尾張名古屋の夢をみる

神尾 宥人

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第一章

(三)

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 そうして数日後、燻り続けてきた火種はいよいよ大きな炎となって燃え上がることとなる。その発端は、やはり徳川家陣中にある湧水であった。湧水がいよいよ枯れつつあることに不安を覚えた徳川方が、ついに他家の水汲みを締め出すことに決めたのである。そして水場前の番屋を武装した兵で固め、厳に立ち入りを禁じた。
 されどそれは、この湧水を頼りにしていた他家にとっては死活問題であった。そのうちでもっとも大きな陣を構えているのが前田家である。締め出しを知った前田の兵たちは大挙して徳川家の陣場を訪れ、番屋の封鎖を解くことを求めた。当然徳川は応じず、小競り合いとなった。
 さらには騒ぎを聞き付けて、双方の兵たちが集まりはじめた。徳川方は事態を重く見て、本多平八郎忠勝、榊原式部康政らが諸肌を脱いで止めに出たという。されど兵たちの興奮も収まる様子もなく、ついには三千にも及ぶ兵がごった返し、一触即発のまま睨み合うという事態に発展してしまった。
 皆が弓鉄砲を構え、槍の鞘を外した臨戦態勢で、大声で悪罵をぶつけ合う。切欠ひとつあれば、すぐにでも血みどろの戦がはじまらんばかりだった。
 そんな中氏勝ら中村家中の者たちは、野一色頼母の元へと呼び集められていた。そうして頼母は、険しい表情で一同に命じた。
「おぬしらは前田家への合力、断じて罷り成らん。よいな?」
「何ゆえにござりますか。前田どのは殿のご朋友にございませぬか!」
 その思わぬ言葉に、集まった者たちはいきり立った。皆、心情的には前田家中の者たちに近かった。何しろ、水が断たれれば干上がるのはおのれらも同じなのだ。
「その殿は、ここにはおらぬのだ!」
 しかし頼母はそう吼えるように返し、一同を一喝する。氏勝はその言い分ももっともだと得心していた。海の向こうでは今も命を懸けて戦っている者たちがいるというのに、安全な後方で勝手に友軍同士が殺し合いなどはじめようものなら、まさに前代未聞の醜態である。そんな莫迦げたことを太閤が容赦するとは思えない。徳川、前田という重鎮であってもただで済まぬであろう。まして中村家ごときがそれに肩入れし、騒動に加わりでもすれば、最悪改易だって有り得る。かような決断、主の指図もなしにできることではなかった。
 
 
 評定を終えて頼母の屋敷を出ると、氏勝は伝右衛門の小屋へと向かった。前田家の陣場は皆出払っていて、不穏なまでに静まり返っていた。
 それでも小屋に入ると、伝右衛門たちはまだそこに留まっていた。この者たちはさすがに、熱に当てられて騒動に加わるほどの莫迦ではなかったようだ。氏勝はほっと息をついた。
「良かった……皆さまはこちらにおられたか」
 伝右衛門もまた氏勝の姿を見て安堵したようで、中へと快く迎え入れた。そうして狭い小屋の中で車座になると、伝右衛門に尋ねる。
「小野どのたちも騒動に加わっておるかと思い、案じておりました」
「当たり前でござるよ。慥かに徳川のやり口に得心はゆかぬが、力づくなど愚の骨頂。何の解決にもならぬわ」
 それは皆、同じ考えのようだ。うんうんと頷きながら、無念そうに俯く。そうとわかっていても何もできない、おのれの無力を恥じてでもいるのか。
「して、どうなっておりますか。何か動きは?」
「今のところは、まだ。悪くもなっていなければ、良くもなっておらぬ」
 つまりは依然として睨み合ったまま膠着しているというわけだ。水場を開放されぬ限り前田方は引けぬであろうし、徳川方としてもそれは同じであろう。ここで引くくらいであれば、最初から封鎖などしない。
「されど兵の数では圧倒的に徳川方のほうが多いはずでござろう。万が一戦になれば、我らに勝ち目はありますまい」
 氏勝がそう言うと、駒井十四郎がゆっくりと首を振った。
「ところがそうでもないのじゃ。騒ぎを聞きつけて、他家からも続々と使者がやって来ておってな。中でも蒲生がもう家や浅野家は、戦になればすぐにでも兵を送ると言ってきておる。他にも金森、堀、村上……みな徳川には含むところのある者ばかりよ。それで大殿も、すっかり強気になってしまわれた。戦になれば必ずや大納言の首級を挙げよと噴き上がっておられる」
 氏勝は思わず、「……莫迦ばかな」と声に出してつぶやいた。まったく、ここに集まってきたのは莫迦ばかりか。これでは前田と徳川だけの話ではなくなる。ことによっては十万の兵がふたつに割れての大戦にもなりかねない。
「むろん、我らが家中にも冷静な者はおる……されど大殿自身が熱くなっておられて、ろくに聞く耳を持たぬのじゃ」
「まあ徳川の将らはまだわかっておるのが、救いといえば救いでござるな」
 伝右衛門が小さく首を振りながら言う。慥かに兵たちはともかく、本多平八郎・榊原式部といった大物が抑えに回っているのは朗報であった。おそらくは大納言家康も同様に、事態を苦々しく思っていることであろう。お陰で今のところはどうにか、本格的な衝突に至らずに済んでいる。
「せめて大殿が、もう少し冷静になってくれたらのう……」
 だったら……と、氏勝は伝右衛門たちを見回した。されど雑兵同然のかの者たちでは、利家に直接諌言することなど叶うまい。
 するとそのとき、息せき切って小屋に飛び込んで来た者があった。やはり先日顔を合わせたひとりで、伝右衛門の朋輩だ。顔が見えないので、いったいどこへ行ったのかと気にしていたのだ。
「大変じゃ、えらいことになっとるぞ!」
「どうしたのじゃ?」
 その剣幕に、一同は皆揃って立ち上がった。するとその男は、信じられぬ言葉を続けた。
「徳川が……徳川が攻めて来よった!」


