僕は君の夢の中

またたび

文字の大きさ
2 / 4
2

届かない

しおりを挟む
「綾原くん!」
 両手を腰に当てて真野琴美は叫んだ。裏庭の芝生で昼寝をしていた尉知は驚いて跳ね起きる。そして目の前にいるのが琴美だとわかると、面倒臭そうにため息をついた。
「なんだ真野か。大声出すなよ」
 あーあ、と座ったまま伸びをする。六月に入って初めての晴天だった。昼食も済んで、ぽかぽか陽が当たって、眠たくもなってしまう。どうせ居眠りしてしまうなら、教室よりも芝生が良かった。
「もう、さがしてたのよ」
 長い髪をなびかせて琴美は睨む。二年に進級してからのクラスメイトだ。小柄で可愛く、わりと男子に人気がある。だが毎日のように鈴音を見ている尉知にとってはただのうるさいガキだ。
「いったい何なんだよ、せっかく気持ちよく寝てたのに」
 彼はもう琴美のほうを見ようともしない。琴美はむきになってまくし立てた。
「物理のレポート。早く出してよ、本当はお昼までに全員の分を提出しなくちゃいけなかったのに。もう五時間目終わっちゃったんだから。あと綾原くんだけなんだからね、出来てないんだったら今から急いでやってよね、わたしが怒られちゃうんだから!」
「うるせえな、そんな大声で言わなくたって聞こえるよ」
「じゃあ、ちゃんとやってよ」
「本当、うるせえ」
 尉知は木に寄りかかって欠伸をした。立ち上がる気配もない。
「仕方ないでしょ、わたし学級委員なんだから。ちょっと、早くしてよ」
 こんな風にクラスメイトが尉知に文句を言うなんて、半年前までは考えられない事だった。
「嫌だね。俺がどうしても提出しないんだって、そう言えばいい」
「尉知?」
 急に鈴音の声がして彼は言葉を切った。振り向くと、通りかかった鈴音が彼を見つけてやって来ていた。
「あ、鈴音」
 彼女に会えて嬉しい気持ちと、また叱られるかもという思いで慌てて尉知は立ち上がった。
「何を困らせてるの」
「いや、ちょっと、こいつ、同じクラスの」
「知ってるわよ、学級委員同士なんだから。ね、真野さん」
 鈴音は、急につまらなそうな顔をしている琴美に笑いかけた。琴美はぎこちなく、小さく頷いただけだった。
「そうか。で、レポート出せってうるさいんだ」
「じゃあ、ちゃんと書かないとね」
 にっこり笑って、鈴音は尉知の腕をつついた。
「わかった」
 呆気ないほど素直に彼は頷く。なぜ自分の学級委員は鈴音じゃないのだろうと、くだらない事を考えた。
「あんまりお友達を困らせちゃ駄目よ」
「うん。じゃ、レポート書いてくるから。あとで」
「あとでね」
 鈴音に手を振って、彼は校舎に向かい始める。そのあとを琴美が追った。思い通りになったというのに不満げな顔だ。
 少し歩いて、すぐ尉知は振り返る。
「ちょっと遅くなるかも知れないけど、帰らないで待ってて。迎えに行くから!」
 鈴音と一緒に帰れる幸せなひととき。この時のために学校に来ているようなものだ。

