僕は君の夢の中

またたび

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叶わない

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 雪が降りはじめていた。舞うように、ゆっくりと。何かに触れると恥ずかしそうに溶けて消えてしまう、真っ白いちいさな妖精。
 まだ誰も空からのお客様に気がつかない。だって仕方ない、今日は。クリスマスイブのお昼時、買い物客や、もらったばかりの成績表を気に留めながらも今夜を楽しみに下校する学生でごった返す駅前の商店街だ。みんな今夜の準備で忙がしい。早くも浮かれている若者たちが笑い声をあげる。洋菓子店の前ではサンタとトナカイが山積みのケーキを声を枯らして売っていた。
 彼女たちも、学校から最寄りの駅の前まで十分近くかけて歩いてきたところだ。雪がひとひら、三崎鈴音の形の良い鼻に舞い降りた。ほんのり冷たい。
「あっ」
 薄い灰色の空を見上げる。つられて、並んで歩いていた村上都希子も顔を上げて目を見開いた。
「わ、雪!」
 彼女が声を上げると、成績表の事で愚痴をこぼしていた倉橋里香も立ち止まった。
「ひゃ、本当だ!」
 マフラーをぐるぐる巻きつけた三人の高校生たちがそろって空を見上げている間に、妖精たちはそっと仲間を増やして降りてくる。今では通りの殆どの人がその姿に気づき歓声をあげている。
「きれい」
 うっとり、鈴音は呟いた。
「嘘みたい、イブに雪が降るなんて」
「積もるといいなあ、ロマンチックー!」
 都希子も里香も嬉しそうな声をあげる。
「ホワーイ、クリースマーウス」
 舌を巻き込むようにしておじさんみたいな声をつくり、里香が顔芸付きで歌った。向こうから腕を組んで歩いて来た大学生くらいのカップルが、すれ違いながらくすくす笑う。
「ちぇ、いいなあ」
 羨ましそうに見送って口を尖らせた。
「こっちなんか、こんなロマンチックなイブだっていうのに女だけなんだから」
「女だけで悪かったわね」
 背の高い都希子が上からじろりと睨む。そう言う彼女も実は本音は同じなのだけれど。今夜はこの三人で、都希子の家でクリスマスパーティを楽しむことになっていた。いつもの溜まり場だ。
「ウソウソ、女だけのほうが楽しいよ。さっきの人たちなんかきっと来年には別れてるんだから。それにひきかえあたしたちの友情は不滅だもんね」
 里香は都希子の腕をがっちり掴んでカッカッと笑った。
「調子のいい奴め」
「じゃあさ、今からいったん家帰って、ツッキーんちに再集合ね。いい? ねえ、こら鈴音」
 まだ空を仰いで雪に見とれていた鈴音は、里香の声に慌てて振り返った。さらさらの短い髪が揺れる。
「あ、ええと。ごめん、なに?」
 恥ずかしそうに笑って聞き直す。雪のような白い肌に大きくて澄んだ瞳が輝く。
「やっぱり聞いてない。支度でき次第、村上家ね」
 鈴音はわかったと指で丸をつくり、都希子に向き直る。
「わたし何か買って行くけど、何がいい?」
「いいよ、ご飯もケーキもママが用意してくれるから。手ぶらで来てよね」
「いつもありがと!」
 里香は調子良く喜ぶ。
「駄目よ、いつもお世話になってばかりで」
「いいんだって、ママそういうの好きなんだから。いっぱい乱入してくると思うけど許してやってよ」
「じゃあツキママの好きないちご買って行くから」
「わかったわかった。もう、いつも鈴音は気を使うね」
 都希子の母親は、娘の友達からツキママと呼ばれ親しまれている。鈴音たちが家に遊びに来るのを楽しみにしてくれている、賑やかなのが好きな気の若い人だ。それは鈴音もわかっているのだが、そんなに好意に甘えてばかりはいられない。なぜ里香は平気なのか不思議になる。
「あ、ツッキー。あたしシャンパン飲みたい」
「シャンパン!?」
 目を丸くして、鈴音は思わず大声をあげた。
「だってクリスマスだしさあ」
「そうだね。ポーンて、蓋飛ばしたいね!」
「駄目に決まってるでしょ」
 目を見開いたまま、鈴音は真面目な顔で二人に向き合った。
「だって、まだ高校生なんだから」
「ぶっ」
 二人は笑い出した。
「出た!」
「よっ! 学級委員!」
 からかわれて鈴音は顔を赤くした。肌が白い分目立ってしまう。
「高二っていったらもう大人みたいなもんよ」
「ううん、未成年なんだし、絶対に駄目」
 頑固に彼女は言い張った。
「じゃあ、あれね。ノンアルコールのやつ」
「そうそう、子供が飲むやつ。あれで気分だけ出そう」
 鈴音はいつもこうだ。「高校生なんだから」は鈴音の十八番だった。でも二人は決して嫌な訳ではない。きれいで頭の良い彼女は自慢の親友だ。こういう真面目なところも好きだし、優しくて純粋なところもいい。
「それともすずちゃんはミルクがいいでちゅかー?」
「ば、馬鹿にして」
 からかう里香に鈴音が赤い顔を向けた時だった。
 辺りがどよめいた。さっきまでの楽しげなざわめきではない。何かがやって来る。混み合った歩道は次第に不穏な空気に包まれていった。小さな悲鳴もあがっているようだ。
 不意に訪れた緊張感に、少女たちは口を噤んで振り返った。いっぱいに広がって歩いていた人たちが真ん中から割れて、道を開けはじめる。そして、彼は姿を現した。
「やだっ」
 見るなり、里香は鈴音にしがみついた。
 周囲を気にするでもなく歩く少年の服は泥で汚れていた。羽織ったジャンパーの袖が破れている。泥と血にまみれた顔は無表情で、眼だけがぎらぎらと暗い光を放っている。
 何気なく少年は顔を上げた。すぐ近くに女子高生たちが固まるようにして立っている。二人が警戒の表情を浮かべて後退りしたが、ひとりだけが真っすぐに彼を見つめ返した。驚いたように彼は足を止めた。魔法にかかったみたいにぴたりと。
 魔法にかかっていたのは鈴音も同じだった。傷だらけの少年から目を逸らすことができずにいた。さらに足も勝手に動かされてゆく。
「あ、鈴音。鈴音ってば」
 小さな声で都希子が呼び止めたが、鈴音は少年に歩み寄る。何も考えてはいなかった。
「大丈夫?」
 ポケットからハンカチを取り出し、彼の口の端から流れている血を押さえた。彼は少し身体を震わせたが、抵抗せずおとなしく鈴音に顔を拭われていた。白いハンカチが汚れていく。
