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~生物室は無法地帯⁈~

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 梅雨に入って長雨が毎日続いていた。
「ほんま今日もえらい雨やなぁ」
 放課後、生物実験室の窓から外を眺めていた古谷がぼやくように呟く。
「梅雨に雨が降らなきゃ稲は育たないし、夏場に水不足になっちゃうんだからボヤかない」
 読んでいた科学雑誌から視線を上げた優子がそう言うと、古谷は盛大なため息を吐く。
「わかってるけど、僕、自転車通学やからかなわんねん」
 雨の日は合羽を着ているが湿度が高いので蒸し暑いし、登校してから脱いで干しておく場所がないので困ると言う。
「駐輪場も仮やから屋根ないし」
 授業を受けている校舎はプレハブなので教室にはスペースの問題で個人ロッカーは無いし、駐輪場も野ざらしでは、雨合羽を乗って来た自転車にかけておく訳にもいかないようである。
「だったら恒温室使ったら?」
 古谷の悩みに優子が生物準備室にある小部屋な名前を出す。
 恒温室は24時間一定の温度湿度を保つ為の部屋なので、本校舎内ではあるが2畳ほどのスペースにエアコンが設置されていた。
「恒温室がある事自体、一般生徒は知らない生物部専用スペースだしね」
 正確には生物教員や講師の研究用スペースとして設置されていたのだが、現在、事実上生物部部員たちの私物置きスペースと化していた。
「トオル君の衣装用をかけてる突っ張り棒も設置してあるから、濡れた雨合羽干せるよ」
「ええアイディアやな…エアコンを除湿設定にしておけば、雨合羽だけじゃなく濡れた靴とか乾かせるやん」
 優子の提案に古谷はポンと手を打つ。
「生物部員の特権なんだから、利用しなきゃ」という優子に古谷は「悪いやっちゃなぁ」と笑っていると、香奈子と渉が連れ立って実験室に入って来た。
「えらい珍しい取り合わせやな」
 二人で連れ立って行動する事なの無いので、古谷が興味深げに渉を見る。
「買い出し手伝ってもらっていたの…渉君は荷物持ち」
 香奈子が言うように渉の両手には中身がパンパンに詰まった大きなレジ袋があった。
「すごい量だけど、何買ってきたの?」
「ほとんどはお茶会のお菓子とか飲み物…後は100均で見つけたキッチングッツ」
 優子の質問に答えながら香奈子は渉から袋を受け取り、中身を実験台の上にぶちまける。
 スナック菓子や炭酸飲料の山に交じって何故か製菓用の型や道具が複数あった。
「…ケーキの型?」
 ホールケーキ用の型を手にして優子は首を傾げる。
「来週、静香さんの誕生日だから、バースデーケーキを作ろうかと思ってるの」
 香奈子が楽しそうに微笑む。
「あ、香奈子さんの家で焼いてくるのね」
 納得の表情を浮かべた優子に香奈子は左右に首を振る。
「私、自転車だし持ってくるの大変だから、ケーキはここで作るわ」
「え? ここ電子レンジはあるけどオーブン機能付いていないし、このケーキ型金属製だから電子レンジでは使えないよ?」
 怪訝そうな優子に香奈子は「オートクレープがあるじゃない」と言いながらウインクする。
「は?」
 それを聞いた優子と古谷は顔を見合わせる。
「あの…そのオートなんちゃらって?」
 話を聞いていた渉は、ここにあるらしい知らない機材の名前が出てきたので気になって尋ねる。
「オートクレープってのは、実験機材を滅菌する機械の事で高温高圧滅菌器の事。培養実験なんかをする場合、余分な菌などを繁殖させない為に培養容器を培地ごと滅菌してから培養する細胞や菌を植え付けるの」
 そう優子は説明した後、その原理はお料理に使う圧力鍋と同じと笑う。
「?」
 料理をしない渉は優子の説明を聞いても圧力鍋を知らなかったのでよく分からないといった表情を浮かべた。
「君、もしかして理科苦手?」
「苦手じゃないですけど、得意科目でもないです」
「あ~なるほど」
 渉を自分が勧誘して入部させた手前、優子は特に何も言う事は無かったが、圧力釜の原理をどう説明しようかと頭を抱える。それを見兼ねたのか古谷が助け舟を出した。
「気圧によって水が沸騰する温度が変わるの渉、知らん?」
「?」
「富士山の山頂でお湯を沸かしたら70℃ぐらいで沸騰するってやつ」
「あ、その話は聞いた事がある」
