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明治維新編4 運命のひと
運命のひと(4)
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朝になっても熱が引かず頭は割れるように痛かった。
いつになっても起きてこない聞多を心配して、昼頃に武子が粥や握り飯を持って様子を見に来た。
「武子です。お食事をお持ちしました」
上がってくる足跡が聞こえた。慌てて枕元の書類をまとめて布団の下に入れた。声を聞いて少し熱が上がった気がした。
「失礼します」
その声と同時に襖が開いて、武子が入ってきた。聞多は思わず寝返りをうって背中を向けていた。
「井上様、お加減はいかがですか」
そう言うと武子は手を伸ばして聞多の額に手を当てた。聞多は思わず手を払っていた。
「余計なことはせんでくれ。わしは大丈夫じゃ。出ていってくれ」
聞多は声を荒らげていた。
武子は少し驚いていたが、深呼吸をしてから言った。
「わかりました。出ていきます。もう参りません。これだけはお召し上がりください。召し上がられましたら、玄関に置いてください。受け取りに参ります」
言い終わると、武子はすっと立ち、出ていった。
武子の一連の動きに、聞多は何も言えず、閉められた襖を呆然と見ていた。言ってはいけないことを言ってしまった自分が情けなかった。よろよろと起き上がり、武子のおいていった粥をすすった。優しい味は染み渡り、体と心を癒やしてくれた。これでしっかり寝られそうだ。ボォっとした頭のままで、明日は礼を言わないといけないと心に言い聞かせた。
翌朝、聞多は昨夜の器を持って本宅の台所に行った。皆の朝食が終わったところで、一息ついていた武子に声をかけた。
「たけさん、昨夜のこと済まなかった。粥はとても美味かった、ありがとう」
「このようにお持ちいただかなくとも。いえ、昨夜のことは私も言い過ぎました。申し訳ございません」
「わびるのはわしのほうじゃ。そうじゃ、デートなるものをしよう」
聞多は武子の顔を見て、はっきりと言った。デートつまり逢引、二人きりで合いたいと申し出たのだ。
「デートですか」
聞き慣れない言葉に、武子は戸惑っていた。デートなるものとはと、首を傾げていた。目をきょときょととさせていた武子が愛らしく、聞多は顔をほころばせていた。
「昼過ぎに外出をするんじゃ。話したいこともあるし。周りのものに内緒でな」
「分かりました」
人の目を忍んで、聞多と武子は別々に家を出た。
今回は浅草に向けて人力車に乗った。目的地は天ぷら屋だった。
「たいへん美味しいものですね」
その様子を見て、聞多も嬉しくなり、気も大きくなった。
「そうじゃろ」
「それで、私にお話とは」
「あぁその、一通り終わってからじゃ」
一通り食事が終わったところで、聞多が切り出した。
「それで、話じゃな」
「はい」
「武子さん、わしの妻になってくれんか」
「えっ。すいません、もう一度」
「たけさんを妻として欲しい。わしの一目惚れからじゃし、嫌ならはっきり言ってくれ。もっともわしには子もおるし、母上は病がちじゃし、家のこともあるからの」
別段驚いた風もなく、落ち着いた声で武子が答えた。
「分かりました。お受けします」
あまりにもあっさりとしたが、答えを聞いた聞多は驚いて言った。
「本当か」
「はい。井上様と共に生きてみたいと思います。お家のことはすこし大隈様からお聞きしておりますし。大丈夫です」
武子が微笑んで言ったので、聞多にも張りが出てきた。
「病んだ時は弱気になると言われるが、わしはたけさんが必要なんじゃ、と思い知らされた。とてもうれしいの」