「どうしたの? こんな怪我して」
 もう一度鈴音は声をかけたが、今度も彼は答えなかった。ただ黙って鈴音を見つめるだけだった。けれどひたすら彼女に向けられるその眼には、現れた時のような暗い光はなかった。
 返事もしてくれない。お節介だっただろうかと、急に鈴音は心配になった。知らない少年だし、助けを求められた訳でもない。何よりも怖いはずだった。こんな風に喧嘩して怪我をした人を見るのは初めてだった。けれど不思議なことに少しも怖くないのだ。ただ少し、息が苦しい。
 本降りになってきた雪が、ふたりの間にもはらはら舞い落ちていた。見つめ合うふたりの瞳の中に。
「あっ思い出した!」
 突然、里香が大声をあげた。
「鈴音、駄目、戻って来て! その子、一年の綾原だよ!」
「え?」
 思わず振り返る。アヤハラ。聞いたことがあるが、誰だったろうか。でもとにかく同じ高校の後輩らしい。
「関わらないで。鈴音、早くこっち来て」
 里香が必死に手招きした。緊張した顔で都希子も頷いている。
「で、でも」
 彼がどんな風に有名なのか思い出せないし、こんなに怪我をしてるのだ。友人たちに困ったような笑顔を見せてから少年の方に向き直る。そして鈴音は息をのんだ。
 彼の顔つきが変わっていた。怖い顔。元通りの暗くぎらぎらした眼。
「あいつらの言う通りだ。俺に構うな」
 初めて彼は口を開いた。苛立たしげに鈴音を睨みつけ、言葉を絞り出す。
「えっ?」
 なぜ彼が急に怖い顔でこんなことを言うのか、鈴音にはわからなかった。さっきまではこんな怖い眼を自分に向けたりしていなかった。ハンカチを握り締めた右手で動揺する胸を抑える。
 でも同じ高校の生徒だと知って、このまま放っておくわけにいかないのだ。病院に連れて行くとか、家まで送って行くとかしなければ。思い切って、鈴音は少年の腕をとった。
「あのね」
 だが乱暴に、その手は振り払われた。握っていたハンカチが地面に落ちる。
 ハッとしたように一瞬彼はそれに目を向けたが、すぐに怒ったように足を踏み出した。鈴音の横をすり抜け、そのまま走り出す。遠巻きに見ていた野次馬たちが慌てて道をあけると、少年は真っすぐにその中に飛び込んでいった。また人混みにのまれ、彼の姿はすぐ見えなくなってしまった。
「鈴音っ!」
 心配そうに二人が駆け寄って来る。それが合図だったかのように通りを行く人々はまた動き出し、すぐに街は元の賑やかさを取り戻していった。何もなかったみたいにクリスマスソングは楽しげに響く。
「もう、馬鹿なんだから。あんなの放っておけば良かったのに」
「大丈夫?」
 返事もできず、鈴音は足元に落ちているハンカチを見ていた。都希子が代わりに拾い上げる。それを受け取って、ようやく自分の鼓動がひどく激しくなっていることに彼女は気づいた。

 その夜の鈴音は何をするにも上の空だった。楽しみにしていたクリスマス、しかも雪が降ったロマンチックなイブなのに。その雪も、日が落ちる頃にはすでに止んでいた。
「なあーによ、鈴音。元気ないなあ」
 口をもぐもぐさせながら、里香が寄りかかってきた。図々しい里香のリクエストにより、ピザやから揚げなどが用意されていた。母親の趣味で基本的にはお洒落な家だが、都希子の部屋だけ無愛想な感じだ。だが妹と共同の部屋を使っている里香はその広さが羨ましかった。
「まだあの子のこと考えてるんでしょ」
 都希子がぐっと顔を近づけて言った。
「え、ううん、別にそんなんじゃないよ」
 慌てて首を振って否定してみたものの。考えているというより、頭から離れない。訳のわからない事だらけだった。
「でも、噂って本当だったんだねー。びっくりしちゃった」
 里香がちょっと興奮気味に言う。
 お金持ちの家の不良少年。何か問題を起こしても、親がお金で黙らせる。ろくに学校にも行かず、街でチンピラと喧嘩三昧。というのが、綾原という少年の噂だった。
 その噂自体、生徒たちもあまり表立って口にしないし、教師たちも敢えて関わらない。このまま何事もなく穏便に時が過ぎてゆけばいいのだ。なので、名前だけ知っているという学生が多い。
「早く、あんな奴のことは忘れちゃおう! ね、鈴音。あたしも、成績表見せてオカンに怒られた事なんか忘れちゃおう!」
 里香はグラスにジュースを注ぎ、カンパーイ! と叫んだ。そして、急に心配そうに鈴音の顔を覗き込む。
「ていうか、鈴音さあ、まさかあいつに気があるんじゃないよね?」
「えっ?」
 どきんと心臓が跳ねた。目をまん丸にして口をパクパクさせる。言葉が出てこない。
「馬鹿じゃないの、里香。鈴音があんなの好きになると思う? 鈴音はね、さっき説教できなかった事を悔やんでるんだよ。高校生なんだからこんな事してちゃ駄目よ、てさ」
 都希子が物真似をして里香が笑い転げる。
「冗談だよ、やだなあ。だいたい年下なんてまず駄目だし。鈴音にはもっと大人の、有名大学の学生じゃないと」
「そうだよ、それくらいじゃないと話にならないよ」
 笑いながら言ってはいるが、これは本心だ。真面目な性格のせいか、鈴音は男子から敬遠されがちだ。変な男の子に引っかかる心配がないからそれはそれでいいと思っている。いつか鈴音に相応しい王子様のような人が必ず現れるのだから。それまで二人で大事に守ろうと決めていた。だから鈴音を傷つけそうなものは近づけたくない。例えば綾原、あの男のような。
「あたしの場合だったら、別にかっこ良ければいいんだけどね」
 腕組みをして言う里香に、都希子は呆れたような顔を向けた。
「へえ。じゃあこの間まで付き合ってたあのゴリラみたいな男、あれがかっこいいの?」
「だ、だから別れたじゃない」
 慌てて里香は言い訳する。
「フラれただけなんでしょ」
「ひどい、ツッキーの馬鹿! ねえ鈴音、ひどいんだよ。でもあたし知ってるんだ。ツッキーなんかね、一年のとき剣道部の三年に告白して、断られたんだから」
「えっ本当?」
 母親がサンドイッチを乗せた皿を手に部屋に入り込んでいた。都希子はぎょっとして里香を押さえ込もうとする。
「馬鹿、言うな!」
「変な角刈りの、怪獣みたいな顔した奴。そんな奴にね、こんな図体のでかい女は嫌だって断られたんだよ」
「言うなって!」
 里香は遠慮なしにゲラゲラ笑う。