 渉の返答に古谷は少しホッとした表情を浮かべて説明を続けた。
「あれな気圧が関係してるねん。富士山の上の気圧はかなり低いから水も低い温度で沸騰すんねん。逆に気圧が高くなると100℃を超えても沸騰せずに、もっと高い温度にならんと沸騰せえへんねん」
「…へぇ」
 とりあえず渉が疑問符を飛ばしていないので古谷は説明を続ける。
「圧力鍋は少量の水分を利用して加熱して使うもんやねんけどな、パッキンでがっちり密閉した蓋をしてあるから中の加熱された水がどんどん蒸気になっても逃げられへんで押し合いへし合いになるんよ。水蒸気と気体がおしくら饅頭している状態やから鍋の中は高圧になるやん? そしたら中の水の沸騰温度はどないなる?」
「あ…沸騰温度が100℃以上になる」
「ご名答」
 渉がある程度理解したのを確認して優子が説明を受け継ぐ。
「圧力鍋の中は100℃以上の高温だから食材に早く熱が入るし、高圧だからお出汁なんかが食材にしみこむのを利用した調理器具なのよ」
「なんか便利そうですね」
「数分で数時間煮込んだみたいになるから便利なんだけど、怖いっていう人もいるのよね」
「怖い?」
 優子の言葉に渉が首を傾げる。
「蓋におもりが付いていて、一定の高圧状態になったら鍋が壊れないように蒸気を逃がすようになってるんだけど、その音が爆発しそうで怖いらしいの」
 蒸気が出ずに内圧に耐えきらなくなって鍋が爆発した方が怖いのにと優子は笑う。
「ちなみにカビなんかの胞芽は熱に強くて2気圧120℃くらいで20分以上加熱しないと死なないから、培養実験なんかの前の高圧滅菌器での処理は必須だから覚えておいてね」
「あ…はい」
 優子にそう言われて渉は完全に理解した訳ではなかったが、慌てて頷いた。
「…で、話を戻すけど、オートクレープでケーキってどういう事?」
 優子が香奈子に向き直って疑問をぶつける。
「オートクレープって大きな圧力鍋なんだから、圧力鍋でできる料理なら作れるんで茶碗蒸しの要領でプリンケーキを作ろうかと思ってるの」
「なるほど、それ面白そう」
 香奈子の説明を聞いて優子は納得顔でポンと手を叩く。
「茶碗蒸しとプリンって全然違う食べ物ですけど…?」
 首を傾げる渉に香奈子が笑う。
「茶碗蒸しは卵とお出汁、それに具材が入れたもので、プリンは卵と砂糖、牛乳を混ぜ合わせたもの。作り方はどちらも一緒の卵料理よ…ちなみに卵豆腐は具材の入っていない茶碗蒸し」
「そうなんだ」
 調理の工程など知らない渉は目を丸くする。
「静香さん、プリン大好物だから、プリンケーキはどうかなって…オートクレープなら普通の圧力鍋に入らないこの大きなケーキの型も入るから」
「僕もプリン好きやから、それは楽しみやなぁ」
 香奈子の説明を聞いて古谷も笑顔を見せる。
「部員に卵アレルギーの人いなかったよね?」
 香奈子の質問に「たけやん(生物部顧問の武田)は蕎麦アレルギーだけど、それ以外の人間は食物アレルギーの人はいなかったはず」と優子が答える。
「なら大丈夫ね。プリンケーキ楽しみにしてて」
 そう言うと香奈子は満面の笑顔を浮かべるのだった。

 その日は朝から久しぶりに梅雨の晴れ間の一日となっていた。
 午後の授業を終えた静香は放課後になってもなかなか席を立とうとせず、自分の席でクラスメイトから借りた漫画雑誌を読んでいる。
 プレハブ校舎内はエアコンが効いているせいか、静香以外にも教室に残っている生徒が複数いた。
「本校舎蒸し暑いから、ここから出たくないなぁ」
 漫画から顔を上げた静香が窓の外を見てうんざり顔になる。
 雨は止んだものの、連日降り続いていた雨で地面に大量の水分が含まれている、それが太陽に照らされて蒸発し、外は高温多湿状態となっていたので、快適な教室から出たくないと静香が思うのも無理はなかった。
「あ、やっぱりここに居た」
 教室の入り口から顔をのぞかせた華が静香の姿を見付け、声を上げる。
「あれ? 華なんでここに?」
 聞き覚えのある声に静香が気がついて少し驚いたような表情を浮かべた。
「部室になかなか静香が来ないから、迎えに来たの」
「だって外蒸し暑いんだもん。ここから出たくない~」
 そう言いながら静香は机にしがみつく。
「何、子供みたいな事言ってるのよ、ほれ、行くわよ」
 華はそう言うと、子供の様にイヤイヤと首を振る静香の首根っこを掴んで席から立たせ、教室の外へ引きずって行く。
――あれ、前の生徒会長だよね?
