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五話・紫藤誠

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「言うを成す。紫藤誠しどうまことはこの近くにいる……気付けよ俺。奴を感じるんだ」

 空に浮かぶ満月のみが唯一の明かりでしか無い暗闇の中を朱蓮は歩いていた。周囲の空気の冷たさは肺と肌を突き刺すような痛みを与えてくる。ふと、目の前の闇がスポットライトを当てられたように明るくなった。目を細める朱蓮は探していた男を見つけた。

「僕様をそんなに思ってくれるなんて、恐悦至極だねぇ」

 まばゆい光で照らされ、やや高台となるその場所には、深海のような青い髪の黒い軍服を着た眼帯の男が現れた。男の背は高く、腰には青い鞘の刀がベルトにさされており、眼帯の無い右の青い瞳はまるで笑っていない。その場の空気を一変させる不気味さを感じざるを得ないほどの異質な男は、長いブーツを履いた足を一歩前に出し、ペロリと薄い下唇を舐めた。
 冷や汗が流れる朱蓮は刀の鯉口を切りながら口を開く。

「紫藤……誠」

「久しぶりだね朱蓮。五体満足で何よりだ」

「お前の後ろの人間達は五体満足じゃねーようだが、殺したのか?」

 紫藤誠の背後には、真っ赤なペンキを浴びせたような死体の山が積み重なっていた。その腕や足の無い死体の全てはギョロリと朱蓮の方を向いた。アッハハッと笑う紫藤は答えた。

「チリホコリが人間様の形をして喋っていたら、不快さの千手観音さ」

「だからお前は平然と人を殺す。相変わらずお前はお前らしいよ紫藤誠」

「なら君も君らしくいろよ卵海朱蓮。弱肉強食の血溜まりこそが、君の生まれ故郷だろう?」

 すると、朱蓮は目の前の紫藤を見失った。抜刀して周囲を見るが、どこにも見当たらない。ふと、何か生温い感覚が腹部から溢れているのを感じる。

「……!」

「気が付くのが遅いよ朱蓮」

 背後から刀で刺されているのを紫藤の言葉で知った。下腹部から血が溢れ出し、足元は血溜まりとなる。手に持つ刀を落とし、朱蓮は引きずりこまれるような血溜まりから抜け出そうとするが、血溜まりの中に見える死者はそれを許さない。

「ぐっ! のおっ! 離せ! 俺はまだ死んでねぇぞ! 俺は血溜まりじゃねーんだ! 俺は――」

「この血溜まりは君自身だ。さぁ、この血溜まりこそが快楽と自由がある世界。戻っておいでぇ……僕様の卵海朱蓮……」

 悪魔のような紫藤の声と共に、朱蓮は血溜まりの底なし沼に引きずり込まれて行く。腰から下は亡者に掴まれていて、もがけばもがくほど血溜まりへ堕ちて行くのみだ。笑っている紫藤は青い瞳で朱蓮の堕ちる様を見続けている。

「ふざけんな! 俺はもう血溜まりには帰らねー! 俺は侍の卵海朱蓮だ……俺は……俺はぁ!」

 その叫び声も虚しく、胸元から一気に首まで血溜まりに沈んだ。もう血溜まりから逃れられる術は無く、亡者共を受け入れざるを得ない状況だった。歯ぎしりする朱蓮は最後まで抵抗を続けた。

「うっ……うおおっ……うおおおおおおっ――」

 そして、完全に血溜まりの中に身も心も沈んだ――。





「――! ……寝小便か」

 今まで見ていたのは夢だった。
 今は自宅である江戸長屋だったので安心する。
 頭をかきながら朱蓮はパンツだけで済んだ洪水の処理をする為に起き上がる。和服を着ているが今は文明開化の為、褌ではなくパンツを履いていた。その寝小便をしたパンツを履き変えて手洗いしていると、幕府警察の縦野幸輝が現れた。寝小便をしたパンツを干してから幸輝と話す。

「こんな朝早くからどうした幸輝? 特別ボーナスでもくれるのか?」

「ボーナスもボーナスさ」

 と、出されたぬるい茶を飲みながら答える幸輝の顔は硬い。それでだいたいの内容を察した朱蓮も茶を飲んだ。そして、ある男の名前を切り出された。

「どうやら紫藤誠が江戸に現れたようだ」

「だろうな」

「……!? 知っていたのか?」

「夢に出てきた」

「夢……か」

 驚きから溜息に変わる幸輝は続ける。

「奴は楽市楽座のレアな物を持っている商人から交渉で獲物をゲットしてるようだよ。だからこそ、我々警察の警戒網にも引っかからなかった。あの男が関われば、必ず人が死ぬという観点から調べていたのがアダになったね」

「紫藤誠も闇から出て表の世界で名が売れて来てるから、イメチェンしたんだろう。物のコレクターは相手と交渉する時は、信用第一だからな」

「そうだとして、今後は警察としても表で生きられても困るから始末が最優先だ。卵海朱蓮の任務は変更無く、紫藤誠の抹殺でお願いするよ」

「あぁ、当然だ。奴がいちゃ、お天道様も次第に登らなくなるぜ」

「後、いい加減刀は帯びた方がいい。でないと死ぬよ?」

「いや、俺は丸腰でいい。必要なら使うさ」

「刀を持つのが怖いのかい? それともあの女の件か? 君は自分のコントロールが未だに――」

「黙ってろ」

 幸輝の刀はいつの間にか朱蓮に抜かれていて、その切っ先は幸輝の首筋にあった。一瞬、両目が紅くなったのを幸輝は見逃さなかった。

「いい殺意だ。そして、それを抑えている事も出来ている。大丈夫だよ。君は卵海朱蓮だ。安心していい」

 刀を床に置く朱蓮は血を求める自分を抑えようとしている。それを見た幸輝は、

「それに、夢の中の紫藤誠に驚いて寝小便垂れるなんて、朱蓮も人間らしいじゃないか」

「黙ってろ。寝小便は朝からお前が訪ねて来たからだ幸輝」

「それは結構、結構。刀は渡したから鞘も置いておくよ。じゃあ、一緒に鬼退治と行こうじゃないか」

「お――うっ!」

 突如迫る唇を朱蓮は必死に回避した。
 そして、手を振って去る危険な男にぼやいてしまう。

「あの野郎……俺を殺すつもりか?」

 寒気がした朱蓮は顔を洗い、置いていった幸輝の刀を腰に帯びて町へ出た。
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