「あんたも、もっと可愛くしないとね」
「ママも、もういいから!」
 一緒になって笑う母親を追い出し、都希子はクッションを投げつける。バタン、と音をたてて里香が床を転がる。都希子が悪役レスラーのように見えた。こんなに騒いだら家の人に迷惑でしょ、といつもなら鈴音が止めに入るところだ。けれど今日の鈴音は他の事に心を支配されている。
 気があるんじゃないよね? さっきの里香の言葉が気になって仕方なかった。窓に映った自分と目が合い、どきりとする。
 まさか。違う、そんなんじゃないはずだ。そういう事ではきっとない。ちょっと心配なだけなのだ。でも。
 頭から離れない。彼の顔。血で汚れた顔。ぎらぎらした暗い瞳。そして。
 鈴音は胸を詰まらせた。
 そして、ほんの少しの間見せた、優しい表情。

 三学期が始まって五日目になっていた。一年四組の教室は、日が経つにつれ異様な空気に包まれていった。表面上は殆ど変化はない。生徒たちは皆いつもとかわらず過ごそうとしていたし、何も気にしてないふりを装っていたのだが、緊張感はずっと続いている。
 神経は一点に注がれていた。なるべく見ないようにしつつ、気づかれないようにさり気なく、常に様子を窺う。普段なら誰も座っていない席、窓際のいちばん後ろの席の男を。
 綾原尉知イチが五日も続けて学校に出て来ることなど今まで一度もなかった。
 一言も喋らず、ただじっと自分の席に座り、窓の外を眺め、時々校内を歩き回る。いつものパターンだとフラリと席を立ったが最後、もうその日は教室に帰ってくる事はないのだが、ここ数日はなぜか戻って来る。授業の始まりに教室に入ってくる教師がいちいち無言で驚く。それを観察して生徒は少し面白がる。が、笑えない。
 自分のこの行動でまわりが混乱していることは尉知にもわかっていた。こうなる事など最初から承知の上だし、どうでもいい事だ。
 三崎鈴音。何日か学校に通うと、彼女のことはだいたい耳に入った。
 二年一組、学級委員長。真面目で成績優秀。教師たちの信用も厚く、優しく人気のある生徒。つまり、自分とは正反対だということ。
 彼女のことを知らない者など、自分以外にはいないだろうと尉知は思う。自分だってもし一度でも彼女に気がついていれば、忘れるはずがない。その証拠に彼はあの雪の日以来、彼女の事ばかり考えていた。喧嘩して、誰もが避けて行くような姿の自分に平気で近づいてきた彼女。
 雪の精、だと思った。澄んだ瞳。汚れのない、曇りのない大きな瞳。初めてだった、恐怖も嫌悪も憐れみも好奇の色も浮かんでいなかったのだ。驚いて動けなかった。
 もう一度会いたい。そればかり思うようになってしまった。けれど。
 腕組みをして前を見つめたまま、尉知は大きなため息をついた。苦しげな、苛立たしげなため息。近くの席の生徒が一斉にビクッとする。
 会ってどうなるのか。きっと彼女も少しでも関わってしまった事を、今では後悔しているだろうと尉知は思った。真面目で優しいから、怪我をした自分を放っておけずに近づいてしまったに違いない。何者か知らずに。でも今はもう知っているのだ。
 気まぐれに学校へ行く事もあったが、怖い目つきと悪い噂で、いるだけで彼は恐れられていた。自分からもめ事をおこす気力など無く、だから学校で問題をおこす事はなかった。この目つき故にたまに外でガラの悪い連中に絡まれて暴力沙汰になるというだけだ。実はそれほど頻繁に事件をおこしている訳ではないのだが、噂では年がら年中ということになっている。
 あの時、彼女の友達が自分のことを思い出したりしなかったら。と、意味のない期待にすがりかける時があった。馬鹿馬鹿しい、結果は同じだと尉知は自分に言いきかせる。彼女が優しくしてくれる時間が長ければそれだけ、後でつらい思いをするのだ。
 深入りしてはいけない。傷つきたくなかったら近づいてはいけない。自分と彼女は違いすぎる。早く忘れてしまうことだ。でも。
 尉知は制服の内ポケットを外から手で確認する。ちいさなリボン付きの袋に入ったハンカチだ。女性用の花模様のハンカチ。五日間ポケットに入っていたため、綺麗だった紙の袋はくしゃくしゃになってしまっている。
 雪の中、地面に落ちた彼女のハンカチ。自分の血が汚した白いハンカチ。胸が痛んだ。初めて、人に対して悪いことをしたと思った。だからそのお詫びをしたかった。店に入った時、恥ずかしいという感情を知った。店員にすすめられるまま、いいか悪いかもわからず決めて、逃げるようにして帰ってきたのだ。冬だというのに汗までかいて。
 しかし、果たして渡せるのだろうかと尉知は思う。自分にそんな事ができるだろうか。怖くて、もう五日も何もできずにいる。遠くから隠れるように彼女を見ることしかできない。こんな物を渡す勇気などどこにあるのだろう。今度会ったら彼女はそのとき、口もきいてくれないかも知れないのに。
 いや、違うのだ。自分は彼女の好意を踏みにじったうえに、彼女のハンカチを一枚駄目にした。だからこれを渡して詫びる。それだけの事だ。そうして終わりにすればいい。彼女にどんな目で見られようと。
 何も望んではならない。
 綾原尉知は裕福な家庭に育った。両親ともに事業家で、お金に関しては不自由なく、欲しいものはすぐ買い与えられた。息子が可愛いからではなく、そのほうが面倒でなかったからだ。
 家庭に愛情はなかった。父と母は尉知の誕生を後悔していた。言い争うのを彼は聞いている。
 中学生になる頃には、尉知は家にひとり取り残された。食事の世話などは全て雇われた家政婦がしていた。両親はそれぞれ別にマンションを持ちほとんどをそこで生活し、時々しか家に帰ってこない。そこで他の人と暮らしているのかも知れないが、尉知にはわからない。
 彼にわかっていたのは、二人が離婚できないいちばんの理由が自分の存在だということだった。どちらも自分を引き取りたくないのだ。息子を押し付け合って、別れられないでいる。そう考えると、自分が生きていることこそ、いちばんの彼らへの嫌がらせではないだろうか。自分はそれだけしていたらいいのだ。
 笑うことも無くなり、口も心も閉ざした少年は、次第に眼にだけ悪意を宿し暗く鋭い光を放つようになっていった。その眼によって周囲を拒絶する。