「あ、もうこんな時間」
 何気なく時計を見て鈴音は驚いた。
「わたし、帰るね」
 日ごとに暗くなるのが遅くなって、気がつかなかった。そういえば部屋が薄暗くなっている。彼と一緒にいるといつも時間が経つのが早い。
「あ、うん。そうだね」
 明らかにがっかりした顔で、部屋の灯りをつけながら尉知は返事をした。
 間近に迫った試験のために、今日は尉知の家でふたりで勉強をしていた。と言うよりは鈴音が尉知に勉強を教えていた。鈴音はいつもちゃんと勉強をしているため、試験前はさっとおさらいをするだけで充分だった。
 彼女と別れるとき。これが一日の中でいちばん嫌いなときだった。毎日会えるのだからきっと贅沢な不満なのだろうが、ひとりで過ごす夜が彼は嫌だった。半年前までは何でもなかった孤独が、ひどくつらいものになっていた。
 鈴音を帰したくない。このままずっと一緒にいて欲しい。そんな思いを今日もなんとか押し殺す。
「もう遅いからね」
 無理に言いながら、尉知はテーブルの上に広げられた彼女のノートやペンを集め始めた。
 鈴音は彼の家政婦が出してくれた紅茶のカップなどを銀のトレイに片づける。二年前から通ってきているという彼女は、鈴音が遊びに行くといつもおいしいお茶を用意してくれた。殆ど話はしないが、尉知が優しい子になって嬉しいと今日は鈴音にこっそり打ち明けた。
 その家政婦も、尉知の夕食を用意してもう帰ってしまっていた。この家に尉知はひとり残されるのだ。彼の父親か母親は、今日は帰ってくるだろうか。鈴音はどちらにも会ったことがなかった。
「どう、少しはわかった?」
 さっきまで教えていた物理のことだ。尉知がいちばん苦手な教科だ。
「うん、少しはね」
 本当はあまり頭に入らなかった。勉強などそんなにやる気にはならないし、その上最近は鈴音に対してどうも落ち着かない気分になっていた。それはどんどん大きくなっていった。
 制服が夏服に変わってからだ。半袖のブラウスからしなやかに伸びる白い腕が彼をどきどきさせた。眩しい胸元に、尉知の目は勝手に行ってしまう。
「本当に?」
 尉知がまとめてくれた荷物を鞄にしまい、彼の教科書も片づけながら鈴音はきいた。わざとそっぽを向き返事もしない尉知を見てくすくす笑う。
「あら」
 手に取った尉知の教科書からメモ用紙がはらりと落ちた。拾い上げ、鈴音は黙って尉知に差し出した。女の子の文字で、試験のヤマが書いてあった。
「ん? なんだ?」
 首を傾げてから彼は思い出す。
「ああ、そういえば今日、勝手に真野が俺の教科書に挟んでたな」
「そう、真野さんが」
「なんかあいつって、おせっかいなんだ。ノートを写せとか言って押しつけてくるし、嫌になるよ。何とかなんないのかな」
 真野琴美のおせっかいぶりを思い出してうんざりした。鬱陶しいとしか思えなかった。
「真野さん、尉知のこと好きなのかも」
 ぽつん、と鈴音が言った。
「え?」
「あ、な、何でもない。親切にしてもらったのに悪く言ったら駄目よ」
 鈴音は顔を赤くして、少し恥ずかしそうに急いで鞄を引き寄せた。
 訳がわからずぽかんとしていたが、急に尉知は思い当たった。今、鈴音はやきもちを焼いたのだ。ほんの一瞬でも。きっとそうだ。
 尉知は嬉しくなってしまった。いつもやきもちを焼くのは自分のほうだけだったのだから。彼女をいっそう愛しく感じた。もう少しだけ、鈴音を帰したくない。
「あっ」
 立ち上がろうとしたところを抱きしめられて、鈴音は軽く声をあげた。彼の背中を撫でてからまた腰を浮かしたが、尉知は体を離そうとしない。
「どうしたの、もう帰るんだから」
「もう少し。もう少しだけ」
 仕方なく鈴音は笑う。
「もう、子供みたいなんだから。わたしだって一緒にいたいのよ」
 尉知が顔を近づけてきて、鈴音は真顔になった。慌てて目をぎゅっとつぶる。
 唇が重なった。頭の奥が痺れ、心臓が暴れ出す。尉知とキスをするのは初めてではなかったが、鈴音はいまだにドキドキしてしまう。初めての時のように、胸が潰れてしまいそうに苦しい。でも、違うと気づいた。今はそういう苦しさだけではない。
 不審に思って鈴音は目を開けた。身動きもできないほど強く抱きしめられていた。唇もなかなか離してくれない。
「尉知?」
 今度は抱き上げられ、鈴音は不安げに彼を呼んだ。返事はせず、尉知は自分のベッドに彼女を寝かせた。素早く体に覆い被さり、熱い手で制服の上から鈴音の胸に触れた。
「嫌よ、何するの?」
 尉知が何をしようとしているのか、鈴音にも理解できた。怖くなって逃げようとしたが、強く押さえられていて動くのも難しい。
「鈴音」
 尉知は切なく名前を呼んだ。彼女が欲しかった。もう気持ちを抑えられないのだ。
「やめて、駄目よ」
 激しく首を振る鈴音のブラウスに手を滑り込ませ、彼は夢中でしっとりした肌に触れた。
「好きなんだ、鈴音が欲しいよ」
「離して!」
 焦ってバランスを崩した尉知を押しのけて、鈴音はベッドから飛び降りた。部屋の隅に逃げ、壁にぴったりと背中をつける。肩で息をしながら彼に厳しい目を向けた。
「鈴音」
 尉知は追うことができなかった。彼女の瞳が彼を動けないようにしていた。凍りついた体は悲しみでいっぱいになり、ただ呆然と鈴音を見つめた。
「どうして。鈴音は俺のこと好きじゃないの?」
「好きよ」
 苦しそうに鈴音は答える。
「でもこんなこと駄目。まだ、駄目なのよ」
「わかんないよ、どうしてまだ駄目なんだよ」
 彼は興奮してつい大声をあげた。
「またいつもの、高校生だから、ってやつかよ!」
 嫌味を言われても鈴音は怯まず、一層強く尉知を睨み返した。
「そうよ」
 しっかりした声で彼女は答えた。何か言い返そうとしたが、射るような鈴音の瞳に負けて尉知は何も言えなくなった。この瞳につかまったら自分は何もできないのだとわかっている。鈴音に、逆らえるはずがないのだ。
 放心したように座りこんでいる尉知を置いて、鈴音は部屋を出て行った。

 家のインターホンが鳴った。ずいぶん長いことそのまま座りこんでいたらしい、彼はその音で我に返った。もう外は真っ暗だ。
 もしかしたら鈴音が戻って来てくれたのかも知れない、と直接玄関に向かう。そして確かめもせず急いでドアを開け、尉知は顔を曇らせた。
「あ、綾原くん。こ、こんばんわ」
 立っていたのは真野琴美だった。尉知がまだ何も言わないうちに、彼女は慌てたように話し始める。
「あのね、わたし今日、アンダーライン引いてあげるからって綾原くんの教科書預かったでしょ。それ返すの忘れて持って帰っちゃって、さっき気がついたの。それで綾原くん、困ってるんじゃないかって。だから持って来たの」
 琴美は歴史の教科書を差し出した。そう言えばそうだったなと尉知は思い出した。いつもの如く、うんざりするおせっかい。
「別に明日で良かったし、電話で済んだんじゃないのか」
 どうでもいいことだった。無表情で彼は教科書を受け取る。
「だけど歴史の試験あさってでしょ、今日勉強するかも知れないと思って。それにね、うち、近所なのよ、知ってた? だから散歩のついでにと思って」
 そんな事くらいで困るわけがないと、わかっているはずじゃないのか。尉知は苛ついた。それなのにこんな遅い時間にこんなところまで来て、どういうつもりだ。
 すると、彼のことを好きなのではという鈴音の言葉を思い出した。尉知は琴美をじろじろ眺めた。
 考えてきたことを全部言って、琴美は少し落ち着いた。緊張をほぐすように深呼吸したあと、やっと彼がいつもの彼ではないと気がついた。様子がおかしい。怖い目をしている。急に琴美は不安になった。
「入れよ」
 低い声で尉知は言った。
「え?」
 戸惑っている琴美の腕を掴んで強引に家の中に引き入れ、尉知はドアを閉めた。
「早く上がれ」
 尉知の目は暗くぎらついていた。怯えて、琴美はもたもたと靴を脱ぐ。
「お、お邪魔します」
 彼はまた琴美の腕を引っ張って自分の部屋に連れて行き、乱暴に床に放り出す。
「おまえ、俺のこと好きなんだろ」
 琴美はカッと頬を赤く染めた。尉知は冷ややかに見下ろす。
「抱いてやるよ」
 鈴音に受け入れてもらえなかったものをぶつけに、尉知は琴美に襲いかかった。

