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03.セリア・デ・ヒメネス=アストゥーリア(1)
しおりを挟むセリアがイグナシオと婚約したのは10歳の時だ。伯爵家と侯爵家とはいえ、どちらも『大顕位』を与えられた特別な貴顕の家門で、家の権勢も当人同士の年齢も釣り合うとあって、周囲全てから祝福されたのを彼女はよく憶えている。
そして彼の新緑の艷やかな髪と深い黒茶の瞳に見惚れた彼女は、こんなに見目麗しい殿方と婚約できて幸せだ、とその時は素直に思えたものだった。
だが、それ以来彼と彼女の仲は全く進展しなかった。義務だと言わんばかりにただ回数を重ねるだけのお茶会に、当たり障りのないメッセージとともに送られてくる、ただ流行を踏まえただけの心無いプレゼント。デートに誘われることもほとんどなく、それどころかタルシュ侯爵家に輿入れすることになるセリアには侯爵夫人としての教育が施されるようになって、少女の自由になる時間はほとんど与えられなくなった。
そうして一年が過ぎ、二年が過ぎて、彼女はそれが両家の政略のための婚約であってそこに愛などないのだと、嫌でも理解させられたのだ。
セリアは自分の容姿に自信がない。見栄えのしないアッシュブラウンの髪は嫌いだったし、珍しい菫色の瞳は多くの人の目を引き付けたが、褒められることはほとんどなかった。
そして長じても背が伸びるばかりで一向に女性としての魅力を備えない細身の身体。他家のお茶会などで豊満な身体つきのご令嬢を見かけるたびに穴を掘って隠れたくなったものだ。
「気にすることないわ。貴女には素晴らしい知性があるもの」
親友と呼べるほど親しく付き合ってくれていたカタロニア伯爵家のモニカ嬢は、いつもそう言って慰めてくれたが、だからといって胸が育つわけでも、髪が輝くようなブロンドになることもない。
「それに貴女はあのイグナシオ様の婚約者なのよ?もっと胸を張って、堂々としていればいいのよ」
まさにその婚約こそがセリアの劣等感をいや増しているのだが。そして侯爵家や伯爵家以外で催されるお茶会に出るたびに、陰でそのことでやっかまれるのだ。
それは若いセリアには苦痛以外の何物でもなかった。せめてイグナシオから人並みの愛情でも向けられていれば、まだしも耐えられたのだろうが。
イグナシオの両親、タルシュ侯爵とその夫人はセリアにはとても優しかった。優しかったが、侯爵夫人教育は手を抜いてもらえなかった。それはそれ、これはこれというわけだ。
もっとも、その教育をきちんと修めておかなければ後々困るのはセリア自身なので、いくら辛くとも泣き言は言えなかった。唯一聞いてやれるはずの婚約者は、相変わらずそっけないままだ。
そうして13歳になり、王立貴族学院を受験してセリアも無事に合格した。イヴェリアスでは貴族の子弟は学院への入学が原則義務付けられているため、セリアにそれ以外の選択肢はない。
それがまた、彼女には憂鬱だった。何しろ一学年上には婚約者が在籍しているのだ。これからは彼とプライベートだけでなく学院でも顔を合わせなければならない。それを思うだけでため息が出る。
しかも学院に通ううちは専用の寮に入らなければならない。男子寮と女子寮に分かれているとはいえ、同じ敷地内に昼夜問わず二人ともいるのだと意識してしまえば、それさえもストレスだった。
だがそれでも、彼女は彼にとって“良き婚約者”であろうとした。だってこの先の長い人生をともに歩まなければならないのだ。それだけでなく、彼は侯爵家の一人息子で唯一の跡取りなのだから、その妻となるセリアは彼の子を産まねばならない。
ならばせめて、肌を触れ合わせても不快にならない程度には仲良くなりたいではないか。お互いに義務感だけで嫌々ながら致すよりも、どうせなら行為の最中くらいは睦み合いたい。せめてそれくらいは求めたって許されるはずだろう。