二人は屋敷に戻ると、大隈夫妻を前に結婚することを決めたと、はっきりと言った。大隈は聞多の決心が、どれほどのものかわからなかったし戸惑っていたので、伊藤夫妻を呼びに行かせた。聞多と武子とそれぞれの気持ちの具合を、男性同士・女性同士で確認させるのが良いと思ったのだ。
「聞多、武子さんと結婚するのは本当か」
まず博文が口火を切った。
「本当じゃ。武子さんに求婚して、受けてもらったんじゃ」
「それは目出たい。じゃが、僕は君がどこまで本気なのか疑問じゃ」
「そうだ、井上。武子さんはれっきとした旗本の息女である。それだけの心構えがあるのか」
「どれだけ、先のことまでかはわからん。でも、わしはたけさんとやっていく」
「もっとも、武子さんが聞多の茶屋遊びに呆れ果てることもあるから」
「そうだ、梅さんに話ば聞いて、やむっというかもしれん」
「はぁ、わしはそねーに信用ないのか」
「おなごに関してはの」
と博文が言うと、大隈が思い立ったらしく大きな声で言った。
「それじゃ婚礼をしよう。吾輩が仲人をするのである」
「聞多の気が変わる前に、同士連中でも集めてやりましょう」
「わかった。おぬしらの良い通りにせいよ」
「あっ、そうじゃ。中井のことはどうなんじゃ、聞多」
「中井とは何もなかったと言っておった。あちらも妻子を持ったことじゃし」
「そうであるな。ここまでなにもないのだ」
そんなことを言い合っていると、綾子の声がして、梅子、武子と連れだって入ってきた。
「旦那様方、武子さんは井上様と夫婦になるというお気持ちは変わりませんでしたよ」
綾子がそう言うと、梅子も継いでいった。
「井上様の道楽ぶりもしっかりお伝えしました。殿方もこうして何かとお集まりになるのですから、私達も集まりましょうと」
「綾子さん、梅子さんこれからもよろしくお願いします。大隈様も伊藤様もありがとうございます」
武子が聞多の目を見て微笑むと、その場にいた一同に挨拶をした。
「聞多、これは僕らも心していかないと、いけないことになったね」
「吾輩もおぬしらと一緒か」
大隈は聞多と伊藤と一緒にされるのは、たまらないとばかりにため息をついた。
いつになっても起きてこない聞多を心配して、昼頃に武子が粥や握り飯を持って様子を見に来た。
「武子です。お食事をお持ちしました」
上がってくる足跡が聞こえた。慌てて枕元の書類をまとめて布団の下に入れた。声を聞いて少し熱が上がった気がした。
「失礼します」
その声と同時に襖が開いて、武子が入ってきた。聞多は思わず寝返りをうって背中を向けていた。
「井上様、お加減はいかがですか」
そう言うと武子は手を伸ばして聞多の額に手を当てた。聞多は思わず手を払っていた。
「余計なことはせんでくれ。わしは大丈夫じゃ。出ていってくれ」
聞多は声を荒らげていた。
武子は少し驚いていたが、深呼吸をしてから言った。
「わかりました。出ていきます。もう参りません。これだけはお召し上がりください。召し上がられましたら、玄関に置いてください。受け取りに参ります」
言い終わると、武子はすっと立ち、出ていった。
武子の一連の動きに、聞多は何も言えず、閉められた襖を呆然と見ていた。言ってはいけないことを言ってしまった自分が情けなかった。よろよろと起き上がり、武子のおいていった粥をすすった。優しい味は染み渡り、体と心を癒やしてくれた。これでしっかり寝られそうだ。ボォっとした頭のままで、明日は礼を言わないといけないと心に言い聞かせた。
翌朝、聞多は昨夜の器を持って本宅の台所に行った。皆の朝食が終わったところで、一息ついていた武子に声をかけた。
「たけさん、昨夜のこと済まなかった。粥はとても美味かった、ありがとう」
「このようにお持ちいただかなくとも。いえ、昨夜のことは私も言い過ぎました。申し訳ございません」
「わびるのはわしのほうじゃ。そうじゃ、デートなるものをしよう」
聞多は武子の顔を見て、はっきりと言った。デートつまり逢引、二人きりで合いたいと申し出たのだ。