「この間はごめんね、尉知」
 並んで歩く帰り道、鈴音は口を開いた。喧嘩をしたのも、一日連絡をとらなかったのも初めての事だった。ちゃんと仲直りできるだろうかと気が重かった。彼は許してくれるだろうかと、とても心配になっていた。
「でも、わたしね」
「うん。わかってるよ、鈴音の気持ち。もういいんだよ、俺が悪かった。俺も反省してたんだ、連絡しなくてごめん」
 鈴音の言葉を遮って、尉知は早口に言った。様子がおかしいと少し思ったが、とりあえず彼が怒っていないということに胸を撫で下ろした。わかってくれたのだと安心した。
「バイバーイ、鈴音」
 クラスメイトが数人、ふたりを追い越して行った。こんな風に一緒に帰っても、もうこそこそ噂されることも、ジロジロ見られることもなくなっていた。
 やっと認められたのだと鈴音は自信を持った。だって尉知はこんなに変わったのだから。だからやはり、自分たちは過ちを犯すべきではない。
「試験、どうだった?」
 今日から試験が始まっていた。尉知にきいてはみたが、自分は尉知とのことが気になって集中できず、今までで最悪の出来ではないだろうかと落ち込んでいた。成績を下げるなど、絶対にしてはいけないのに。
「うん。まあ、普通かな」
 嘘だったが彼はそう答えた。それきり黙ったまま、ふたりは駅までの道を歩いた。仲直りはしたものの、なにか気まずい空気があった。
 このままでは駄目だ。駅に着いて改札に向かおうとしたとき、尉知は足を止めた。
「鈴音、公園に行こう」
 駅の反対側にある大きな公園のことだ。ふたりで何度も行ったことのある、鈴音もお気に入りの場所だ。
「でも、明日も試験があるのに」
「大丈夫。少しだけだからさ。そしたらちゃんと帰って勉強もする」
 尉知に笑顔を向けられ、鈴音も安心したように笑う。
「仕方ないわね」
「約束する」
 気まずさは消え、ふたりは手をつないで歩き出した。どうしても、鈴音を離したくない。梅雨の合間の陽射しを浴びながら、つないだ手に力を込める。
 彼女がいなくなってしまったら、たったひとつの光を失ってしまうのだと尉知は怯えた。また真っ暗な、ただ生きているだけの何もない生活に。そんなのは嫌だ。
 だから鈴音の言う通りにするのだ。鈴音が嫌だと言ったことは決して彼女にはしないのだ。嫌われたくない。ずっと一緒にいたいから。だから。
 だから、鈴音がいいと言ってくれるまでは代わりでもいい。
 公園は眩しいほどの緑が生い茂っていた。草の香りがする。ふたりはアイスクリームを食べ、池の鯉を見て、それから木陰のベンチに座った。
「わあ、風が吹くと気持ちいいね」
 少し強い風が鈴音の髪を揺らす。となりで尉知は深呼吸をした。彼女の甘い香り。幸せな気持ちでいっぱいになる。けれどその中に、切なさがふと混じる。胸が苦しくなる。鈴音を失いたくない。永遠に。
「鈴音、ずっと、俺のそばにいてくれよ」
 彼女の手を握りしめて尉知は言った。鈴音は戸惑ったような笑顔を向ける。
「なに言ってるの、ずっと一緒にいるわよ」
「ずっと、ずっとだよ。どこにも行かないでくれよ。俺を嫌いにならないでくれよ」
 尉知が目を潤ませているのを見て、鈴音は驚いていた。
「どうしたの?」
「ずっと、俺のそばにいて」
 この間のことをまだ怒っていると心配しているのだろうかと鈴音は思った。彼女は体を寄せ、尉知を元気付けるように彼の肩にそっと頭を預けた。
「尉知のそばにいるわ。ずっと」

 何も言わずに、琴美は服のボタンを留めていた。尉知は彼女を見向きもせず缶ビールを開ける。
 何回目だろうか、彼は鈴音への欲求が我慢できなくなると、琴美を呼び出し身代わりにした。琴美は素直に従った。
 これで気持ちが満たされるわけじゃない。わかってはいたが、どうしても必要なのだった。鈴音に変なことをしてしまわないよう、とにかく体だけは落ち着かせる事ができる。
「じゃあ、帰るね」
 部屋を出る前に振り返って琴美は言ってみたが、尉知は相変わらず背中を向けたままだった。
「ああ」
 返事なのかため息なのかわからないような、小さな声が聞こえた。仕方なく、琴美はひとりで玄関へ向かう。
 いつもこうだ、と琴美の胸は締めつけられた。いつも彼は自分の気が済むと、もう彼女の事など見えないかのようだ。仕方ない、好きなわけじゃないのだから。ただの身代わりなのだから。
 嫌だ。こんなの嫌だ。でも断れない。彼が好きだから、だから断れない。
 鈴音には絶対に言うなと、最初の日に彼は言った。その目はとても恐ろしかった。怖かったし、悲しかった。彼は三崎鈴音のことしか頭にないし、自分はただの道具なのだ。
 彼の家を出ると、琴美は堪えきれずに泣いた。

