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第一章
(四)
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前田又次郎利秀は伝右衛門たちの訪いを受けると、伏していた身体を起こして出迎えた。外で何が起きているのかも知っているようで、何もできないおのれを歯痒く思っていたようだ。それで事態を鎮めたいという言葉に目を輝かせ、利家へ拝謁できるよう取り計らうどころか、みずから同行するとまで言い出した。
「されど……殿。お身体のほうはよろしいのですか?」
「何の。おぬしらが命懸けで仲裁に乗り出そうというのだ。主である我ひとりが寝てなどいられるか!」
そうして半刻後、身形を整えて現れた利秀は、顔色こそはあまり良くないものの、それはそれは立派な若武者ぶりであった。その姿を目にして、伝右衛門も十四郎も目頭が熱くなるのを抑えられなかった。
そうして満を持して会所に現れた利秀を見て、利家は訝しげに目を眇めた。膝の上では、指が落ち着かなげに動いている。
「いったい何事だ、又次郎。つまらぬ用ならあとにせい」
「いえ、叔父上。大事な話にございます。お聞きくだされ」
利秀は会所の中央に膝をつくと、張りのある声で続けた。
「申し上げます。此度の騒乱、どうか我にお任せ下さらぬか。ここにいる配下が見事、鎮めて御覧に入れまする」
利家の目が、いっそう険しさを増した。病人風情が何を偉そうに、とその目が言っていた。
「おぬしやおぬしの配下ごときに何ができる。あの者たち、もはやわしの命も耳に届かぬのだぞ?」
「心配ご無用。この者たちには策がありまする」
そう言って、利秀は伝右衛門を振り返った。とはいえ、その策とやらはまだ氏勝から聞かされていない。どう答えた者かと迷い、結局かの者と同じことを口にするしかなかった。
「今はただ、『風を吹かせる』としか申し上げられませぬ。されどどうか、我らが仲裁に乗り出すこと、お許しいただけませぬか」
「風……風、のう」
利家がわずかに表情を和らげ、そう鸚鵡返しにつぶやいた。どうやらその言葉に、何か思うところがあったようだ。もしかしたら氏勝の言う意味が、この大殿には理解できるのかもしれなかった。
「まあよい。やるだけはやってみろ。無理ではあろうがな……」
「有難き幸せにござります」と、利秀は嬉しそうに頭を垂れた。「では、早速……」
されどそう言って立ち上がりかけた主を遮って、伝右衛門は慌てて「……今ひとつ!」と続けた。氏勝からは他にも、頼まれていたことがあった。
「今ひとつ、大殿にお願いしたき儀がございます」
利家が目だけで何だと問うてくる。伝右衛門は気圧されながらも、ひとつ息をついて言った。
「策はあると申しましたが、いささか無茶もせねばならぬかと思います。禁を破ることもあるやもしれませぬ。できましたら此度の仲裁に関わったすべての者のご赦免を、太閤殿下にお口添えいただきますよう、伏してお願い申し上げます」
「……いったい何をするつもりじゃ?」
そう尋ねられても、知らないものは答えようがなかった。伝右衛門は床に額を擦り付けながら、声に出さずにつぶやく。まことに大丈夫なのでござろうな、山下どの?