 何もいらない。感じることなどもう何もない。そう思っていた。それが彼女に出会うことによって、何年分もの感情が一気に押し寄せたようだった。

「綾原くん?」
 ためらいがちに呼ぶ声がした。誰の声なのか彼にはすぐわかった。頭から離れないあの声だ。
 鼓動が倍速になったと勘違いする。彼女の声だとわかったが、確かに彼女がそこにいて自分を呼んだのかどうかはわからない。もしかしたら空耳かも知れない。深呼吸をして、彼はゆっくり振り返った。
 彼女は本を抱えて図書室から出て来たところだった。廊下には他に人影はない。
「あの、こんにちは」
 じっと見つめ返すだけで何も言ってはくれない尉知を前にして、鈴音は自分の行動に戸惑っていた。彼の姿が目に入ったとたん、思わず声をかけてしまったのだ。どうしてだろう。どうしたらいいだろう。何を話したらいいかもわからない。
 やめておけば良かっただろうか。この間、構うなと言われたはずだ。彼はすごく怒っていたではないか。
「あの、怪我の具合は? もう大丈夫なの?」
 けれどこんなお節介なことを言ってしまう。気を悪くしたかと心配になったが、彼は素直にこくりと頷いた。
「そう、良かった」
 怪我が大丈夫なのも良かったが、彼が反応してくれたのも良かった。ほっとして鈴音は笑顔になる。少し心が落ち着き、改めて彼を見る事ができた。今の彼はとても優しそうだ。
 彼女の笑顔が眩しくて、尉知はとうとう下を向いた。自分の胸辺りが目に入り、やっと思い出す。これを渡すために何日もウロウロしていたのではないか。決心したように彼は制服の内ポケットに手を入れた。
「あの、わたしね、二年一組の」
 自己紹介をしかけて鈴音は口を噤んだ。尉知がいきなり近づいて来たからだ。取り乱して、抱えていた本を三冊とも落としてしまった。
 尉知は素早くかがんで、散らばった本を拾う。難しそうな本だ。こんな事でもなければ触る事もなかっただろう本を拾い集め、その上に例の物を勇気を振り絞って乗せる。立ち上がり、黙って鈴音に差し出した。
「ごめんなさい、ありがとう。あら?」
 受け取った本の上に、くしゃくしゃの、でも綺麗な模様の包みが乗っていた。リボンがついている。
「こ、この前、あの」
 尉知は視線を逸らして口ごもった。いろんな台詞をあれこれ思い浮かべて探す。
「やるよ」
 結局いい言葉が見つからず、ぶっきらぼうにそれだけ言った。
「くれるの? わたしに?」
 驚いて尉知の視線を追ったが、彼は避けるように横を向いてしまった。怒っているのかと思ったが、よく見たら頬も耳も赤くなっている。ただ照れているだけなのだと鈴音は気づいた。胸が熱くなる。
「嬉しい。ありがとう綾原くん」
 中身は見ていないが本当に嬉しかった。この前のことを、彼は気にしてくれていたのだ。わたしに謝ろうとしてくれていたのだ。
 尉知はそっと視線を戻す。緊張が少しほぐれ、彼も頬を緩めかけた。その時。
「鈴音!」
 叫ぶような声に鈴音が振り返ると、都希子と里香が立っていた。二人は廊下を曲がったとたんこの光景に出くわし驚いていた。血相を変えて里香が走り寄り、鈴音の腕をつかむ。
「鈴音、大丈夫?」
「え、何が?」
 すぐには事態がのみ込めなかった。騒ぎを聞きつけて来た教師が、
「あ、綾原?」
 と、ぎくりと身構えるのを見て、やっと鈴音は理解する。
「違うの」
 みんなは何も知らないのだ。
「あのね、里香。心配することないのよ」
 落ち着かせようとしたが、彼女は尉知から引き離すように鈴音の腕を必死に引っ張る。もらったばかりの贈り物が、本の上から滑り落ちた。
「だからやめとけば良かったのに、変な同情心おこすからこんな子に目をつけられるんだからね」
「里香ったらやめてよ、そんなんじゃないの。ちゃんと聞いて、今ね」
「うるせえな!」
 しん、と廊下は静まり返った。突然大声で怒鳴った尉知を、鈴音は急いで振り向く。そして、恐れていた事が起きたのだと知る。
 彼はまた、暗く荒んだ眼で鈴音を睨んでいた。
 もう少し。あと少しで彼は心を開いてくれるかも知れなかったのに。
 絶望感に襲われ、鈴音は自分の気持ちに気づいた。どんなに彼に会いたかったか。冬休みの間も、本当はずっと尉知のことばかり考えていた。会えるのを願っていた。彼に心を開いてもらい、笑いかけてもらいたかったのだ。
 鈴音の瞳いっぱいに悲しみの色が浮かぶのを見て、尉知は背を向けた。まともに見ることはもうできなかった。自分が彼女を悲しませたのだ、せっかく声をかけてくれたのに。でも、仕方ないのだ。
 彼は駆け出した。この前のように、惨めな気持ちで。
「待って、綾原くん」
 呼び止めようとしたが、尉知は行ってしまった。声さえも拒んでいるような背中だった。
 彼の姿が見えなくなってしまうと、鈴音は唇を噛んで、床に落ちたくしゃくしゃの包みを拾い上げた。涙がこみ上げたが何とかそれを飲み込む。泣いてはいけない。
「鈴音、あんた」
 都希子が意外そうな、心配そうな顔を向けた。鈴音の気持ちに気がついたのだ。
「三崎、大丈夫か。何ともないか」
 教師が声をかけながら近付いた。一年四組の担任で、成田という数字の教師だ。鈴音は大きく息を吸って成田に向き直る。
「どういう意味ですか」
「つまり、何か、乱暴とか」
「どうして綾原くんがそんな事するんですか」
 鈴音は毅然と言い返した。
「先生は何か思い違いをしているようですが、わたしのほうから綾原くんに声をかけたんです。話があったので」
「鈴音、どうしてそんな事を」
「里香」
 不満げに口を開いた里香を都希子が押さえた。成田も戸惑ったが、気を取り直して咳払いをする。
「話って、どんな」
「言いたくありません」
「そ、そうか。まあ、それはそれでいい。だが、もうあいつには関わらないほうがいいな」
「どうして?」
 鈴音は激しく詰め寄った。
「どうしてですか? 何故そうやって、彼ばかり悪くなるんですか?」
 思いがけない反論に、成田は困ったような顔をする。
「どうやら綾原のことをあまり知らないようだな」
「知りません。でも先生だって全部知っている訳じゃないでしょう? それなのに何故そんなふうに決めつけるんですか!」
 生徒が集まりはじめていた。三崎鈴音が教師を相手に反抗したことなど今までなかったのだ。成田は頭を混乱させ、言うべき言葉がなかなか見つからない。
