宵闇町・文字屋奇譚

桜衣いちか

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第四章・熱を孕む

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 結局、東西の侍所さむらいどころでも矢を放った者をみたものはおらず、文字屋と千代は寝殿しんでんへ向かう。許可を得て中に入ると、めぐみは相変わらず玄之丞げんのすけ狐尾きつねのおに包まれて幸せそうに眠っていた。

「試験は」

「問題ありません」

 親子の会話にしてはやけに短い。

「それで」

「矢を放ったものを見た者は誰もいませんでした。矢が刺さっていた箇所も大分低く、女性の手で刺すことが可能です。矢が打ちこまれたと騒いでいるのは鈿女うずめ一人。虚言と考えて差し支えありません」

 ふぅむと考えこむ玄之丞げんのすけ。もぞもぞと起きてきためぐみが、大きな欠伸をした。

げんちゃんはなんでだろうって考えてるんだろうけれど、考えることなんかないわよ。自分が毎日していることを思えばすーぐに分かっちゃうわよ。ねぇ胡白こはくちゃん」

「はい」

「昔から女泣かせなの、この人。私だって何度泣かされたことか。女の愛と憎悪は重いわよぉ」

 めぐみが、ちらと玄之丞げんのすけを見て、しくしく泣く仕草をとる。玄之丞げんのすけが黙り、文字屋があとを引き継いだ。

鈿女うずめはあなた宛ての大量のふみを抱えながらこう言っていました。『一目見てくだされば、報われるものを』と。鈿女うずめも毎日あなた宛ての恋文こいぶみを書いているのではないでしょうか。それに、読まれない恋文こいぶみを処分するのも鈿女うずめの役目だ。自分の恋心をないがしろにされている気がしたとしても、おかしくはありません。西対にしのたいに矢を刺したのも、正妻である母上がいらっしゃるから。次は実際に母上が襲われてもおかしくはありませんよ、父上」

「それだけはならんッ!」

 地の底から震える声で玄之丞げんのすけが吠える。びりびりした響きが寝殿しんでんを揺らし、千代は慌てて両耳を塞いだ。文字屋とめぐみだけが平然な顔をしていて、吠えた玄之丞げんのすけもすぐに落ち着きを取り戻したようだった。

「父上と母上はしばらくここで生活してください。鈿女うずめの虚言を信じている素振りをしてください。また鈿女うずめの前で、朝の文箱ふみばこを必ず部屋に持ち込んでください。返歌を書く必要はありませんが、光っているふみだけは回収してください。その文が鈿女うずめの文です。俺の天狐試験が終わるまで、同じことを繰り返してください。その後は光る金魚作戦で一気に岩戸屋いわとを開かせます。ご覚悟を、父上」

鈿女うずめの正体について何か分かったのか」

「日本神話の神が天狐界てんこかいで現存している可能性は至極低いです。名前を借りた別人として扱っていいでしょう。鈿女うずめには俺が接近します。危ない手段は使いませんのでご安心を」

 それでは、と文字屋が言い、両親に頭を下げてから退室する。千代も慌てて頭を下げ、文字屋の後を追う。
 北対きたのたいへ向かいながら、文字屋が千代に向かって一言発した。

「千代。俺とふみのやりとりをしよう」

「別にかまわないけれど……文って何を書くの?」

「和歌だ。そうだな、設定はこんな感じにしよう。西対にしのたいに住まう姫君に、俺が一目惚れをし、どうにか彼女を自分のものにしたいと思う。それで文のやりとりが始まるんだ。毎朝きちんとやりとりが続く俺達を見て、鈿女うずめは疑問に思うに違いない。そこで俺が光る金魚で使ったものを売りつける。その後は父上に話した通りだ。ちょうど借りてきた古今和歌集こきんわかしゅう万葉集まんようしゅうがある。読み方を教えるから、頑張って返事を書いてく……千代?」

 首から耳筋まで真っ赤になった千代を見て、文字屋が疑問符を掲げる。パタパタと手で自分を仰ぎつつ、千代が小さな声で言った。

西対にしのたいに住まう姫君って……わたしのことでしょうか、コハク君」

「……せ、設定だ、設定」

「設定にしてはやけにリアルな設定でしたけど?」

 今度は文字屋が頬を赤く染める番だった。ふふーんと機嫌よく鼻歌を歌いだした千代を見て、文字屋はどくどくうるさい胸に手を当て、深呼吸を繰り返した。
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