※
やがて日が沈み、あたりが夜の帳に包まれても、なお騒動は収まらなかった。それでもさすがに悪罵をぶつけ合っていた者たちは疲れたのか、次第に言葉少なになり、無言での睨み合いになっていった。
本多平八郎忠勝は、この推移をむしろまずいと感じていた。この静けさは決して鎮静化ではなく、怒鳴り罵り合うことでどうにか発散していたものを、裡に溜め込みはじめたということだったからだ。静かになったぶん、緊張感はいっそう高まってさえいた。
疲労が却って冷静な判断力を失わせ、当初の目的さえ忘れさせ、ただ腹の底のどす黒い怒りと憎しみだけを膨らませてゆく。その末にはじまる戦ほど凄惨なものになるということを、経験豊かな将たちなら誰もが知っていた。
こうなったらもう、やるしかないか。忠勝はそう腹を決める。どの道、一度はぶつからねば収まらぬのであろう。だったらもうぶつかってしまえばいい。ただしその場合も、あくまで身ひとつで、だ。かの者が諸肌脱いで、槍も持たずに飛び出してきたのは、そうした思惑もあってのことだった。どうしようもなくぶつかることになっても、せめて素手の殴り合いに留めるため。将が裸で殴り合い、掴み合っている以上は、兵たちも刀を抜くことはできまい。
「……小平太」
と、忠勝は傍らの榊原式部康政を呼んだ。言葉は交わさずとも、考えていることはお互いにわかっているはずであった。果たして康政も、無言のまま頷き返してくる。そうして揃って、ゆっくりと兵たちの間に割って入って行った。
そのときだった。ぴいいっという尾を引くような音を立てて、頭上を何かが通り過ぎて行った。鳥ではない。それは古強者なら誰もが聞いたことのある音だ。
「鏑矢……いや、いったい誰が……」
鏑矢とはその名の通り、鏃の代わりに円筒形の鏑と呼ばれる器具を付けて放たれる矢のことだ。空を切り進む際に鋭く高い音を立てるため、かつては合戦開始の合図などに使われていた。されど昨今はもう廃れて久しく、若い兵たちは知らぬであろう。
「不味いわ、糞っ!」
忠勝はそう吐き捨てながら駆け出した。この音を知らぬ者は、ともすればいきなり攻撃を受けたと思うかもしれぬ。張り詰めていた空気が一気に弾け、いよいよぶつかり合いに発展しかねない。
すると続いてがらがらという音とともに、周囲が完全に闇に包まれた。誰かが松明をくべた篝火を引き摺り倒したのだ。そして、叫び声が響き渡った。
「明じゃ、明の大軍が攻めてきたぞ!」
誰もが弾かれたように立ち上がり、海のほうへを目を向けた。その水平線近くに、数えきれないほどの灯がずらりと並んでいた。
小野伝右衛門は闇の中を走りながら、なおも声を張り上げる。篝火をひっくり返したときに燃え移った袖の火は、大きく腕を振って走っていれば自然に消えた。
「大明の船じゃ。とうとう明の兵が攻めて来おった!」
同じようなことを叫び走る、仲間たちの声もよく聞こえていた。それに背中を押されるように、伝右衛門はまた繰り返す。
「敵襲じゃ、敵襲! 明兵が来るぞ!」
明が攻めてくる。それは、兵たちの間でまことしやかに広がりつつある風聞であった。それも朝鮮に渡った小西勢や加藤勢の動勢が、あるときを境にぱったりと伝わってこなくなったためでもある。明の参戦によって膠着状態になった前線からの報は、将たちが兵には伝えずに握り潰されていた。それは士気を保つための配慮であったが、それがむしろ裏目に出てしまっていたというわけだ。
渡海した軍勢は明の反撃に遭って、すでに壊滅しているのではないか。上はそのことを隠して、さらにおのれらを朝鮮へ送り出そうとしているのではないか。そんな疑心暗鬼が、兵たちの間では広がりつつあったのだ。そして明は勢いに乗じて、この日の本にも攻めてくるのではないか。何しろこの地はかつての元寇の折、蒙古軍と激戦を繰り広げた松浦党の旧領である。それもまた、風聞に真実味を与えてしまっていた。