 氏勝たちは小屋を飛び出すと、男に連れられて陣の裏手へと走った。するとそこにはおよそ三百ほどであろうか、具足で身を固めた兵の姿があった。海風にたなびいているのは、慥かに徳川の葵紋の旗印である。前列に並んだ鉄砲衆だけでも百はいるであろうか。すでに火縄も点しているようで、それぞれの手元から細く煙が伸びていた。どうやら徳川方にも莫迦な将がいたようだ。
 対する前田方はほとんど兵も出払っていて、わずか二十ばかりの者が竹束を抱えて守っているだけだった。ここからなら利家のいる屋敷も近く、その気になれば瞬く間に制圧されることであろう。
 伝右衛門がそのひとりの傍へと駆け寄って行った。氏勝もそれに続くと、ふたりの会話に耳をそばだてる。
「いったいどうなっておるのだ?」
「まるでわからぬ。まるで煙のように、いきなり現れたのじゃ。あれが徳川の服部半蔵、まさに神出鬼没よ」
 その名は、氏勝もよく聞き知っていた。服部半蔵正成まさしげ。元は伊賀の忍びと言われているが、現在は徳川にとっても重要な将のひとりである。
「おぬしらはいったい何をしておるのだ。大殿を守らぬか!」
 と、男は氏勝にも向けて怒鳴った。どうやらこちらも前田勢のひとりと思っているようだ。何しろ徳川ほどではないとはいえ、前田陣にも八千からの兵が詰めているのだ。全員の顔など覚えているわけもない。
 だがそれは好都合と考え、氏勝は前田の兵の振りをしたまま尋ねた。
「その大殿はどうしておられるのだ。まだ屋敷に?」
「当たり前よ。すでに徳川の陣に向かった者たちへ使者も送っておる。直ちに引き上げ、こちらを固めよとな」
 氏勝は男に聞こえぬように、小声で「……愚かな」とつぶやいた。これまで散々煽ってきたのだ。いまさら引けと言ったところで、頭に血が上った者どもが従うはずもなかろう。それどころか陣を襲われたと聞けば、いきり立ってそのまま徳川の陣に雪崩れ込むやもしれぬ。
 だがこれで、舞い上がっていた利家の頭も冷えたことであろう。それは良い材料といえた。氏勝と伝右衛門は仲間のところへ戻ると、物陰に隠れて身を寄せ合う。
「今なら、前田の大殿のところへも行けるのではないか?」
 氏勝が尋ねると、十四郎は難しい顔で「さすがにそれは……」と首を振る。されど伝右衛門は、何か考えがあるように目を向けてきた。
「又次郎どのにお口添えいただければ、あるいは……」
 かの者らの主である、又次郎利秀としひでのことだ。もうずっと病で伏せっているとの話だが、このような状況ではのんびり寝てもいられぬであろう。
「されど、大殿にお会いしてどうしろというのだ?」
「むろん、この莫迦な騒ぎを鎮めるのでござる。皆さまも、功が欲しくはござらぬか?」
 伝右衛門たちは驚いて目を瞠った。氏勝が何を言っているのか、すぐには理解できない様子だった。
「鎮める……のでござるか。いったいどうやって?」
 氏勝はにやりと笑って答えた。されどそこにいる誰も、それが笑顔だとは思わなかったようであったが。
「風を、吹かすのでござるよ」
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