 成田が黙っていると、鈴音はサッと頭を下げた。
「失礼します」
 そう言って成田の脇を抜けて足早に歩き出す。見物していた生徒が慌てて道を開けた。
「鈴音」
 都希子と里香が追って来た。
「ごめんね、鈴音、鈴音」
 里香は必死に謝っていた。鈴音がこんなに怒るのを初めて見たのだ。どうしていいかわからず、オロオロする。
「あたし、鈴音があの子に絡まれてるのかと思って、だからあたし」
 鈴音は足を止めた。泣き出しそうな里香に無理に笑ってみせる。
「もう、気にしないで」
 胸がずきずき痛んだ。涙がこぼれそうだ。もう自分の気持ちを認めないわけにはいかない。
 わたしは綾原尉知が好きなのだ、と。

「ああ!」
 言葉にならない叫び声を上げ、空になったビールの缶を投げた。壁にぶつかり、フローリングの床を転がって、止まる。
 少し前から、尉知は時々酒を飲むようになっていた。親も家政婦も知ってはいるが何も言わない。特に酒が好きなわけではないが、少し気が楽になるような気がしていた。もちろん気のせいだった。今だって、少しも楽になどならない。
 空き缶の転がる床に、尉知は自分も転がった。彼がここ何日もこの部屋に閉じ籠っているせいで、家政婦は片付けられずにいた。この不気味な少年を怖がり、いつも彼が出かけた隙に掃除を済ませている。とは言え、こんなに感情的な様子は初めてで、少し心配になっていた。昨日帰宅した母親に報告したが、興味はなさそうだった。
 尉知は時計に目を向けた。五時間目の授業が終わるくらいだ。今ごろ三崎鈴音は教室にいるだろう。きちんと席に着いて、教科書を広げ、ノートをとり、熱心に話を聞いているだろう。明日も、これからも。
 だが俺は行かないのだ。明日になっても、あさってになっても、いつになっても。もうずっとここに閉じ籠っていよう。冷たい家の冷たい部屋に。そしてこのまま凍ってしまえばいいのに。死んでしまっても別に構わない。両親への嫌がらせなどもうどうでもいい。
 雨が激しくなってきていた。窓硝子を叩きつける音。雨の日は嫌いではなかったが、雪の日は嫌いになった。あの雪の日、彼女と出会ったりしなければ。彼女のあのきれいな瞳を見たりしなければ。そうしたら自分は何も感じることなく、何も傷つかずいられたのに。尉知は目を閉じた。
 初めからわかっていたはずだった。ちょっと一緒にいただけであの騒ぎだ。無理なのだ。ただの友達とかいうのにさえなれない。いや、なれるとでも思っていたのか。馬鹿馬鹿しい。
 鈴音。心の中で呟くと、彼女の白い花のような笑顔が瞼に浮かんだ。ありがとう、と言って笑ってくれたのだ。
 はっと目を開け、尉知は激しく頭を振った。駄目だ、彼女のことはもう考えるな。手元に転がっていた空き缶をまた壁に投げつける。
 苦しかった。忘れてしまいたいのに消えない。消えないのは、自分が彼女を求めているからだ。

「くしゅんっ」
 ちいさくくしゃみをして、鈴音はハンカチで鼻を押さえた。悪寒がする。何だか頭も重い。
「鈴音、風邪ひいた?」
 昼休み、三人でお弁当を食べている時だった。心配そうにのぞき込んでくる里香に、鈴音は手を振った。
「大したことないの。平気平気」
 そうは言ったものの、やはり風邪をひいてしまったようだ。
「でも」
 里香はまだ心配そうだ。風邪のことだけでなく、先週の綾原尉知との一件をまだ気にしていた。そして、彼に対する鈴音の気持ちを都希子から聞かされていた。
「ほら、鈴音きのう雨に濡れちゃったじゃない、だから」
 きのうの雨。そう、たぶんそのせいだ。きのうの帰り、靴箱のところで彼に似た後ろ姿を見つけて傘もささずに追いかけてしまったのだ。人違いと気づいた時にはずぶ濡れになっていた。よく見ればそれ程似ているわけでもなかった。都希子と里香には、その学生が落とし物をしたように見えたからと言い訳をしてみた。
「もう食べないの? 殆ど残してるじゃない」
 お弁当箱をしまおうとすると、都希子が心配して言う。
「あんまり、食べたくなくて」
「だってきのうもそうだったよ。ねえ、家ではちゃんと食べてるの?」
 鈴音は黙って下を向いた。あれからずっと食欲がなかった。都希子は箸を置いて鈴音の額に手を伸ばし、眉間にしわを寄せる。
「やっぱり。熱があるよ」
「えっ!」
里香が大声をあげた。
「うん、ちょっとだけ」
 眠れず、食欲もなく、その上きのうの雨だ。体調が悪くなるのも当然だった。
「わかってたら学校なんか来ちゃ駄目だよ」
「今日は早退したほうがいい」
 口々に言われたが、鈴音は帰りたくなかった。
「大丈夫よ、これくらい」
 彼のクラスに行き、今日も来ていないことは聞いていた。けれどこれから来るかも知れない。いつ彼が登校して来てもいいように、自分はここにいないといけない。ちゃんと話をしなければいけない。
「鈴音」
 決心したように、里香は鈴音の手を握った。
「大丈夫だよ、綾原が来たら、あたしが謝っておくから」
 驚いて鈴音は見つめ返す。自分の考えはばれていたのだ。
「だから、今日はもう無理しちゃ駄目。帰って、ゆっくり休んで、早く元気になって」
 里香は目に涙を溜めていた。鈴音の元気がなくなったのは自分のせいだとずっと思い詰めていたのだ。
「そうだよ、とりあえずちゃんと風邪治さなきゃ」
 都希子は鈴音の頭にポンと手を乗せた。
「それで、元気になったらみんなで考えよう、綾原に会える方法。それから、ちゃんと話ができるようにしよう」
「ツッキー」
 鈴音は顔を上げた。
「あの子に会って話をしないと、鈴音はなかなか笑顔を取り戻してくれないよね」
 そのあとどうなるかはわからない。けれどこのままでも駄目なのだから。他に方法は見つからない。大きなため息をついて、都希子は腕組みをして続けた。
「あたしたちはね、鈴音に好きな人ができたらいっぱい応援しようと思ってたんだよ。ずっと楽しみにしてたのに。なのに、よりによってあんな子だなんて。嫌だよ。でもこんな鈴音はもう見てられない」
 全然鈴音に相応しくない。応援なんてできないけれど。里香は勢いよく席を立つと、泣きながら鈴音の鞄に勝手に荷物をしまい始めた。
「さあ、ちゃんと帰って。鈴音が元気になったら、あたしが綾原に連絡をつける。あたしが会わせてあげるから」