さらに頭上を、また鏑矢が夜を裂いて通り過ぎてゆく。それも鏃の代わりの鏑にいくつも穴をあけて、笛のような音が鳴るように加工された蟇目鏑矢という代物らしい。かような矢音は、伝右衛門も聞いたことがなかった。事前に氏勝から聞かされていなかったら、それこそ異国の未知の兵器とでも思わされていたかもしれない。
さらに暗闇が、人に原初の恐怖を呼び起こす。そして同時にただひとつの光、水平線上に並ぶ篝火に否応なく注目させた。
「明兵が来よるぞ。者ども、迎え討つのじゃ!」
つい先ほどまで不気味な静けさに包まれていた徳川陣前は、まるで沸騰したかのように騒然としていた。しかしそれは、忠勝らが恐れていたような沸き立ちかたではなかった。
「明兵だと。ふざけやがって!」
「来るなら来やがれ。返り討ちにしてくれるわ!」
突然の、それも未知の敵の襲来に、怯えるような者はいなかった。むしろ溜め込んでいた怒りを遠慮なくぶつけられる相手の登場に、歓喜しているようにさえ感じられた。
もちろん忠勝らには大陸の戦況も耳に入っているため、かような風聞に踊らされるようなことはなかった。慥かに渡海勢は苦戦しているが、明の側にも少なからぬ損害を与えている。大国・明といえど、逆に日の本へ攻め込んでくるような余裕はないはずである。ただそこは歴戦の猛者、この大法螺を広めている者たちの意図も即座に理解していた。何者かは知らぬが、面白いことをするものだと。
「ここはひとつ……乗せられてやるかの」
忠勝はそう康政と頷き合うと、兵たちに向き直った。
「明兵の襲来じゃ。急ぎ殿にお伝えせよ!」
すぐそばに控えていた小者が、「ははっ!」と答えて駆け出してゆく。冷静な我らが殿であれば、きっと知らせを聞いて察するであろう。ことさらに大事にすることもあるまい。
「我らはここで、敵先鋒を迎え討つ。隊列組めい、鉄砲隊前へ!」
兵たちの顔が一斉に引き締まり、目の色が変わった。そうして見違えたような機敏な動きで、即座に竹束を並べ、そのうしろに三段構えの列を組んだ。
さらに戰支度をしていなかった者たちは、おのれの具足を身に着けるために陣へと走ってゆく。それは前田方も同じだった。まるで他家の将である忠勝の号令に応えたかのように、急ぎ自陣へと駆け戻っていった。
しかして四半刻も経たぬうちに、具足に身を固めた兵たちは海を見下ろす崖の上に集結していた。その数、徳川勢五千。前田勢三千。前田陣の裏手に出向いていた服部半蔵の手勢も、いつの間にかそれに合流していた。
「鉄砲隊、構えぇっ!」
その下知とともに、千を超える射手が銃口を上げた。そうして海上の篝火に向けて筒先を並べる。されど篝火はまだ遠く、こちらへ向かってくる様子もなかった。
その代わり、一艘の小舟がゆったりと、漂うように近付いてくるのが見えた。舳先には身の丈の倍はありそうな大弓を携えた武者が、ひとり立っている。
千の筒先が、一斉にその小舟へと向けられた。されど武者は怯む気配もなく、悠然と崖上の軍勢を眺め渡している。見ぬ顔じゃが、太々しいものよ。忠勝の口元に笑みが浮かぶ。されどすぐに引き締め、また声を張り上げた。
「何奴じゃ、名乗れいっ!」
「我は前田家中、前田又次郎が家来。小野伝右衛門なり」
穏やかではあるがよく通る声で、船上の武者が答えてくる。その表情までは見えないが、おそらくは不敵に笑っていることであろう。
「さて徳川家の皆々方、我が家中の同輩方よ。余興は愉しんでいただけたであろうか?」
「余興、とな?」
「さよう。あちらに並んでいる火は、ただの魚釣りの小舟よ。ここらの漁師はああやって、夜に松明を焚きながら漁をするとのこと。ご存知であったか?」
それは忠勝もわかっていた。大船が並んでいるにしては、篝火の位置が低い。されどここはまんまと騙された芝居をするべきであろう。
「悪巫山戯にも程があろう。いったいこれは何の真似じゃ?」
「何、家中の者が愉しげなことをしているようであったのでな。ちと、花を添えようと思ったまでよ。愉しんでいただけたのであれば、結構。実に結構!」