「そう言えばあんた、鈴音のノートのコピー販売して、ちょっと儲けたっていうじゃない」
 都希子は里香の鼻を指先でつついた。
「え、何のこと?」
「とぼけるんじゃないよ、あたしに黙って悪どいことしやがって」
 試験がやっと終わり、久しぶりに里香は都希子の家に遊びに来ていた。三年になってみんなバラバラのクラスになってしまったが、相変わらず三人の仲は良かった。今日は鈴音がデートで来れないので寂しいのだが。
「人聞き悪いなぁ。ちょっとした人助けよ」
「ふざけんな」
「だって、買う人がいるんだから仕方ないんだな、これが。あれかな、やっぱり鈴音のノートって聞くとつい有り難くなっちゃうのかな。きっともうそれだけで良い点取れるような気になっちゃうんだろうな」
 商売に成功して里香はニヤニヤしたが、彼女の試験自体は決して成功はしていない。
「それ、鈴音は知ってるの?」
「知ってるわけないじゃん」
 ばれたら怒られるに決まってる。
「鈴音に黙っててあげるからさ、新しい彼の写真見せてよ」
「えー、写真なんて撮ってないもん」
 慌てて里香は首を振る。
「嘘だあ。あるんでしょ、見せなよ。ゴリラ男の次はなに男なのよ」
「失礼な!」
 挑発されて、むきになって里香は携帯電話をつかんだ。思い切って都希子に向ける。
「あ、ねずみ男!」
 見るなり、都希子はゲラゲラ笑った。里香も本当はそう思っていたから見せたくなかったのだ。だがすぐ開き直る。
「ふんだ、いいもん。男は顔じゃない、お金だ!」
「金の亡者か」
「卒業しても仕事なんか全部男にやらせて、あたしは遊びまくるのだ!」
「馬鹿、お金は自分で稼ぐんだよ。仕事だ、仕事!」
 都希子が拳を握りしめる。
「バシバシ仕事してガンガン偉くなって、部下ができたらビシビシしごくんだから」
 腰に手を当てて都希子は笑う。里香は眉をひそめた。
「ツッキー怖い。なんか将来が見えたよ」
 でもこの人はちゃんと稼いでくれるだろうか。里香は握っていた携帯の写真に目を戻した。働き通しの母親のようになりたくないのだ。もっと出世しそうな人がいいかな。
 何気なく写真のページをめくっていると、鈴音と尉知の写真が出てきて里香は手を止める。春に里香が撮ってあげたものだ。尉知は少し恥ずかしそうな顔をしているが、鈴音の笑顔は本当に幸せそうだ。鈴音はこれをプリントして部屋に飾っているという。
「どうしたの」
 急に表情を変えて黙った里香の携帯を都希子ものぞき込む。
「半年もったね」
「あの子もずいぶんまともになっちゃったしね」
「愛の力は偉大なり」
 ふざけて言ったが、すぐに都希子はため息をつく。一応は暖かく見守ることにしていたが、心から喜んでなどいなかった。鈴音には言えないがやはりいつまでたっても不満はある。彼でなくてもいいのにという気持ちは消えない。けれど鈴音があんなに一生懸命なのだから。
「でもさあ、鈴音にはもっと相応しい人がさあ」
「里香、それはもう言わない約束だよ」
「でもやっぱり」
 心配そうに里香は呟いた。
「本当に大丈夫なのかな」

「わあ、ひどい」
 尉知の鞄から答案用紙を引っ張り出して鈴音は嘆いた。どれもひどい点数がついている。
「これ、わたしがあんなに説明した問題なのに。絶対試験に出るって言ったでしょ。ひどいわ、全然聞いてなかったのね。あ、これも」
「そ、そうだった?」
 尉知は頭をかいてごまかそうとする。鈴音は膨れっ面をした。
 朝から雨が降っていたが、だいぶ止んできている。太陽が顔を出しかけて、カーテンの間から尉知の部屋にぼんやりとした明るい光が差し込む。
「だから見せたくなかったのね。もう」
「いや、聞いてたよ、鈴音の話はちゃんと聞いてたんだけど。こう、ど忘れしちゃって。そう、そうなんだよ」
「うそ。わたしの話なんか聞いてなくて、なにか他のこと考えてたんでしょ」
 その通りだった。そしてそれは鈴音のことだ。尉知はいつでも鈴音のことばかり考えているのだ。試験中だとかいうのは関係ない。もっともちゃんと話を聞いていたとしても、試験でそれを発揮できたかどうかは謎だ。単に実力不足というのもある。
 尉知は答案用紙を取り返し、急いで机の引き出しにしまい込んだ。
「次は頑張るよ。だからもうこのことは忘れることにしよう」
「もう」
 まだふくれている鈴音の頬を両手で挟み込み、尉知は笑いかけた。
「そんなことより、これからのことを考えようよ。前向きにさ」
「これからの?」
「そう、夏休みのこととか」
「二学期の試験のこととか?」
 からかうように言われて、尉知は苦い顔をした。が、鈴音が笑うと、彼もすぐ笑顔に戻った。
「許してあげる。本当はわたしもあまり良くなかったの。また次、一緒に頑張ろうね」
 良くなかったといってもそれほどでもない。レベルが違いすぎて尉知には想像もつかないし、慰めにもならない。でも彼が気にするはずもなかった。重要なことは、彼女と一緒にいられるということだけだ。
 尉知はうっとり鈴音を眺める。笑った時にこぼれる真っ白な歯。長いまつげに縁取られた大きな瞳。さらさらの短い髪。こんなに飾らないショートヘアがこんなに似合うのは彼女だけだ。今でさえこんなにきれいなのに、おとなになってお洒落をしたらどんなに美しくなるのだろう。そうしたら。
 不安な思いが尉知の頭をよぎる。例えば来年、鈴音は大学生になる。そうしたら状況が変わる。鈴音のような高嶺の花にも手を出してくるやつがいるかも知れない。鈴音が行くような大学なら彼女に相応しい男が当然いるだろう。そうしたら、こんな男のそばに本当にいてくれるだろうか。自分はその時まだ出来の悪い高校生なのだ。
 嫌な方に思考が向かい、尉知は暗い表情になっていった。心配になって鈴音が顔を覗き込む。
「尉知? どうしたの?」
「ううん、何でもない」
 暗い考えを追い払うように尉知は首を振った。
「夏休みはいっぱい遊びに行こうよ。どこに行きたい?」
「ええと、遊園地と動物園と水族館と、あとお祭りと花火大会も行きたい」
「うん、ちょっと待って」
 目を輝かせる鈴音を尉知は遮った。
「遊園地はやめよう。他は全部行こう。遊園地だけやめよう」
「どうして?」
「だってほら、春休みに行ったよ」
 行って、そして懲りていた。世間の人々はあんな乗り物に乗るのが好きなのか。ぐるぐる回ったり、物凄いスピードで走りまわったり。いくら鈴音と一緒とはいってもかなりつらかった。あんな物から気を逸らさなければ。
「別の遊園地に行けばいいでしょ?」
「そうじゃなくて、ほら、夏といえば、海! 海に行こうよ」
「海? わあ、そうしよう」
 鈴音は顔を輝かせた。ここからはかなり時間をかけないと泳げるような海には行けない。だから家族とでもあまり行ったことがなかった。
「あ、でも」
 急に鈴音は顔を赤くした。
「水着買わなくちゃね。やだな、ちょっと恥ずかしいな」
「あっ」
 迂闊な提案をしてしまった。海水浴などした事がなかったし、水着に考えが及んでいなかった。尉知は唾をのむ。
「ち、違う。海を見に行くだけだよ。ここから行ける海水浴場なんて、きっと混んでてつまんないよ。そういうところじゃなくて、崖から見るとか。泳ぎに行くのはまた今度にしよう」
 慌てて、尉知は必要以上に気持ちを抑え込んだ。あの日から彼は用心深くなっていた。鈴音が嫌がることをしてはいけない。させてはいけない。嫌われたくない。
「え? 泳がないの?」
 不思議そうに言ってから、鈴音は彼が自分のために言ってくれたのだと気づいた。あまりの慌てようだ。
「ごめん、わたしが恥ずかしいなんて言ったから」
 でも、恥ずかしくても水着くらい大丈夫なのに。こんなにも気を使われたらそうは言えない雰囲気だ。
「謝らなくていいんだよ。俺は鈴音とだったら一緒にいるだけで楽しいんだから」
 遊園地は別として、本当の気持ちだった。なのに水着という言葉に過剰に反応して、さっきから勝手に鈴音の水着姿を想像してしまっている。
「ごめんね、わたしが子供っぽいから」
 鈴音は彼の腕にしがみついた。
「そんなことないよ」
 尉知の声がかすれた。肘に柔らかいものが触れる。そして体が熱くなってくるのを感じた。