――なんで2年の教室棟に?
――静香の色気ババア連れて行っちゃった
――なんかやらかしたんじゃない?
――不純異性交遊かもよ
――先生との不倫してるって噂あるよね?
――退学にならないのが不思議よね…
 教室や廊下で二人の様子を見ていた生徒たちが、ひそひそと勝手な憶測を交わしているのが聞こえて来るが、華も静香も特にそれに反応する事なくプレハブ校舎を出て本校舎へ向かった。
「あんた相変わらず評判悪いわね」
 本校舎の階段を上がりながら華か呆れた様に静香に言う。
それに対して静香は「勝手に言わせてればいいんじゃない?」と意に介する事もなく、馬鹿にするように鼻で嗤った。
「仲良くしろとは言わないけど、静香の態度にも問題あると思うけど」
「私は私らしくしてるだけ――媚びへつらうなんてまっぴらごめん」
「そう言うと思った」
 華は静香の言葉を聞いて苦笑いを浮かべる。
「さすが華、私の事解ってるわよね」
「そりゃ一年の時からの付き合いだしね」
 華と静香は一年生の時の同級生で、その時からの付き合いだった。
 二人はウマが合うらしくすぐに仲が良くなり、生物部に静香を誘ったのは華であったし、その後、静香が留年する事となった後もその関係は壊れる事は無く付き合いは続いている。
「無責任でくだらない噂話に興じるなんて、精神レベルが低いのよね」
 辛辣な意見を言う華もある意味、静香と似ていると言えた。
 生物実験室の前まで来ると華は扉を開け、「女王様お入りください」と芝居がかった仕草で恭しく静香に中に入る様に促す。
「ご苦労」
 静香は華おふざけに乗って横柄にそう言うと実験室の中に足を踏み入れた。その次の瞬間、複数のクラッカーの音が静香を出迎える。
「お誕生日おめでとう!」
 驚きで固まった静香に部員たちが口々にお祝いの言葉を口にした。
「…え⁈」
 生物実験室の中は色紙を張り合わせて作ったチェーンやティッシュで作った花などで飾り付けられ、黒板には大きく静香の誕生日を祝うメッセージが描かれていた。
「今日の主役席はこちら」
 そう言って華に促されて静香は席につく。それを待って香奈子が大皿を生物準備室から持って来て静香の前に置いた。
「でっかいプリン」
 大皿の上に乗っていたのはホイップクリームでデコレーションされた巨大なプリンで、それを見た静香は目を丸くする。
「香奈子特製バースデープリンでぇす♪」
「あ、ありがとう」
 驚きの表情から喜びへ静香は表情を変える。
 テーブルに置かれたグラスに炭酸ジュースが注がれ、全員の手にグラスが行きわたったところで華が乾杯の音頭を取り、ささやかな静香の誕生日を祝うパーティが始まった。
「これ…男子一同からのお祝いだ」
 プリンケーキの蝋燭の火を静香が吹き消した後、藤木がラッピングされた包みを静香に差し出す。礼を言ってそれを受け取った静香は早速その中身を確かめる為にラッピングを剥がしにかかった。
「わ~チャイナドレスだぁ」
 興味津々といった様子で見ていたあおいが、それを見て楽しそうな声を上げる。
 男子たちからのプレゼントはパーティグッツショップなどで売れているコスプレ用の赤いチャイナワンピースだった。
「これは間違いなく静香似合うわ」
「いいね」
「素敵」
 女子たちは口々に高評価の反応を示す。それを確認して男子たちはホッとした表情を浮かべた。
「何にしようかわからなかったけど、とりあえず悪趣味って言われなくて良かった…」
「コスプレ用の衣装ならバニーガールでも良かったのに」
 藤木の言葉に静香は笑いながらそう言う。
「バニーちゃんってさすがにそれは…」
 困惑した表情を浮かべている藤木を華が「セクシーなの好きなくせに」と揶揄う。
「いや、それは…そのう…」
 しどろもどろになる藤木に香奈子が「男の子。男の子」と頷きながら笑う。
「最初、こいつ誕生日プレゼントはサバイバルナイフがいいって言ってたんだだけどな」
