貴族社会は欺瞞と虚飾でできている

杜野秋人

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03.一縷の望み

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 3年後のことはともかく、わたくしの目下の悩みは今夜のこと、そして明日からのことです。ですが当然ながら、いくら考えても妙案など浮かぶはずもなく。考え疲れたわたくしは、少しばかり夜風に当たろうとバルコニーへの硝子扉を開きました。
 すっかり暖かくなった花季はるの風は、薄い夜着の上からナイトローブを羽織っただけという薄着でも肌を刺すことなく、むしろ優しく撫でてくれるかのよう。その優しい風に誘われるように、わたくしはバルコニーの端まで歩みを進めます。
 二階の中央にある主寝室に設えられた大きなバルコニーは邸の裏庭に面していて、手すりまで寄ると侯爵邸の広大な庭園が一望できます。特にこの、眼下に広がる池は侯爵家の自慢の造りだそうで。

 ⸺もし、今、わたくしがここから池に身を投げたなら、侯爵閣下の悪辣な誓紙の内容が公になったりしないかしら。
 ああ、でもダメね。そんな事をしてしまえば、こんなわたくしにも“奥様”として手厚く接してくれる使用人たちにも迷惑がかかってしまうし、何より婚姻を後押しして喜んでくださったお義父さまも悲しませてしまうわ。

 と、ここでわたくしは気付きました。
 池の水面に、明かりが、落ちていることに。

 ひとつはわたくしのいる、二階のこの主寝室。バルコニーに出るためにカーテンを開けたから、漏れた部屋の明かりが淡く反射しています。
 では、その斜め上にやはり落ちている明かりは、一体どの部屋の…………

 あっ。

 わたくしは気付きました。
 そう、気付いてしまったのです。

 今夜この邸には、婚姻式に出席なさったお義父さまがそのままお泊りになっておられることに。
 そう言えば、侯爵閣下も王宮にお戻りになる際に「父上には明日報告せよ」と仰せだったではありませんか。そうだわ、今夜はお泊りになられているのだったわ。

 こうしてはおれません。だってわたくしに残された時間は今夜しかないのです。侯爵閣下⸺旦那様は確かに仰いました。「明日以降の他言を禁ずる」と。[制約]の条件項目にもそう書いてありましたから、発動は「明日」の始まる夜明けと同時のはず。つまり夜の今はまだ、わたくしはこのことを、お義父さまに訴えることができるのです。
 そうと気付いてしまったからには、一刻も早くお義父さまの元へ向かわねばなりません。初夜に旦那様以外の男性のお部屋を訪ねるなどあってはならない醜聞ですが、もはやそんなことなど構ってはおれません。そもそも邸の中での事なのですから、使用人たちの口を噤ませればそれで済むのです。

 バルコニーから部屋に戻り、カーテンを締めて、わたくしはナイトローブ姿のまま廊下へ続く扉を開きました。

「お、奥様!?」

 なんとそこには、侯爵家の侍女の姿が。
 この者は確か、旦那様の専属侍女のひとりだったはず。さては、わたくしが部屋を抜け出したりしないよう見張っていたのね。
 さすがは旦那様、想定されるリスクにはきっちりと手を打たれていらしたのね。

「そこを退きなさい。わたくしは今からお義父さまのお部屋に参ります」
「なりませんよ奥様。そんな事をなされば侯爵家の醜聞となってしまいますわ」
「あら、貴女が黙っていればそれで済む話ではなくて?それとも、侯爵家に仕える身でありながら主家の恥を喧伝するつもり?」
「旦那様に仕える身であればこそ、旦那様の名誉を不当に貶めようとする奥様をお諌めするのが当然ではありませんか!」

 彼女は言うやいなや、飛びかかってきました。どうやら力ずくでわたくしを部屋に戻すつもりのようです。ですが相手は彼女ひとり。警護の男性騎士がいたならわたくしに勝ち目などなかったでしょうが、彼女だけならば。
 わたくしは侍女と廊下で揉み合いになりました。侍女は「初夜に密かにお部屋を抜け出そうなど、なんとはしたない!お飾りの妻のくせに、旦那様に恥をかかせるおつもりですか!」とわたくしを責めて一歩も引きません。ですがわたくしとて自分の人生がかかっているのですから、引くわけには参りません。