 机の隅に置いた電話が短く鳴る。その音で琴美は我に返った。
 広げられているのは、信じられないほど惨敗の答案用紙。これを見ていると気が遠くなってしまう。自分がこんな点を取るなんて考えたこともなかった。
 いつまでも隠しておけるものでもない。家族には確実に知られてしまう。どこからかクラス中に情報が流れるかも知れない。みんなどう思うだろうか。学年でいつも上位にいるはずの、学級委員のこの成績を知ったとき。
 琴美は力なく手を伸ばし誰からの着信かを確かめる。彼であることはわかっていた。見なくても、彼からの呼び出しであることはわかっているのだ。これが鳴ったら、琴美はぎらぎらと冷たく光る眼をした尉知の待つ部屋へ行かなくてはならないのだ。
 一年生の時、彼はそういう眼をしていた。廊下で見かけただけだったが。けれど進級して同じクラスになった時には、全く別人のようになっていたのだ。わがままな子供みたいな彼に琴美は心を惹かれた。世話を焼くのが楽しかった。三崎鈴音じゃなくても、自分だって彼の面倒を見られるのにと思った。
 琴美の体は操られるように動き出し、机の上の答案用紙を隠すと、母親にコンビニにいくと嘘をつき外へ出る。
 彼はまた変わってしまった。誰にもわからない、自分に対してだけ。学校でももう以前のようには話せなくなった。原因は三崎鈴音だ。彼を明るく変えたのもあの人かもしれないが、またこんなふうにしてしまったのも彼女なのだ。きかなくても琴美にはわかる。あの人は堅物で有名だから、彼に体を許さないのだ。だから代わりに自分で欲求を満たすのだ。代用品なのだ。
 もし行かなかったら、と考えてみる。きっと、彼はそんなに怒りはしないだろう。だって別に誰でもいいのだから。誰か代わりになる人を探せば良いだけなのだから。そして、もう口もきいてくれなくなる。
 それが嫌で、琴美は彼のもとへこうして向かっているのだ。彼はそのことをよく知っている。好きだから、彼女がほんのわずかな繋がりを切りたくなくて、だから言われた通りするのだとわかっている。
 家に着くと、いつも通りに呼び鈴も鳴らさず入って行く。尉知は部屋で待っていた。琴美が部屋に入ってドアを閉めるのをチラっと見る。
「早くしろよ」
 低い声で彼は命令した。改めて琴美の心は悲しみで溢れる。全てわかっているつもりで覚悟していても、やはりつらかった。
 嫌だ。もうこんなこと嫌だ。帰ってしまおうかと琴美は思った。でもできない、そんなことしたら彼とはこれっきりになってしまう。
 やがて、震える指で彼女は服を脱ぎ始めた。ほらね、どんなに嫌だと思っていてもいつだってこの通り。琴美は自分を軽蔑した。そしてひんやりする床に横たわって彼を待つ。尉知は決して琴美をベッドに上げようとはしない。
 部屋を暗くすると、尉知は乱暴に襲いかかった。琴美の感情がまた暴れ出す。逃げ出したい気持ちとそれを止める気持ちがぶつかり合う。
 やっぱり嫌だ。でも、身代わりでも何でもいいからこれで三崎鈴音から彼を奪えたはず。でも違う、こんなのは違う。だけど実際にいま彼の肌に触れている。でも愛されていない、少しも愛されていないのに。
「鈴音」
 ちいさい声だったが、尉知は囁くように鈴音の名を呼んだ。彼の声は切なく闇に吸い込まれていった。琴美の目から涙が溢れた。彼は三崎鈴音を想うのだ。他の女を抱いている今も、彼の心は三崎鈴音にあるのだ。
 こみ上げてくる嗚咽を琴美は唇を噛んで堪えた。全部あの人のせい。自分がこんなに傷ついているのも、彼がこんな事をしなくちゃならなかったのも、全部。
 琴美は鈴音を憎んだ。真っ白な美しい顔を憎んだ。汚れのない天使のような笑顔を憎んだ。いつでも自信たっぷりで、自分がいちばん正しいと思っていて。そのせいで誰かが苦しんでいるのも何も知らないで。何も傷つかないで、きれいな顔をして。きれいなまま、彼の気持ちを独占して。
 きれいなまま。

