伸ばす。
「なあ、リュウ。ひとつ気になるっちゃけど……」
ルナの声には好奇心と少しの不安が、まるで小さな波のように混ざり合っていた。
「ん?」
リュウは腰掛けた丸太から顔を上げる。焚き火の炎が、彼の瞳の中で揺れる。
「エルドってさ、魔力あるのに、なんで魔法そのものを使わんと?敵が襲ってきても、毎回スクロールばっか。直接撃てば、楽になる場面もあるやろ?」
リュウはしばらく黙り、夜空の星を見つめた。数多の星々が、まるで彼の問いかけを待つかのように瞬いている。
「……それは、たぶん“使いたくない”んじゃないかな」
「……使えんのじゃなくて?」
「いや、あいつの魔力は、俺らの十倍はあるはずだ。もし直接ぶっ放したら、地形が吹き飛ぶレベルだよ」
ティアが焚き火の向こうから、静かに言葉を重ねる。炎の揺らめきが、彼女の表情を複雑に照らしていた。
「彼は明らかに、“魔法を制限”してる。制御ではなく、“封印”のような意志があるわ」
「それって、何か……過去にあったっちゃろ?」
「……たぶんね」
その頃、筆の家の物置小屋では、時間だけが止まっているかのような静寂が支配していた。
リュウが古びた木扉をそっと押し開けると、埃混じりの空気とともに、キャンドルの揺らめく灯りが出迎えた。その薄暗い空間に一人、エルドが静かにひざまずいていた。
ぼろぼろになった革表紙の魔導書を前に、彼は指先でページをゆっくりとなぞる。まるで、そこに刻まれた文字の一つ一つが、過去の痛みを蘇らせるかのように。
「……いつか、この本に書かれた魔法が使えれば、きっと、村のみんなも喜んでくれるって、そう思ってたんだ」
かつて両親が初めて贈ってくれた古い入門書には、希望と重責が静かに同居していた。それは、彼の幼い心を押し潰すほどの重みだったのかもしれない。
《火を灯す魔法は、希望の炎となる。だがその火が、すべてを焼き尽くすこともある》
エルドの細い指が頁の一節を押さえる。その瞳に、深い悔恨と痛みの影が悲しく揺れた。遠い日の記憶が、彼を苛むように。
「……僕には、“灯す資格”なんてないよ」
月明かりに照らされる魔導書の影が、まるで彼の抱える傷を映し出すかのように、不穏に揺らめいた。
静寂を破るように、背後で木扉が軋んだ。ひそやかな音は、エルドの張り詰めた神経を逆撫でする。
「エルド。そろそろ、話してもいいんじゃないか?……お前が“魔法を封じた”理由を」
エルドはゆっくりと顔を上げ、リュウと静かに視線を交わした。その瞳の奥には、長年秘めていたであろう深い悲しみが宿っていた。
深い沈黙の中、二人の間に、エルドの秘められた新たな物語の幕が下りた。
あの時はゆっくりと巻き戻る。
王都から遥か東へ、小川がせせらぐ渓谷に寄り添うように佇むラウズ村。木漏れ日が揺れる林道を抜けると、茅葺き屋根の家々が点在し、あたりには薬草と薪の香りがほのかに漂う。
人口百にも満たない小さな集落――にもかかわらず、その村に一筋の光を放つかのように、ひとりの少年が生まれた。エルド・マクシミリアン、その名が村中に知れ渡る天才少年だった。
「ねえ聞いた? エルドくん、また浮遊魔法成功させたって!」
「あら、昨日は火球で薪を燃やしたらしいわよ。うちのお母さんびっくりしてたんだから!」
「ほんと、天才だよね。絶対いつか王都に行けるって!」
村の大人たちの囁き声は、エルドの耳にも心地よく響いた。
十歳にも満たない少年が、小さな村の大人たちを魔法で助けるたびに、村の人々は喜びの声をあげた。学紋入りの小さなローブをはためかせ、エルドは今日も新しい呪文に挑んでは成功を重ねる。村の集会所には、彼をひと目見ようと人が集まり、子どもたちは尊敬と希望のまなざしを向けていた。
家路につけば、木の扉を開けた先には優しい笑顔の両親が待っている。
「エルド、お前がこの村の誇りだ。父さん、毎日が楽しみでな」
父は大きな手で息子の頭をくしゃりと撫でながら言い、薪割りで真っ黒になった顔に微笑みを浮かべた。その手は、エルドの頭を優しく包み込んだ。
「私は、お前が嬉しそうに呪文を唱える姿を見るのが一番幸せよ」
