三度裏切られた私が、四度目で「離婚」を選ぶまで

狛犬

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第50話

 翌朝、田口が迎えに来ると、奈菜は当然のように後部座席へ回り込み、陸翔の隣に座った。

 昨日と同じ配置だった。

 陸翔は一瞬だけ視線を向けたが、何も言わなかった。

 仕事としての同行だ。そう自分に言い聞かせる。

 児童養護施設に到着すると、敷地内は思いのほか賑わっていた。

 中庭には色とりどりの屋台が並び、焼き菓子の甘い匂いと、焼きそばの湯気が混じり合っている。

 子どもたちの笑い声が、春の空気を軽やかに震わせていた。

 陸翔は主催者や顔なじみの取引先に挨拶をし、そのまま自然と輪の中心に立つ。

 企業の代表として、支援者として、求められる役割を淡々と果たす。

 気づけば、奈菜が隣に寄り添うように立っていた。

「これがお噂の奥様ですか?」

 取引先の一人が、冗談めかしてそう言った。

 陸翔は即座に否定しようと口を開きかける。

 だが、言葉が出ない。

「奥様が大変お美しい方で、牧田社長が溺愛されているのは有名ですからね」

 場が笑いに包まれる。

「そんな噂、恥ずかしいです」

 奈菜が控えめに笑いながら応じた。

 違う。

 そう言わなければならない。

 分かっているのに、声が出ない。

 喉が、ひどく乾いている。

 そのときだった。

 奈菜が、そっと陸翔のスーツの裾を引いた。

 小さな仕草。

 だが――

 その感触に、記憶が重なる。

 人混みの中で。

 呼ばれるときの、あの癖。

 思考より先に、身体が動いた。

 膝を折る。

 耳を寄せる。

 そして――

 自然に、腰へ手が回る。

 その瞬間。

 指先に触れた感触が、違うと告げた。

 細い。

 温度が違う。

 ——違う。

 頭の奥で、遅れて音が鳴る。

 ざわり、と。

 何かを拒むような、鋭い揺れ。

 視界が一瞬だけ歪む。

「社長」

 背後からの田口の声。

 現実が戻る。

 隣にいるのは、茜音ではない。

 奈菜だ。

 陸翔はすぐに手を離し、半歩距離を取った。

 呼吸が浅くなる。

 今、何をした。

 なぜ、同じように触れた。

 胸の奥がざわつく。

 だが、羽音はもう鳴っていない。

「社長、そろそろお時間です」

 田口の言葉に、陸翔は頷いた。

「水川さんは?」

「私、もう少しここにいてもいいですか?」

 奈菜は子どもたちの方を見ながら答えた。

「構わない」

 短く言い、陸翔は田口と車へ向かった。

 車に乗り込み、ドアが閉まる。

 その瞬間。

 ポケットの中で、スマートフォンが震えた。

 取り出す。

 表示された名前に、心臓が強く打つ。

 茜音。

『ごめんなさい。体調が悪くて、今日は行けそうにありません』

 短い文章。

 それだけなのに、息が詰まる。

 体調が悪い。

 その言葉が、胸の奥に引っかかる。

 さきほどの光景が、消えない。

 あの一瞬。

 触れた感触。

「……戻りますか」

 田口の声。

「……いや」

 短く答える。

 何かが、噛み合っていない。

 理由が分からない。

 それでも、どこかで確信している。

 何かが、決定的にずれている。

 車はそのままマンションへ向かった。

 部屋に戻ると、静けさが広がっていた。

 上着を脱ぐ。

 ネクタイを緩める。

 その手が、止まる。

 スマートフォンが震えた。

「……田口か」

『社長』

 声が低い。

「何だ」

『今日のチャリティーバザーですが……奥様がいらしていたとのことです』

 一瞬、理解が追いつかない。

「……何?」

『主催は義姉様のご実家です。奥様が会場にいらしたと、別の社員から報告がありました』

 血の気が引く。

「あそこに、いたのか」

『……はい』

 喉が乾く。

「それで、茜音は」

『途中で体調を崩されたようで、女性に支えられて帰られたと』

 沈黙。

 もし。

 あの瞬間を。

 見ていたとしたら。

 腰に手を回した、あの一瞬を。

 見ていたとしたら。

 ——いや。

 そこまで考えて、止まる。

 分からない。

 だが。

 胸の奥に沈んだものだけが、消えなかった。

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