船上の武者はそう答えると、舟を漕いでいた背後の男に合図を送った。そちらはいかにも粗末な身形の、見るからに近郷の漁師と見える老人だった。
「では皆々方、また喧嘩をしにでも戻られよ。我はこれまでにて、然らば、然らば!」
小舟はぐるりと小さな円を描き、再び沖へと遠ざかりはじめた。ずっと呆気に取られてはいたが、ようやく我に返ったか、居並んだ兵たちが悪罵の声を上げはじめる。されどそんな声さえ風雅な虫の音とばかりに、悠然と舳先に立ち続けていた。
すると最後にまた弓を構えると、高く中空に向かってそれを射放った。ぴりりりりっ、とこれまでになく派手な音を立てながら、鏑矢が頭上を行き過ぎてゆく。こちらとの距離は二、三町はあろうに。いったいどんな強弓であるか、と忠勝は素直に感嘆する。
そうして再び沖に目を戻すと、松明を海に投げ捨てたのか、小舟は闇に溶けたように見えなくなっていた。忠勝はまた小さく笑うと、兵たちを振り返って言った。
「さて、おぬしらはどうする。戻ってまたつまらぬ喧嘩を続けるか。前田の者どもはどうじゃ?」
その問いに、兵たちは戸惑ったように顔を見合わせた。それは前田勢も同じのようだった。どの顔もすっかり毒気が抜けて、妙にさばさばとした表情に戻っている。まるで悪い夢から醒めたかのように。
「されど……殿。お身体のほうはよろしいのですか?」
「何の。おぬしらが命懸けで仲裁に乗り出そうというのだ。主である我ひとりが寝てなどいられるか!」
そうして半刻後、身形を整えて現れた利秀は、顔色こそはあまり良くないものの、それはそれは立派な若武者ぶりであった。その姿を目にして、伝右衛門も十四郎も目頭が熱くなるのを抑えられなかった。
そうして満を持して会所に現れた利秀を見て、利家は訝しげに目を眇めた。膝の上では、指が落ち着かなげに動いている。
「いったい何事だ、又次郎。つまらぬ用ならあとにせい」
「いえ、叔父上。大事な話にございます。お聞きくだされ」
利秀は会所の中央に膝をつくと、張りのある声で続けた。
「申し上げます。此度の騒乱、どうか我にお任せ下さらぬか。ここにいる配下が見事、鎮めて御覧に入れまする」
利家の目が、いっそう険しさを増した。病人風情が何を偉そうに、とその目が言っていた。
「おぬしやおぬしの配下ごときに何ができる。あの者たち、もはやわしの命も耳に届かぬのだぞ?」
「心配ご無用。この者たちには策がありまする」
そう言って、利秀は伝右衛門を振り返った。とはいえ、その策とやらはまだ氏勝から聞かされていない。どう答えた者かと迷い、結局かの者と同じことを口にするしかなかった。
「今はただ、『風を吹かせる』としか申し上げられませぬ。されどどうか、我らが仲裁に乗り出すこと、お許しいただけませぬか」
「風……風、のう」
利家がわずかに表情を和らげ、そう鸚鵡返しにつぶやいた。どうやらその言葉に、何か思うところがあったようだ。もしかしたら氏勝の言う意味が、この大殿には理解できるのかもしれなかった。
「まあよい。やるだけはやってみろ。無理ではあろうがな……」
「有難き幸せにござります」と、利秀は嬉しそうに頭を垂れた。「では、早速……」
されどそう言って立ち上がりかけた主を遮って、伝右衛門は慌てて「……今ひとつ!」と続けた。氏勝からは他にも、頼まれていたことがあった。
「今ひとつ、大殿にお願いしたき儀がございます」
利家が目だけで何だと問うてくる。伝右衛門は気圧されながらも、ひとつ息をついて言った。
「策はあると申しましたが、いささか無茶もせねばならぬかと思います。禁を破ることもあるやもしれませぬ。できましたら此度の仲裁に関わったすべての者のご赦免を、太閤殿下にお口添えいただきますよう、伏してお願い申し上げます」
「……いったい何をするつもりじゃ?」
そう尋ねられても、知らないものは答えようがなかった。伝右衛門は床に額を擦り付けながら、声に出さずにつぶやく。まことに大丈夫なのでござろうな、山下どの?