だというのに、セリアが2年に上がりイグナシオが3年になってから、事件は起こった。
彼と急速に親密になった、ひとりの令嬢の存在が明らかになったのだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
最初、セリアは人をやってそれとなく確認させた。
まずはイグナシオの浮気が事実かどうか。彼との間に愛がないことくらい明白だったが、それでも彼とてセリアとの婚姻が必要なものだということくらい分かっているはずだ。であれば浮気は事実ではなく、彼の家門の権勢に擦り寄りたい誰かが自分のために流した虚偽か、あるいはタルシュ侯爵家とモンテローサ伯爵家との結び付きを阻止したい他の家門からの妨害の恐れもある。
だが取り巻きの令嬢たちの話によれば、彼には確かに最近側に侍らしている女性がいるらしい。それも入学したばかりの男爵家令嬢、『顕位』さえ得ていない家門の娘だという。
イヴェリアス王国の貴族には王から与えられる特別な恩寵がある。それが『顕位』で、家門の歴史、勢力、王国への貢献度などを鑑みて親授されるものだ。『顕位』を得た家門は爵位を飛び越えて貴族社会で一目置かれるのが慣例で、だから例えば伯爵家で『顕位』を得れば、それを得ていない侯爵家よりも家勢が強くなる。
そしてその『顕位』のさらに上位に当たるのが『大顕位』だ。これは本当に限られた家門、建国から変わらず国に貢献してきたごく一部の家門にだけ与えられたもので、数あるイヴェリアス貴族の中でも公爵家で三家門、侯爵家で五家門、伯爵家では二家門しか賜っていない。『顕位』が貴族全体のおよそ三割に与えられていることを鑑みても極端に少ない。
そして、タルシュ侯爵家とモンテローサ伯爵家はともにその『大顕位』持ちなのだ。
だから他の大顕位持ちの家門からの妨害なのかと思いきや、顕位さえ得ていない男爵家とは。もっとも男爵家で顕位を得ているのはわずか二家門だけなので、男爵家なら顕位なしが普通なのだが。
しかも、どうやらイグナシオの方が男爵家令嬢を手放さないらしい。そういう事なら、令嬢本人は大顕位持ちの家門の御曹司に逆らうこともできずに針布に座らされている心地なのではなかろうか。
そう心配になって、セリアは自ら男爵家令嬢を確認に向かった。もしも苦慮しているようであれば、彼の婚約者として助けてやらねばならない。大顕位持ちの侯爵家の御曹司を正せるものなど、その婚約者以外にはいないのだから。
なのに遠目の物陰から確認したイグナシオと男爵家令嬢は、さも楽しそうに談笑していた。貴族学院にいくつかある棟のひとつの中庭のベンチで、他に人目が無いことを幸いとばかりに身を寄せ合って肩を合わせ、腰を抱いて、ふたりは顔が触れんばかりの近さで笑い合っていたのだ。
しかも彼女はセリアの目から見ても非常に魅力的だった。ふわふわのストロベリーブロンド、くりくりとよく動く輝きに満ちた灰銀の瞳とよく笑う表情豊かな顔、そして何より女性らしいふくよかな、いかにも触り心地の良さそうな柔らかそうな身体つき。
どれもセリアにはないもので、イグナシオの好みであるとひと目で知れた。
それを見た瞬間のセリアの心情はいかばかりだっただろうか。
だって彼女はそれまでイグナシオからそんな顔を向けられた事などなかったのだ。社交辞令的に微笑まれることはもちろんあったが、たった今男爵家令嬢に向けているその笑顔は、見たこともないのに本心から楽しそうに喜びに満ちていると解ってしまった。
そんな顔が彼にもできるのだと、そして自分にはそれを向けるつもりなど絶対にないのだと、その残酷な現実をこれ以上ないほど理解させられて、セリアは顔面蒼白のままその場を逃げ出すことしかできなかった。
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