 その間に都希子がコートを取ってきた。
「先生にはあたしが言っておくから大丈夫」
 鈴音にコートを着せ、肩をたたく。
「ただしちょっとでも鈴音にひどいことしたら、絶対に許さないんだから。そのときは鈴音にも諦めてもらうからね」
 二人は鈴音を廊下に連れ出し、階段まで見送った。
「少し元気出たでしょ? あたしたちがついてるんだから」
「ありがとうツッキー」
 本当に元気が出ていた。こんな事を言ってもらえると思わなかった。嬉しくて、勇気が出ていた。
「里香もありがとう。泣かないで、ね」
「うん。気をつけて帰ってね。あたし、家まで送っていこうかな」
「駄目駄目、あんたはサボりたいだけでしょ」
 いつもの二人に戻った気がして、鈴音は安心して学校を出た。

 尉知は何日ぶりかに部屋を出た。いつものように、意味もなくうろつき、公園でぼうっとする。そんな元気もなかったが、部屋に閉じ籠っていては彼女のことを考えてしまうばかりだと気づいた。もう耐えられない。
 誰にも愛されない悲しさから自分を守るために何年もかけて身に付けた鎧も、鈴音によってあっけなく剥がされてしまっていた。
 駅に行って適当に電車に乗り、そして適当な駅で降りるのだ。彼は何も考えないように、流れる景色をぼんやり眺める。しかし降りたのは学校のある駅だった。気がついた時はもう改札を抜けていた。先週毎日通ったせいで、癖付いてしまったのだろうか。いや、そんなはずはない。
 彼はぎこちなく足を進め、バス乗り場を抜け、大通りの歩道で立ち止まる。ここだ。雪の日、彼女と出会ったのは。だからここに来てしまったに違いない。部屋にいても、外にいても、結局彼女のことを考えている。もう駄目だ。ため息をつき、歩道に植えられた木にもたれ掛かった。
 しかしこのままここにいる訳にはいかない。まだ授業が終わる時間ではないから彼女に会う心配はないが、早く離れておかないと。彼女を待ってしまうかも知れない自分も怖かった。
 駅に戻ろうとしたとき、近くで足音を聞いた。視線を感じて顔を上げ、幻覚を見たかと驚く。鈴音がいたのだ。
「信じられない、遠くから見えて、綾原くんじゃないかなと思って、走って来たの」
 走ったせいで、息が苦しい。汗が流れる。急に具合が悪くなったようだ。頭がぐらぐらする。けれど奇跡がおきたのだ。彼に会えた喜びで、ふらふらと鈴音は近づいた。
「この間は、ごめんなさい」
 尉知は慌てて背を向けた。もう彼女を見てはいけない。彼女の声を聞いてはいけない。苦しそうな顔や声が気になったが、無理に足を動かした。
「わたしの友達が失礼なことを言ってしまって。でも彼女、ただ勘違いしていて」
 彼は振り返らず、通りを渡る。鈴音は力を振り絞って尉知の背中を追った。吹き付ける風が、流れた汗のせいで余計に冷たく感じた。
 後ろで車のタイヤが鳴り、鈴音の声は途切れた。尉知は思わず振り返る。タクシーから運転手が飛び出して、座り込んでいる鈴音に大丈夫かと声をかけた。
「おい!」
 驚いて尉知は駆け寄った。
「何やってんだ、大丈夫かよ!」
「ああ、ぶつかってないから大丈夫。たぶん怪我もしてないと思うけど」
 運転手が尉知に言った。
「ふらふら飛び出してきたけど、この子、具合が悪いんじゃないか? あんたもしっかり見ててやらないと駄目だな」
 車に乗るかと言う運転手に尉知は首を横に振って断った。
「よかった、わたし、謝りたくて」
 尉知が戻って来た事に鈴音は安心して微笑んだ。
「何言ってんだよ、しっかりしろよ」
 仕方なく、座り込んだままの彼女を抱きかかえる。
「あっ」
 ぐったりしたその体が熱いのに気がつき、鈴音の顔をのぞき込む。汗が流れていた。
「熱がある」
 心配そうな尉知の声を聞き、鈴音の意識は遠のいていった。車に戻ろうとしていた運転手に尉知は叫ぶ。
「やっぱり乗せてくれ」
「そう言うと思った」
 運転手は待ってましたというように頷き、ドアを開けた。

 暖かい。さっきまであんなに寒かったのに。冷たい風はどこかへ行ってしまった。誰かが追い払ってくれたのだ。こうして誰かが手を握っていてくれる。
 鈴音はぼんやり目覚めかけていた。瞳にもやもやと人の顔が浮かんでくる。知っている顔だ。いつも心の中で思い浮かべている誰かの顔だ。誰かの。
 輪郭がはっきりしてくる。同時に意識もはっきりしてきた。そうだ、彼に会えたのだった。
 全てのピントが合った。心配そうな尉知の顔が鈴音の瞳にくっきり映る。目覚めたのを知って、彼は安堵のため息をついた。
「あの」
 ふかふかのベッドに鈴音は寝かされていた。視線を泳がせると、白と黒だけにまとめられた少し殺風景な部屋だった。
「ここは、あなたのお家?」
「そうだよ」
 優しい顔で尉知は頷く。彼女を連れて帰ってくると、部屋はもう片づけられていた。いつもは嫌いなこの部屋も、鈴音が一緒にいるだけで、なぜか居心地のよい空気に満たされているような気がした。
「ごめんなさい、迷惑かけちゃって」
 夕方になっていた。何時間も眠り続け、鈴音の具合はだいぶ良くなっていた。熱も下がっているようだが、まだ白い頬をピンクに染めている。美しい花のようで、尉知は眩しそうに目を細める。
 彼はずっと鈴音のそばにいた。彼女の手を握って。彼女の温もりを感じて。長い時間、それは少しも苦ではなく、とても静かな気持ちでいられた。彼女の寝顔を見守り続け、それまでの苛立ちや苦しさが嘘みたいに消えて。
 また傷つく。彼女に近づいた分、あとでまた自分が傷つくのだとわかっていても。
「起き上がってもいい?」
「あっ」
 自分がまだ鈴音の手を握ったままなのにようやく気づき、慌てて尉知は手を離した。ごまかすように大袈裟に、体を起こした彼女の布団を直す。
「だ、駄目じゃねえか、病気なのに出歩いたりして。さっきみたいに倒れたらどうするんだよ」
 言いながら驚いていた。本当に自分の口から出た言葉なのか信じられなかった。
「ごめんなさい。だけど、あなたに会って謝りたかったんだもの」
 鈴音は訴えかけるように彼をのぞき込む。
「あなたを傷つけたままでいたくなかったの」
 自分を見上げる真剣な眼差しに尉知は戸惑う。
「へ、変な人だな。俺があんな事くらいで傷つくわけないだろ」