※
やがて日が沈み、あたりが夜の帳に包まれても、なお騒動は収まらなかった。それでもさすがに悪罵をぶつけ合っていた者たちは疲れたのか、次第に言葉少なになり、無言での睨み合いになっていった。
本多平八郎忠勝は、この推移をむしろまずいと感じていた。この静けさは決して鎮静化ではなく、怒鳴り罵り合うことでどうにか発散していたものを、裡に溜め込みはじめたということだったからだ。静かになったぶん、緊張感はいっそう高まってさえいた。
疲労が却って冷静な判断力を失わせ、当初の目的さえ忘れさせ、ただ腹の底のどす黒い怒りと憎しみだけを膨らませてゆく。その末にはじまる戦ほど凄惨なものになるということを、経験豊かな将たちなら誰もが知っていた。
こうなったらもう、やるしかないか。忠勝はそう腹を決める。どの道、一度はぶつからねば収まらぬのであろう。だったらもうぶつかってしまえばいい。ただしその場合も、あくまで身ひとつで、だ。かの者が諸肌脱いで、槍も持たずに飛び出してきたのは、そうした思惑もあってのことだった。どうしようもなくぶつかることになっても、せめて素手の殴り合いに留めるため。将が裸で殴り合い、掴み合っている以上は、兵たちも刀を抜くことはできまい。
「……小平太」
と、忠勝は傍らの榊原式部康政を呼んだ。言葉は交わさずとも、考えていることはお互いにわかっているはずであった。果たして康政も、無言のまま頷き返してくる。そうして揃って、ゆっくりと兵たちの間に割って入って行った。
そのときだった。ぴいいっという尾を引くような音を立てて、頭上を何かが通り過ぎて行った。鳥ではない。それは古強者なら誰もが聞いたことのある音だ。
「鏑矢……いや、いったい誰が……」
鏑矢とはその名の通り、鏃の代わりに円筒形の鏑と呼ばれる器具を付けて放たれる矢のことだ。空を切り進む際に鋭く高い音を立てるため、かつては合戦開始の合図などに使われていた。されど昨今はもう廃れて久しく、若い兵たちは知らぬであろう。
「不味いわ、糞っ!」
忠勝はそう吐き捨てながら駆け出した。この音を知らぬ者は、ともすればいきなり攻撃を受けたと思うかもしれぬ。張り詰めていた空気が一気に弾け、いよいよぶつかり合いに発展しかねない。
すると続いてがらがらという音とともに、周囲が完全に闇に包まれた。誰かが松明をくべた篝火を引き摺り倒したのだ。そして、叫び声が響き渡った。
「明じゃ、明の大軍が攻めてきたぞ!」
誰もが弾かれたように立ち上がり、海のほうへを目を向けた。その水平線近くに、数えきれないほどの灯がずらりと並んでいた。
小野伝右衛門は闇の中を走りながら、なおも声を張り上げる。篝火をひっくり返したときに燃え移った袖の火は、大きく腕を振って走っていれば自然に消えた。
「大明の船じゃ。とうとう明の兵が攻めて来おった!」
同じようなことを叫び走る、仲間たちの声もよく聞こえていた。それに背中を押されるように、伝右衛門はまた繰り返す。
「敵襲じゃ、敵襲! 明兵が来るぞ!」
明が攻めてくる。それは、兵たちの間でまことしやかに広がりつつある風聞であった。それも朝鮮に渡った小西勢や加藤勢の動勢が、あるときを境にぱったりと伝わってこなくなったためでもある。明の参戦によって膠着状態になった前線からの報は、将たちが兵には伝えずに握り潰されていた。それは士気を保つための配慮であったが、それがむしろ裏目に出てしまっていたというわけだ。
渡海した軍勢は明の反撃に遭って、すでに壊滅しているのではないか。上はそのことを隠して、さらにおのれらを朝鮮へ送り出そうとしているのではないか。そんな疑心暗鬼が、兵たちの間では広がりつつあったのだ。そして明は勢いに乗じて、この日の本にも攻めてくるのではないか。何しろこの地はかつての元寇の折、蒙古軍と激戦を繰り広げた松浦党の旧領である。それもまた、風聞に真実味を与えてしまっていた。
さらに頭上を、また鏑矢が夜を裂いて通り過ぎてゆく。それも鏃の代わりの鏑にいくつも穴をあけて、笛のような音が鳴るように加工された蟇目鏑矢という代物らしい。かような矢音は、伝右衛門も聞いたことがなかった。事前に氏勝から聞かされていなかったら、それこそ異国の未知の兵器とでも思わされていたかもしれない。
さらに暗闇が、人に原初の恐怖を呼び起こす。そして同時にただひとつの光、水平線上に並ぶ篝火に否応なく注目させた。
「明兵が来よるぞ。者ども、迎え討つのじゃ!」
つい先ほどまで不気味な静けさに包まれていた徳川陣前は、まるで沸騰したかのように騒然としていた。しかしそれは、忠勝らが恐れていたような沸き立ちかたではなかった。