 校門の近くの植え込みで、鈴音は尉知を待っていた。
 一学期の終業式が済み、ほとんどの生徒はもうとっくに下校している。成績の悪かった者が何人か残されて、順番に担任の説教を聞かされているのだ。当然そのメンバーに尉知が入っていて、鈴音はこうして待っているのだった。今回奇跡的に難を逃れた里香と都希子もさっきまで一緒にいてくれたが、もうそろそろじゃないかということで帰って行った。
 ここで彼を待つのは嫌いではない。校舎から続く通路の両側に木や草花がたくさん植え込まれている。それを見るのが鈴音は好きだった。今は特に向日葵がきれいだ。真っ青な空に映える大きな黄色い花を咲かせている。眩しくて、見ていると楽しくなってくる。いつか家の庭に向日葵を植えようと考えていると、近くで足音がした。
「あら、真野さん」
 尉知ではなかったが、知っている顔を見つけて鈴音は笑顔を向けた。何でもないふりを装い、いつものように挨拶だけして通り過ぎようと琴美は思っていた。
「どうしたの、こんな時間まで。いま帰り?」
 けれど鈴音のこの言葉が琴美の足を止めた。他の出来の悪い生徒と同じ理由で残らされていたに決まっているのに。この人にはわからないのだ。勉強も手につかなくなり著しく成績を下げ、こんな時間まで担任に話をきかれていたなんて、鈍感なこの人には思いもよらないのだ。それも全部自分のせいだということも。琴美は憎悪の視線を投げる。
「真野さん、何かあったの、顔色が悪いわよ」
 琴美の様子に気づいて、心配そうに鈴音は近づいた。そのいかにも優しげな顔が琴美の神経を逆撫でする。何かあったのだなんて冗談じゃない。何もかもこの人のせいなのに。それなのに、そんなきれいな顔をして。
「あなたのせいよ!」
 耐えきれずに琴美は叫んだ。鈴音は差し出していた手を驚いて引っ込める。
「真野さん?」
「みんな全部、あなたが悪いのよ!」
「どうしたの? なにがあったの?」
「馬鹿みたい、自分の心配でもしたらいいのよ。あなた何も知らないでしょ、あなたが綾原くんを拒んだりしたから、わたしが身代わりになってるんだから」
 鈴音は言葉を失った。
「ほら同情してみてよ。わたしがいつもどんなに惨めな気持ちで彼に抱かれていたか、あなたにわかる? ねえ、わかるの? わたし綾原くんのこと、好きだったのに!」
 全部思いを吐き出してから、すぐに後悔が押し寄せた。もう終わりだ。でももう耐えられなかった。きっと、限界が来ていたのだ。
 鈴音は表情を凍りつかせていた。蒼ざめて、じっと立ち尽くしていた。
 重たい足を動かし琴美はその場から逃げ出した。人形のように固まって動かない鈴音の横を通り過ぎる。嘘ではないと伝わったはずだ。鈴音は彼を許さないだろう。もちろん、尉知も琴美を許しはしない。どんな目に合わされるかという恐怖と、ほのかな恋のわずかな望みもなくなった絶望感で、早く立ち去ってしまいたかった。
「鈴音ー」
 尉知がやって来たのはそれからすぐだった。彼は遠くに角を曲がる琴美の姿を見た気がしたが、深くは考えなかった。それよりも表情の冴えない鈴音の横顔が気になって、声をかけながら近づいて行った。
「待たせてごめん」
 すぐそばまで来ても、何故か尉知の姿が目に入っていないようだ。具合が悪そうに見える。顔色が悪い。
「鈴音?」
 心配して、彼女の肩に軽く手を置いた。電気が走ったように鈴音は体をこわばらせ、彼の手を払いのける。そして尉知に怒りのこもった目を向けたのだ。
 尉知は悟った。やはりさっき見たのは琴美だったのだ。琴美が鈴音に全てばらしたのだ。一気に頭に血が昇る。
「喋るなって言ったのに」
「ひどい、本当なのね」
 彼の絶望的な言葉に鈴音は後退りした。
「待って、鈴音、ごめん、聞いてくれ」
 尉知は手を伸ばしたが、彼女はさらに一歩さがって避けた。
「触らないで!」
 鈴音は自分の体をぎゅっと抱きしめる。怒りと悲しみのコントロールがきかない。もう訳がわからない。
「何を言うつもりなの? あなたから聞くことなんてもう何もない!」
 尉知は蒼ざめて言葉を失った。こんな鈴音を見るのは初めてだ。
「汚いわよ、大嫌い!」
 大嫌い。震える唇で、尉知は投げつけられた言葉を呟いた。だいきらい。
 肌にまとわりつくような温かい風が吹いた。大きな向日葵たちが音を立ててゆっくり揺れる。
 尉知は下を向いた。自分を責める彼女の瞳に耐えられなくなった。今まで彼女の目に浮かんだことのない憎悪と嫌悪。とても見てなどいられない。いつも幸せな気持ちにしてくれた彼女の瞳。
 やはり心配した通りだった。だから最初からやめておけば良かったのだ。好きになんかならなければ良かったのだ。諦めれば良かったのだ。そうしたらこんなにつらい思いをしなくて済んだ。わかってたのに。
 尉知の頬を涙が伝った。あとから後から溢れ出し、足元にぽたぽた落ちる。
「やっぱり無理だったんだ」
 声を絞り出して言うと、尉知は走り出した。彼の後ろ姿を鈴音は黙って目で追った。涙がこみ上げてくるのを唇を噛んで耐えた。絶対に泣くものかと思った。
 だが彼の姿が見えなくなってしまうと、我慢できずに鈴音はその場に崩れるように座り込んだ。胸の中をかき回されているように苦しい。痛いくらい熱いまぶたを閉じる。地面に両手をついたまま鈴音は泣いた。信じられないほど、熱すぎる涙は止まらなかった。
 そして、尉知は姿を消した。