 胸が熱くなり、視線を逸らしてしまう。悟られないようにわざと強がってみせる。
「そんな呑気なこと言ってないで少し自分の心配しろよ。あんた今こんなところで俺とふたりきりなんだから。怖くないのかよ?」
 悪ぶって言ってみる。なぜこんな卑屈になってしまうのだろうと情けない気分になった。
「怖いなんて、どうして? わたしのこと助けてくれたのに」
 不思議そうな顔を向けられ、尉知は間抜けなことを言ってしまったと恥ずかしくなる。そうだ、何言ってるんだ。
 自分らしくない事をしたのはわかっている。家政婦も、見たことのない彼の姿を見て驚いていた。いつも無気力で暗い目をしている少年が、病気で倒れた女の子を抱えて帰ってきて、どうしたらいいかと頼ってきたのだ。薬を飲ませるのを手伝い、水やタオルを用意してあげてからは、彼が大事そうにつきっきりで看病した。
「あなたのおかげで、すっかり良くなったみたい。ありがとう、やっぱり綾原くんて優しいのね」
 嬉しそうに鈴音は笑顔を向ける。
「ば、馬鹿なこと言うなよ。そんなはずないだろ」
「わたしを助けてくれたんだから、優しい人よ」
「だから、違うって。優しいとかじゃなくて、俺にとってあんたが特別なだけだ」
「え…」
 心臓が大きく鳴って、鈴音は息をのむ。自分の言葉に気がついて、尉知も慌てた。
「あ、いや、ごめん、つまり」
 大変な事を言ってしまった。彼は焦って背を向けた。脈を打つ音が急に大きく聞こえる。取り返しのつかない沈黙が訪れた。背中に感じる彼女の存在が胸を締めつける。
 知られてしまったに違いない。
 いっそのこと想いを打ち明けてしまおうかと尉知は考えた。けれどその考えをすぐに打ち消す。そんな事をして、全てを壊してしまわなくても良いではないか。どんなに不自然でも、今はなんとかごまかしてしまったほうが。そうしたら彼女は返事をしなくて済む。
 彼女の答えは聞きたくない。聞かなくてもわかっていることを彼女の口から直接聞きたくはない。
 尉知は怖いのだ。叶わない夢だとわかっていても、それすら失ってしまうのが。けれど息が苦しい。全てを吐き出してしまいたい。交互に気持ちが揺れ動く。
「あんたは特別だから」
 とうとう、抑えきれない思いが彼の口を動かした。言うつもりなどない。言ってはいけないのに。
「ずっと、会いたいと思ってた。初めて会った時から、本当はずっと会いたかったんだ。好き、なんだ」
 言ってしまってから尉知はがっくりと肩を落とした。一瞬で後悔が全身にのしかかり、彼女を振り返る勇気もない。
「綾原くん」
 鈴音が口を開く。彼は耳を塞ごうとした。ところが聞こえてきたのは思いがけない言葉だった。
「わたし、わたしも、あなたが好き」
 消え入りそうな声だったが、聞いたとたん、尉知の頭は動きを止めてしまった。何も考えられない。体も動かないし、瞬きもできない。息もできない。しばらくしてやっと彼は驚いたように振り返った。
「へ?」
 間の抜けた顔で間の抜けた声を出す。
 鈴音は恥ずかしそうに下を向いていたが、ゆっくり顔を上げた。頬を赤く染めている。
「なに言ってるんだ? 熱で頭がおかしくなったんじゃないのか?」
「え?」
 尉知の言葉に鈴音は胸をきゅっと掴まれたように苦しくなった。からかわれたのだと思った。冗談を真に受けてしまったのだ。悲しくて恥ずかしくて、涙が出そうになってしまった。
「ひどい、綾原くん。でも」
 鈴音は声を詰まらせた。それでも目を逸らさずに堪えた。
「でもいい、気持ちを伝えられただけで。隠すつもりなんてなかったんだから」
「き、気持ちって」
 もちろん尉知はからかったのではない。本当に彼女がおかしくなったと思ったのだ。だってあり得ない事を言ったじゃないか。それとも聞き間違いか。いいや、ちゃんと聞いたのだ。だったら、そうか、嘘だ。
「嘘か。なんだ、嘘なんだ」
「わたし嘘なんか言わないわよ。嘘ついたのはあなたじゃないの」
 からかわれたうえに嘘つき呼ばわりされて、さすがに鈴音も怒りかけた。少し口を尖らせる。
「俺だって嘘なんか言ってない」
 呆然として尉知は呟く。信じられない。じゃあ本当に本当のことだというのか。彼女の頭がおかしくなったのでもなく、聞き間違いでもなくて。尉知は瞬きもせず鈴音を見つめた。でも、やっぱり嘘なんじゃないだろうか。騙して、笑おうとしているんじゃないか。いや、彼女は嘘なんか言わない。わかっているはずだった。
「俺は、嘘なんか、言ってないんだ」
 そう繰り返して、彼は体をがたがた震わせた。揺れる指先をゆっくり鈴音に伸ばしてゆく。
「綾原くん」
 からかわれたのではなかったと鈴音は気がついた。彼は頭を混乱させていただけなのだ。
「嘘じゃない、本当に会いたかったんだ、ずっと忘れられなくて」
 尉知はためらった。こんなことがあって本当にいいものか。本当に大丈夫だろうか。
「いや、でも、やっぱり駄目だ」
 指先が鈴音の肩に触れる寸前、尉知は急いで手を引っ込めた。怖かった。彼女が好きだと言ってくれたのに。
「どうして駄目なの?」
「だって反対されるに決まってる」
「誰に?」
「誰って、もう、全員にだよ」
 今まで彼女といた時の、周りの反応を思い出してみれば明らかだ。今の時点では確かにふたりの邪魔をするものなどない。でも他の要素が入った途端それは否定されるのだ。そして自分は彼女に相応しくないのだと思い知らされる。
「どう言われたって仕方ないんだ。俺はくだらない男だから、あんたみたいな優等生の近くにいる資格もない」
「大丈夫よ、ちゃんとしていたらみんなわかってくれる。わたしはあなたのそばにいたい」
 尉知の心はぐらついたが、無理に踏みとどまる。そばにいられたとして、いつか彼女はこんなつまらない男から去っていくに違いないと思った。その時自分はきっと死ぬほどのつらい思いをするのだ。耐えられない、考えただけでぞっとする。そうなったら終わりだ。もう絶対に立ち上がれない。
「資格とか、そんなこと言わないで。わたしはただ綾原くんと一緒にいられたら嬉しいし、もっとたくさんお話もしたいし、もっとたくさんあなたのこと知りたい。それだけでいいの」
 静かに言ってから、鈴音は少し寂しそうに目線を外した。