「明兵だと。ふざけやがって!」
「来るなら来やがれ。返り討ちにしてくれるわ!」
突然の、それも未知の敵の襲来に、怯えるような者はいなかった。むしろ溜め込んでいた怒りを遠慮なくぶつけられる相手の登場に、歓喜しているようにさえ感じられた。
もちろん忠勝らには大陸の戦況も耳に入っているため、かような風聞に踊らされるようなことはなかった。慥かに渡海勢は苦戦しているが、明の側にも少なからぬ損害を与えている。大国・明といえど、逆に日の本へ攻め込んでくるような余裕はないはずである。ただそこは歴戦の猛者、この大法螺を広めている者たちの意図も即座に理解していた。何者かは知らぬが、面白いことをするものだと。
「ここはひとつ……乗せられてやるかの」
忠勝はそう康政と頷き合うと、兵たちに向き直った。
「明兵の襲来じゃ。急ぎ殿にお伝えせよ!」
すぐそばに控えていた小者が、「ははっ!」と答えて駆け出してゆく。冷静な我らが殿であれば、きっと知らせを聞いて察するであろう。ことさらに大事にすることもあるまい。
「我らはここで、敵先鋒を迎え討つ。隊列組めい、鉄砲隊前へ!」
兵たちの顔が一斉に引き締まり、目の色が変わった。そうして見違えたような機敏な動きで、即座に竹束を並べ、そのうしろに三段構えの列を組んだ。
さらに戰支度をしていなかった者たちは、おのれの具足を身に着けるために陣へと走ってゆく。それは前田方も同じだった。まるで他家の将である忠勝の号令に応えたかのように、急ぎ自陣へと駆け戻っていった。
しかして四半刻も経たぬうちに、具足に身を固めた兵たちは海を見下ろす崖の上に集結していた。その数、徳川勢五千。前田勢三千。前田陣の裏手に出向いていた服部半蔵の手勢も、いつの間にかそれに合流していた。
「鉄砲隊、構えぇっ!」
その下知とともに、千を超える射手が銃口を上げた。そうして海上の篝火に向けて筒先を並べる。されど篝火はまだ遠く、こちらへ向かってくる様子もなかった。
その代わり、一艘の小舟がゆったりと、漂うように近付いてくるのが見えた。舳先には身の丈の倍はありそうな大弓を携えた武者が、ひとり立っている。
千の筒先が、一斉にその小舟へと向けられた。されど武者は怯む気配もなく、悠然と崖上の軍勢を眺め渡している。見ぬ顔じゃが、太々しいものよ。忠勝の口元に笑みが浮かぶ。されどすぐに引き締め、また声を張り上げた。
「何奴じゃ、名乗れいっ!」
「我は前田家中、前田又次郎が家来。小野伝右衛門なり」
穏やかではあるがよく通る声で、船上の武者が答えてくる。その表情までは見えないが、おそらくは不敵に笑っていることであろう。
「さて徳川家の皆々方、我が家中の同輩方よ。余興は愉しんでいただけたであろうか?」
「余興、とな?」
「さよう。あちらに並んでいる火は、ただの魚釣りの小舟よ。ここらの漁師はああやって、夜に松明を焚きながら漁をするとのこと。ご存知であったか?」
それは忠勝もわかっていた。大船が並んでいるにしては、篝火の位置が低い。されどここはまんまと騙された芝居をするべきであろう。
「悪巫山戯にも程があろう。いったいこれは何の真似じゃ?」
「何、家中の者が愉しげなことをしているようであったのでな。ちと、花を添えようと思ったまでよ。愉しんでいただけたのであれば、結構。実に結構!」
船上の武者はそう答えると、舟を漕いでいた背後の男に合図を送った。そちらはいかにも粗末な身形の、見るからに近郷の漁師と見える老人だった。
「では皆々方、また喧嘩をしにでも戻られよ。我はこれまでにて、然らば、然らば!」
小舟はぐるりと小さな円を描き、再び沖へと遠ざかりはじめた。ずっと呆気に取られてはいたが、ようやく我に返ったか、居並んだ兵たちが悪罵の声を上げはじめる。されどそんな声さえ風雅な虫の音とばかりに、悠然と舳先に立ち続けていた。
すると最後にまた弓を構えると、高く中空に向かってそれを射放った。ぴりりりりっ、とこれまでになく派手な音を立てながら、鏑矢が頭上を行き過ぎてゆく。こちらとの距離は二、三町はあろうに。いったいどんな強弓であるか、と忠勝は素直に感嘆する。
そうして再び沖に目を戻すと、松明を海に投げ捨てたのか、小舟は闇に溶けたように見えなくなっていた。忠勝はまた小さく笑うと、兵たちを振り返って言った。
「さて、おぬしらはどうする。戻ってまたつまらぬ喧嘩を続けるか。前田の者どもはどうじゃ?」
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