「何をやっているのですか!」

 騒ぎを聞きつけたのか、執事と侍女長がやって来ました。そうしてわたくしと揉み合う旦那様の専属侍女の姿に彼らは驚愕し、執事の後ろに控えていた侍従たちにすぐさま取り押さえさせました。
 侍女は旦那様の命令だ、逆らえば旦那様の不興を買うぞ、などと喚いていましたが、侍従たちはそのまま彼女をどこかに連行してゆきました。

「奥様、躾のなっていない者が無礼を働いたこと、どうかお許し下さい。あの者は折檻の上今夜限りで解雇と致しますので、どうかご寛恕を」
「あなた方使用人たちがとても礼儀正しく弁えていることはわたくしもよく理解しています。今起こったことはあの者の独断専行であり、他の皆に責任を負わせるつもりはありません。もちろん旦那様の命令でもないと考えております」

 そう言いつつも、旦那様の命令でわたくしを見張っていたのは本当なのだろうなと理解してしまっているわたくしがいます。だって寝室で待つわたくしの元に旦那様がいらした際には、廊下に人の気配は感じなかったのですもの。きっと、旦那様が部屋を出られてお邸をお出になる前に彼女を呼んで、わたくしを見張るよう命じたのでしょう。
 それにあの侍女は17歳のわたくしよりも少し歳上で旦那様とも年齢的に釣り合いますし、何より揉み合っていた際に向けられた嘲りの瞳が、自分は旦那様の寵を受けたことがあるのだと雄弁に語っておりました。
 旦那様ったら邸の使用人に手を付けていらしたのね。それならわたくしも抱いて下さればいいのに。

「寛大な御配慮痛み入ります。──して、奥様はこのような時間にいずこへ参られるのですか?」

「旦那様は王宮へお戻りになられました。そのことに関して、お義父さまに至急ご相談申し上げたきことがございます。先触れをお願いできますか?」

 わたくしの言葉に執事は息を呑みましたが、すぐに「畏まりました」と一礼して侍従のひとりをお義父さまのお部屋に向かわせました。



  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇



「こんな夜更けに何事だ、騒々しい」

 執事の案内に従ってお義父さまのお部屋を訪れたところ、まだおやすみになっておられなかったのか自ら扉を開けて廊下に出てこられたお義父さまは、大層不機嫌でいらっしゃいました。下階かかいの廊下でつい先ほどまでわたくしとあの侍女が取っ組み合って暴れていたのですから、おそらくそれが聞こえていたのでしょう。
 ですが廊下にわたくしの姿があるのを目にして、お義父さまは目を見開いて驚かれました。
 まあ無理もありません。わたくしは薄い夜着の上からナイトローブを羽織っただけのあられもない姿で、しかもあの侍女に乱された髪がほとんどそのままです。襟元や裾はさすがに直しましたが、とてもではないけれど夫以外に見せてよい姿ではなく、栄えある侯爵家の嫁としては考えられない醜態です。
 そんな姿で息子の新妻が初夜に父親じぶんの部屋を訪ねてきたのですから、さぞ驚かれたことでしょう。もしこのことが侯爵家の邸外に漏れたなら、とんでもない醜聞となること間違い無しでしょうね。

「君が、なぜこんな所にいるのかね?というかいくら邸内とはいえ、なんとはしたない格好をしているのだ」
「先触れの通り、お義父さまに至急ご相談致したいことがございます」
「話なら明日の朝食後に談話室で聞こう。今夜は息子との大事な初夜だろう?さあ早く戻りたまえ」
「それでは遅いのですお義父さま。何としても今夜中にお話を聞いていただかねばならないのです」

「……何があった」

 やや間を置いたその問いは、わたくしにではなく執事に向けたもの。執事が簡潔に、旦那様がすでに王宮にお戻りになったこと、旦那様の専属侍女がわたくしを部屋に閉じ込めようとしてわたくしに掴みかかったことなど、お義父さまに説明してくれました。

「…………何ということだ……」

 思わず片手で額を押さえて、苦々しいお顔で呻かれるお義父さま。ご心中をお察し申し上げるしかありません。

「こんな廊下で話すことではないな。談話室に行こうか。そこで話を聞こう」

 良かった、お義父さまはお話を聞いてくださる気になったようです。
 ですが、この上さらに一階の談話室まで廊下を歩かねばならないというのは、さすがにわたくしも少々恥ずかしさを覚えてしまいます。こんな事なら慌てずに、一度部屋に戻って衣装を整えるべきだったでしょうか。いえ、でもそんなに時間をかけていてはお義父さまがお寝みになってしまっていたかも知れません。さすがに就寝されたあとにお起こしするのは憚られます。

 ⸺こうなれば、もう恥も外聞もありません。





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