「でも綾原くんがどうしても嫌だと言うなら諦めないとね。謝ることもできたし、気持ちも伝えられたし、もう満足しないと。それにわたし、年上だし」
「嫌だなんて、そうじゃない、全然違う。年上とかも関係ない」
 苛々と尉知は首を振った。だが苛立たしいのは自分自身だ。
「俺だけじゃなくて、あんただっていろいろ言われることになるんだ。言われなくていいような事いっぱい言われるんだ、俺のせいで。信用失くすかも知れないし、変な噂もたつかも知れない」
 そして、自分のことなどすぐ嫌いになるかも知れない。今だってどこを好きなのか全くわからないのに。
「そんなこと平気よ。あなたのこと信じてるし、だから何も気にしない」
 尉知は再び真っすぐな瞳に射抜かれた。抵抗する気持ちにも限界が来ていると感じた。
「わたしはあなたが好きなの」
「俺だって好きだよ!」
 もう我慢などできなかった。叫んだと同時に涙が込み上げ、尉知は急いで鈴音を抱きしめた。涙を見られたくなかったのだ。
「俺だって一緒にいたいんだ」
 泣いているのを知られたくはなかったが、絶対にばれているだろう。流れ落ちる涙をそのままに、彼は腕に力を込める。こんな気持ちは初めてだった。彼女しかいらない。これから先もずっと、もう何も欲しくない。
「迷惑かけないように、俺、頑張るよ。なに言われても気にしないようにするよ。そばにいたいから、だから」
 声が震えてうまく喋れない。
「綾原くん」
 突然抱きしめられて鈴音は驚いたが、すぐに安心感に変わっていた。彼の体の震えも、体温も、全て心地良く染み込んでくる。
「大丈夫よ」
 尉知の痩せた胸に顔を埋めて、鈴音は呟く。彼女は心を決めていた。
「大丈夫、わたしが守ってあげる。わたしがあなたをちゃんと守ってあげる」

「すいません、三崎さんどこですか」
「んー?」
 話しかけられて、里香は顔も上げずに苛々と返事をした。だって今はそれどころじゃないのだ。この休み時間中に鈴音のノートを写しておかなければ、次の時間にレポート提出なのだから。あの教師にまたネチネチ怒られるのは嫌だ。
「鈴音ー? 知らない、委員会の用事とかでどこか行ったよ」 
 忙しくペンを走らせながら不機嫌に言う。教室の入口に近い席で作業を始めたことを後悔していた。みんなが教室を出たり入ったりで気は散るし、こうやって他のクラスから来るやつもいるし。
 待てよ、と里香はぴたっと手を止める。男の声だ。いや別に男子が鈴音を訪ねて来てもおかしくはないけれど、でも、今の声は。思い切って里香は顔を上げた。
「どうも、ありがとう」
 綾原尉知はそう言って、口をぽかんと開けた里香を残して行ってしまった。すいません? ありがとう? 確かに聞いた言葉を頭の中で繰り返す。
「里香?」
 トイレから戻って来た都希子が、彼女の様子を見て不思議そうに名前を呼んだ。さっきまで鬼みたいな顔で机にかじりついていたのに。
「どうしたの、そんな変な顔しちゃって」
「来たんだよ、綾原が」
「えっ」
 都希子は思わず一歩ひいた。
「何しに? 鈴音に会いに?」
「うん、それがさ、あの子」
 まだ呆然として里香は答える。鈴音から話は聞いてはいたのだが、でも信じてはいなかった。
「なんか普通の子みたいだった」
 綾原尉知が変わった。しばらくこの話題で持ちきりだった。授業をさぼることはあったが、学校にはちゃんと出てくるようになった。いつも周囲を恐れさせていた眼からは暗い光が消え、少し明るく柔らかい表情になっていた。戸惑っていたクラスメイトたちも次第になれて、怖がりながらも少しづつ彼に話しかけるようになっていった。不気味な存在という姿は消えていた。
 そして、三崎鈴音という優等生との不思議としか思えない関係も話題のひとつだった。
「三崎」
 生物の教師から預かったプリントを抱えて職員室を出たところで、尉知の担任の成田にばったり会った。
「次の授業の準備か」
「はい、自習なので課題をもらいに」
 この間の事もあるので鈴音は少し警戒した。
「ところで、変な噂をきいたが」
 やはり、尉知のことを言うつもりなのだと鈴音は思った。しかし冷静でいなければいけない、あの時のように怒ってはいけないのだ。
「ただの噂だとは思うが」
「綾原くんとのことなら本当です」
 遮るように答える。成田は言葉を失う。
「それが変な噂ですか?」
「ああ、いや。そうか」
 教師はがっかりしたように頭をかく。
「いけませんか。別に校則で禁止されてる訳じゃないですよね」
「いや、そうなんだけどな」
 慌てて彼は手を振った。
「三崎は成績も優秀だし、真面目な生徒だ。先生たちもみんな誇りに思っているし、期待も大きい。だから、綾原みたいな問題児と関わるのはどうかと思って」
「わたしと綾原くんが交際するようになって、何か問題が起こりましたか? 先生たちに都合の悪いことでもありましたか?」
「まあ、確かに近頃はおとなしくしているようだが。何かあってからでは遅いから心配してるんだ。私はずっとあいつを見ているんだから」
 わかったような口振りに腹が立った。担任なのだから彼の家庭環境も知っていただろうに、彼を救おうともしなかったくせに。
「心配ですか。先生は一度でも、親身になって彼の指導をした事があるんですか」
 成田の顔に苛立ちの色があらわれた。少し言い過ぎてしまった気がして鈴音は口を閉じる。
 この教師は自分が心配なだけなのだと鈴音はわかっていた。何かあったら今度は鈴音の担任や家族にも謝罪しなければならなくなると。面倒な事を増やしたくないのだ。
 言いたいことはたくさんあったがこれ以上言うつもりはなかった。綾原尉知と交際してから三崎鈴音が反抗的になった、そんな事になってはならないのだ。鈴音は軽く頭を下げた。
「失礼します」
 何事もなかったように鈴音は歩き出した。少し離れてから深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
 自分がしっかりしていなくては。
 今までの彼がどうであろうともういい。これから変わってゆくのだから。彼を歪ませてきたあらゆるものから、全部守ってあげるのだから。
 誰にも、文句ひとつ言わせないようにしてみせる。
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