「デートですか」
聞き慣れない言葉に、武子は戸惑っていた。デートなるものとはと、首を傾げていた。目をきょときょととさせていた武子が愛らしく、聞多は顔をほころばせていた。
「昼過ぎに外出をするんじゃ。話したいこともあるし。周りのものに内緒でな」
「分かりました」
人の目を忍んで、聞多と武子は別々に家を出た。
今回は浅草に向けて人力車に乗った。目的地は天ぷら屋だった。
「たいへん美味しいものですね」
その様子を見て、聞多も嬉しくなり、気も大きくなった。
「そうじゃろ」
「それで、私にお話とは」
「あぁその、一通り終わってからじゃ」
一通り食事が終わったところで、聞多が切り出した。
「それで、話じゃな」
「はい」
「武子さん、わしの妻になってくれんか」
「えっ。すいません、もう一度」
「たけさんを妻として欲しい。わしの一目惚れからじゃし、嫌ならはっきり言ってくれ。もっともわしには子もおるし、母上は病がちじゃし、家のこともあるからの」
別段驚いた風もなく、落ち着いた声で武子が答えた。
「分かりました。お受けします」
あまりにもあっさりとしたが、答えを聞いた聞多は驚いて言った。
「本当か」
「はい。井上様と共に生きてみたいと思います。お家のことはすこし大隈様からお聞きしておりますし。大丈夫です」
武子が微笑んで言ったので、聞多にも張りが出てきた。
「病んだ時は弱気になると言われるが、わしはたけさんが必要なんじゃ、と思い知らされた。とてもうれしいの」
二人は屋敷に戻ると、大隈夫妻を前に結婚することを決めたと、はっきりと言った。大隈は聞多の決心が、どれほどのものかわからなかったし戸惑っていたので、伊藤夫妻を呼びに行かせた。聞多と武子とそれぞれの気持ちの具合を、男性同士・女性同士で確認させるのが良いと思ったのだ。
「聞多、武子さんと結婚するのは本当か」
まず博文が口火を切った。
「本当じゃ。武子さんに求婚して、受けてもらったんじゃ」
「それは目出たい。じゃが、僕は君がどこまで本気なのか疑問じゃ」
「そうだ、井上。武子さんはれっきとした旗本の息女である。それだけの心構えがあるのか」
「どれだけ、先のことまでかはわからん。でも、わしはたけさんとやっていく」
「もっとも、武子さんが聞多の茶屋遊びに呆れ果てることもあるから」
「そうだ、梅さんに話ば聞いて、やむっというかもしれん」
「はぁ、わしはそねーに信用ないのか」
「おなごに関してはの」
と博文が言うと、大隈が思い立ったらしく大きな声で言った。
「それじゃ婚礼をしよう。吾輩が仲人をするのである」
「聞多の気が変わる前に、同士連中でも集めてやりましょう」
「わかった。おぬしらの良い通りにせいよ」
「あっ、そうじゃ。中井のことはどうなんじゃ、聞多」
「中井とは何もなかったと言っておった。あちらも妻子を持ったことじゃし」
「そうであるな。ここまでなにもないのだ」
そんなことを言い合っていると、綾子の声がして、梅子、武子と連れだって入ってきた。
「旦那様方、武子さんは井上様と夫婦になるというお気持ちは変わりませんでしたよ」
綾子がそう言うと、梅子も継いでいった。
「井上様の道楽ぶりもしっかりお伝えしました。殿方もこうして何かとお集まりになるのですから、私達も集まりましょうと」
「綾子さん、梅子さんこれからもよろしくお願いします。大隈様も伊藤様もありがとうございます」
武子が聞多の目を見て微笑むと、その場にいた一同に挨拶をした。
「聞多、これは僕らも心していかないと、いけないことになったね」
「吾輩もおぬしらと一緒か」
大隈は聞多と伊藤と一緒にされるのは、たまらないとばかりにため息をついた。
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