 夏休みが終わっても、綾原尉知は戻ってこなかった。
 鈴音にとって、長い長い夏休みだった。胸にぽっかりと大きな穴が開いたみたいで、何もかも失ってしまった気分。あんなに大切にしていたのに。誰よりも大切にしていた人だったのに。ずっと守っていこうとしていたのに。
 浴びせられた言葉に傷ついた彼の顔。大粒の涙。絞り出すような声。走っていく後ろ姿。
 毎日毎日思い出す。いつまでも守りたいと思っていたのに、そう願っていた自分がそれを壊してしまった。けれどあの時の自分に、他にどうすることができただろう。あんな感情になったのは初めてだった。怒りと悔しさと悲しみに支配されてしまっていてどうしようもなかった。
「鈴音ーっ」
 校門を出たところで、都希子と里香が走って追いついた。振り返った鈴音の光のない目を見て、ふたりは胸をつまらせた。あれから鈴音は抜け殻のようだ。
「え、と。まだまだ今日も暑いねえ」
 ご近所のあいさつのようなことを言ってしまい里香は頭をかいた。鈴音に話しかけるのはまだどうしても少し身構えてしまう。鈴音を前にすると、つらくてどうしていいかわからなくなる。でもひとりにしておくことはできない。元気出してとか、慰めの言葉はもう言い尽くしていた。
 夏休みに、泣きながらふたりに事情を話した鈴音だが、琴美の名前はどうしても教えなかった。都希子と里香にしても、それは知らないほうがいいと思った。腹が立つのは尉知ひとりだ。鈴音に非があるとも到底思えない。鈴音が悪かったところと言えば、彼を選んでしまった事くらいだ。
 鈴音には言えないが、これで良かったのかも知れないとふたりは思っていた。このまま帰ってこなければいい。鈴音にも待っていて欲しくない。一日も早く忘れて欲しい、彼がしたことも全て。だいたい、鈴音にひどいことをしたら許さないと、初めからそういう約束だ。
 今は鈴音も悲しいかも知れないが、彼女のためにも彼がいなくなって良かったのだ。
「そうだ、ツッキーのクラスの子に聞いたんだけど、今日ね数学の時間に居眠りしてねえ」
 里香はやっと場が明るくなりそうな話題を思い出して、わざと大きな声で話しはじめた。
「馬鹿、その話はやめろ」
「顔とノートにベターってよだれが」
「やめろってばあ」
 歩きながら大騒ぎするふたりに混じって、鈴音もなんとか笑顔らしいものをつくった。彼女たちが元気づけてくれているのはわかっていたから、それに応えたかった。でも今はこのくらいが精一杯だ。
 何をする気にもなれない。泣くことももうできない。涙はもうなくなってしまったのだろうか。
「カラオケにでも行く?」
「それよりツッキーの家で映画見るほうがよくない?」
「どっちにする?」
 都希子は鈴音に問いかけたのだが、彼女の耳には届いていないようだった。駅前の歩道に来てからキョロキョロしはじめる。里香は勝手に決めて手を叩く。
「ええと、映画に決定ー!」
 初めて尉知と出会った場所。そして彼に助けられた場所。ここを通るたび、鈴音はまたここで彼と会えるのではと期待し、立ち止まって目で探してしまう。もう、彼は戻らないのだろうか。
 尉知の捜索願いは出ているが、彼の両親は心配などしていないと鈴音にはわかっていた。もう戻ってこなければ良いとさえ思っているかも知れない。学校の教師たちにしても同じだ。半年間おとなしくしていたと言っても、いつまで続くかハラハラしていたことだろう。
「元気出せ、これであいつの面倒を見なくて良くなったんだからな」
 昼間、成田はそう言って鈴音の肩をたたいた。満足そうな顔だった。だが怒る気にもならず、鈴音はただ無表情で見返した。もうどうでも良かった、そんなことは。

 秋が終わってゆく。公園の木もだいぶ葉を落としていた。最後に尉知と来たときは緑が眩しかったのに、と思いながら鈴音はひとりベンチに座った。池の鯉に餌をやる人たちを遠くから眺めていると、冷たい風が頬を撫でた。冬がこっそり近くまで来ているのだ。
 冬は好きなはずだった。今年は雪は降るだろうか。
 鈴音は元気を取り戻したように見えた。友人たちとあそんだり、受験勉強を頑張ったりして、元の生活に戻ったように感じた。けれど完全に元通りになどもうなれないのだ。なくしたものはもう戻ってこない。
「綾原くんのことを考えているんですか」
 不意に声がして、鈴音は顔を上げた。
「真野さん」
 鈴音は意外そうに瞬きをしたが、すぐに体を移動させて琴美のために場所をあけた。琴美も少しためらったがそこに腰をおろす。どうして声をかけてしまったのだろうと思いながら。
 鈴音の様子が気になって、何を考えているのか知りたくて、琴美は時々彼女を目で追っていた。自分を苦しめた彼女が今度は苦しんでいる。それを見たかったのか、笑ってやりたかったのか。どうしたかったのか自分でもよくわからない。ただ鈴音が気になった。
 今日はいつもの二人組もなぜかいない。だからこうして学校から後をつけ、声をかけてしまったのだ。
「よかった、となりに座ってくれるのね」
 鈴音は弱々しく笑みを浮かべた。琴美の知っている三崎鈴音の笑顔ではなかった。
「綾原くんのことが憎いですよね。許せないですよね」
「ううん」
 池のほうに目をやって鈴音は静かに首を振った。
「絶対に許せないと思った。でも彼がいなくなって、そのことのほうがつらいの。傷ついた彼が今ごろどうしているのか心配なの。わたしが傷つけてしまった」
 鈴音の体から悲しみが伝わってきたような気がして、琴美の全身に鳥肌がたった。淡々と話している分、余計に胸が締めつけられた。
 自分があまり悲しんでいないと気づいたとき、琴美は少し驚いていた。あの時の暗い絶望感も、夏休みが終わる頃には殆どなくなっていた。彼がいなくなったと聞いた時も、むしろホッとしたくらいだ。彼がどうなっているか心配にもならない。今ではもう胸も痛まない。
 琴美は不思議に思う。彼と無理に関係を持っていたときは本当に悲しかったし、心が傷ついたりしたはずだ。三崎鈴音のことも本当に憎かったはずだ。何だか、昔のことのような感覚になる。
「わたしはまだ、気がつくとね、尉知がいるんじゃないかってあちこち見てしまうの。目で探してしまうの、特にここの駅の前では」
「駅の前?」
「そう、向こうの、学校側のほう。あそこでね、彼と初めて会ったの。初めてちゃんと話せたときも。だからまた、彼がいるんじゃないかって」
 微かにため息を漏らし、鈴音はゆっくり頭を振った。
「でもいるわけない。彼は許してくれない。わたしの声はもう届かないの。わたしが守ってあげると誓ったのに、いちばん傷つけてしまったのはわたしだったの」
 枯れ葉が舞って鈴音の足元に落ちた。琴美の胸を締めつける手は力を緩めてはくれない。鈴音の言葉を聞くたびに、怖いほど鼓動が速まる。
「わたしはもう強くなれない。もう強い気持ちなんて持てない。わたしが間違ってたんだから」
 三崎鈴音が敗北宣言をした。琴美は少しも嬉しくなかった。
「あ、勝手にたくさん喋っちゃった。わたしの気持ちなんかあなたにはどうでもいいのにね」
「三崎さん」
 琴美の声がかすれた。間違っていたのは自分のほうかも知れない。彼女と張り合って、彼女に勝ちたかっただけなのかも知れない。
「ごめんなさい。真野さんにはずいぶんひどいことをしてしまった。でも、ほんの少しでいいから尉知のことを許してあげて。わたしのことはずっと恨んでもかまわないから」
 鈴音は真っすぐ琴美の目を見て言った。
「本当はもっと早く謝らなくちゃいけなかったのに、でも自分のことで精一杯で。それにあなたにごめんってちゃんと言えるか自信がなかったの。わたしが悪かったのに。ごめんね」
「三崎さんが謝ることなんて、何もないんです」
 なぜか琴美はそんな言葉を漏らした。その途端、鈴音の顔がぼやけて見えた。自分の涙のせいだと、琴美はしばらく気づけずにいた。