 岡部がプレゼントを選ぶ際に上がった候補についてネタ晴らしをする。
「静香先輩の誕生日プレゼントにそれは無いって全員に却下されましたけど」
 そう言って渉が笑った。
 それを聞いた華も「それ、藤木の欲しいものじゃない」と笑っていると、優子がそっと手に収まる様な小さな包みを「女子一同からのプレゼント」と言って静香に差し出した。
「あ、ありがとう…何かな?」
 こちらも早速静香はプレゼントの中身を確認すると嬉しそうな声を上げた。
「これ欲しかったの。嬉しい」
 女子からのプレゼントは有名化粧品メーカーの新色の赤い口紅だった。
「口紅?」
 それを見た男子たちは不思議そうな顔になる。
「本物の一流メーカーの化粧品なんて、欲しくてもバイトをしていない高校生のお小遣いでポンポン買えるものじゃないのよ」
「そういうものなのか?」
 女性用の化粧品の相場など興味もなければ縁も無い男子たちにとっては知らない世界の話だった。
「チャイナワンピを着た時に、この口紅付けるのも良さそう」
 優子がそう言うと、静香がプレゼントを手に立ち上がる。
「ちょっと恒温室で着替えてくるから、覗いちゃダメよ」
 そう言って静香はウインクすると恒温室に姿を消した。
 それから数分して再び静香が姿を現した瞬間、その姿を見た一同から「おお~」という声が上がる。
 ミニ丈のチャイナワンピースに着替え、化粧を施したその姿は現役女子高生とは思えないセクシーさだった。
「キレイ」
「すごく似合ってる」
「セクシー」
 女子たちから感嘆の声が上がり、男子たちは、想像以上にチャイナドレスが静香に似合いすぎて驚いたのか揃って口をぽかんと開けていた。
「ストッキング持ってくればよかった~」
 そう言いながら静香は「生足よ、生足」と自分の太ももをぺちぺちと叩く。
「これこれ、男子たちが目のやり場に困ってるじゃない」
 慌てて静香の太ももから視線を逸らした男子たちに気が付いた華が苦笑いを浮かべる。
「プレゼントのお礼に今日は見学料は無料」
「普段は金取るんか~い」
 静香の言葉に優子がツッコミを入れていると、顧問の武田が実験室の様子を見に入って来た。
「今日はいつも以上に随分賑やかだな…」
 そこまで言った武田と静香の目が合う。
「…いつからここ、キャバクラになったんだ?」
 一瞬言葉を失った後、武田が口にしたのはそんな言葉だった。
「あら先生お久しぶり~。静香寂しかったわ~」
 武田の言葉に反応して静香が悪乗りしてそんな言葉を口にする。それを聞いた一同は笑い転げた。
「あ、なるほど結城の誕生日だったのか」
 部屋の飾りつけと黒板の文字を見た武田は状況を把握したらしく、納得した表情になる。
「先生も参加します?」
 香奈子がグラスと小皿を手に武田にお伺いを立てた。
「ダイエット中だから間食は遠慮しておくよ」
 そう言った後、武田は「ここはいいけど、校舎内をその格好でうろつくのだけは勘弁してくれな」と言って準備室の方へ戻って行く。
「——先生怒らなかったですね」
 てっきり怒られると思っていた渉は、クラブ顧問である武田の対応に驚いて目を丸くした。
「たけやんは細かい事は言わない先生だから」
 華はそう言った後「だからこそ、たけやんが困る事にならないようにだけはしなくちゃね」と最低限の秩序は必要と釘を刺す。
「チャイナワンピで校内をうろついたら、顧問であるたけやんが監督不行き届きで怒られるよな」
 岡部の言葉に一同頷く。
「ここなら構わないって、たけやんのお許しが出たから、遠慮なく騒ぐわよ」
「お~!」
 静香の言葉に藤木や岡部が笑いながら拳を突き上げる。
――生物部ってホントフリーダムだよな…。
 それが良いか悪いか渉にはわからなかったが、楽しそうにはしゃぐ先輩たちを見ていてしみじみとそう思うのだった。
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