母は薬草の匂いが混じる穏やかな声でそう告げ、手作りのスープをすくったお皿を差し出した。温かい湯気が、幼いエルドの頬を撫でる。
二人は貯金を切り崩し、高価な魔導書を買い与えた。
「この本があれば、もっとすごい魔法が使えるようになるはずだ」
そんな言葉を耳に、エルドの胸は期待と喜びでいっぱいになった。彼の未来は、希望に満ちているはずだった。
そして、あの日が訪れる。
村の北に広がる原生林で、その密度を増した魔物たちが暴れ出した。轟音と咆哮が谷間に響き渡ると、人々は一様に顔色を失い、集会所に駆け込んできた。外からは、木々がへし折れる音と、魔物たちの耳障りな唸り声が聞こえてくる。
「エルドなら……エルドなら、きっと何とかしてくれる!」
「お前が“村の天才”だろう? 魔法で魔物を吹き飛ばしてくれ!」
期待と重圧に満ちた声が、エルドの幼い肩にのしかかる。まだ十三歳の少年は、畳の縁に爪を立てながら、全身を硬直させ震えていた。目の前には、期待と不安が入り混じった大人たちの顔が並ぶ。その視線が、まるで重い鎖のようにエルドを縛り付ける。胸の鼓動が早鐘のように打ち鳴らし、喉がひどく乾く。
「……僕が……行きます。みんなを守ります」
エルドは小さくうなずき、震える指でぎゅっと呪文書を握りしめた。両親も言葉はなく、ただ深く頷いて肩に手を置くだけだった。その手の温かさが、かえってエルドの心を締め付けた。
村外れの開けた草原。
薄い霧が低く立ちこめ、足元の草が白く光る。不穏な静寂の中、そこへ、目を赤くぎらつかせたウルフ型魔獣の群れ、巨大イノシシ、空を覆うカラスの群れが、まるで悪夢のように群れを成して迫ってきた。大地を揺らす蹄の音、不気味な羽ばたき、そして獣たちの飢えた咆哮が、エルドの耳に直接響く。
「……大丈夫。僕は――天才なんだから!」
エルドは荒い呼吸を整え、震える唇で詠唱を始めた。汗が額からこめかみを伝い落ちる。
「インフェルノ・ルーチェ――!」
しかし、声が喉に詰まり、次の言葉が続かない。掌から放たれるはずの炎が、まるで水に消えるように、弱々しく散ってしまった。目の前で魔物たちが歯ぎしりし、唸り声を上げる。その凶悪な瞳が、エルドを射抜くように見つめていた。
「ちがう……うまく……発動しない……っ!」
エルドの手が震え、魔力が暴れだす。焦りと恐怖が胸を締めつけ、額には冷たい汗がにじんだ。全身が硬直し、呼吸すらままならない。
「こわい……っ、なんで……!?」
必死で声を上げるほど、その場の恐怖が増す。周囲の景色が不気味にゆがみ、彼の世界は暗闇に覆われた。幼いエルドの心は、完全にパニックに陥っていた。
そして――
「いやだ……死にたくない……!」
エルドは呪文書を地に叩きつけると、魔物たちの唸りを背に、ただひたすらに逃げ出した。斜面を駆け降り、林を飛び出し、足がもつれても、転んでも、ただただ走り続けた。瞼の裏には母の優しい笑顔がちらつき、父の励ます声が胸に痛く響く。守れなかった、という絶望が、彼を追いつめる。
深い森の奥、ようやく立ち止まり、崩れるように膝をついた。呼吸は荒く、心臓が破れそうだった。恐怖と後悔が、全身を支配する。月明かりに照らされる霧の向こうで、魔物の呻きが遠ざかり、急に静寂が支配する。その静けさが、かえってエルドの罪悪感を増幅させた。
「……僕は、何で逃げたんだ? 守りたかったんじゃなかったのか……」
膝を抱えたまま呟く。胸の奥で、誇りは打ち砕かれ、ただ深い罪悪感が渦巻いていた。「天才」と称された自分は、どこにもいなかった。
「“天才”なんかじゃなかった……」
涙がこぼれ、頬を伝う冷たさが、容赦なく現実を突きつける。彼の心は、凍てついた氷のように冷え切っていた。
数時間後、夜明けの光が稜線を淡く照らし始めた頃、決意を新たにエルドは立ち上がった。傷ついた誇りを抱え、泥だらけの足で村へと向かう。彼の瞳には、贖罪の光が宿っていた。
「父さん、母さん……ごめん。僕はもう逃げないから」
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