「三崎さーん!」
 鈴音の姿を見つけると、琴美は大声で呼んで走り出した。彼女は駅前のバスターミナルのベンチに座っていた。バスを待つためではなく、こうして駅前を眺めていたのだ。
 今日は卒業式だった。式が済むと、鈴音はすぐに学校を出てここに向かった。いつも、通るたびに尉知の姿を探した、この駅前通り。でも今日は探すために来たのではない。別れを告げるのだ。
 明日からはこの駅に来ることももうない。だから彼の姿も探さない。今日、彼からも卒業しよう。尉知のことは忘れてしまうのだ。
「三崎さん!」
 今度は鈴音の耳にも届いた。ベンチから腰を上げ、声のした方を振り返る。横断歩道を走って渡り、琴美は鈴音の前で立ち止まった。
「どうしたの、真野さん」
「三崎さんのクラスに行ったらもう帰ったって言われて。でも、ここにいると思った」
 琴美は息を弾ませている。吐く息が白く染まった。
「お友達も捜してましたよ」
 言われて鈴音は少し反省する。都希子と里香に何も言わずに学校を出てきてしまった。心配しているに違いない。あとでちゃんと謝ろう。それから、尉知のことも全部忘れたと言うのだ。きっと安心してくれる。あのふたりはいつも元気づけてくれた、かけがえのない友だちだ。
 尉知は、もう戻ってこない。彼は鈴音のことを忘れてしまいたいから、だから戻ってこないのだ。鈴音がいなくても大丈夫になったから、だから戻ってこないのだ。そう思えた。
 尉知からもらったあのハンカチを捨ててしまおうかと思ったが捨てられず、結局残しておく事にした。あれを、彼からの卒業証書の代わりにしよう。そしてたった一枚の彼との写真と一緒に、どこか奥にしまい込んでしまおう。ずっと、永久に。
「卒業おめでとうございます」
 琴美は隠しておいた小さな花束を鈴音の目の前に差し出した。
「わあ」
 鈴音は驚いて可愛い花束を受けとった。琴美にこんな事をしてもらえるなんて、思ってもみなかった。わざわざ、これを渡しに来てくれたのだ。
「ありがとう」
 鈴音は嬉しそうに笑った。あれからも琴美とは特別に親しくしていたわけではなかった。けれど委員会で顔をあわせたり、偶然会ったときには、必ず言葉を交わすようにはなっていた。もう、いっさい尉知のことは口にしなかった。
「それにしても、三崎さんだったらもっと上のランクの大学行けたのに」
「まだ言ってる」
「だって、もったいないなあ。みんな言ってますよ」
「いいのよ、あの大学が気に入ったんだから」
「そういうもんですかねえ」
 納得しがたいため息をつく。
「じゃ、わたし学校に戻らなきゃ。黙って抜け出して来ちゃったから」
 急に思い出したように言って、琴美は笑った。
「お元気で」
「ありがとう。真野さんもね」
 少し見つめ合ったあと、それじゃ、と琴美はまた学校の方に走っていった。横断歩道を渡り切ったところで一度振り返る。
「三崎さん! さよなら!」
 彼女は手を振って叫んだ。バスが視界を遮る。通り過ぎた時にはもう、琴美は背中を向けて走り始めていた。彼女の後ろ姿はすぐ人混みに紛れたが、鈴音はしばらく見送っていた。
「すずね、ちゃん?」
 突然名前を呼ばれて、鈴音は驚いて振り返る。
 知らない男性だった。年上の、たぶん大学生だと鈴音は思った。知的で爽やかな背の高いその人は、優しい笑顔を鈴音に向けていた。
「え、あの」
 花束と鞄を思わず抱きしめる。不審な表情の鈴音に、彼は鍵のついたキーホルダーを差し出した。suzuneという文字が刻まれている。
「あ、わたしのです」
「やっぱり。今ここで拾ったんだ」
 急いで受け取って、鈴音はぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました」
「きっときみのだと思ったんだけど、でもさっきいた女の子はみさきさんって呼んだでしょう」
 彼は真面目な顔で、鈴音の顔を覗き込むようにして言葉を続けた。
「きみの名前はすずねちゃんなの? みさきちゃんなの? どっちもきみにぴったりのいい名前だと僕は思うけれど」
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

靴屋の娘と三人のお兄様

こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!? ※小説家になろうにも投稿しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~

二階堂吉乃
恋愛
 同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。  1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。  一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。

処理中です...