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鬼の巻 上
野盗ども闇に紛れること
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外道丸と邪道丸は馬の背にある。
足が太く、尻が大きい。馬高は人の胸元ほどであるが、力が強く小回りも利き動きも速い。
心地よい風の中、外道丸は吉野川を下っていた。
「忌部の者どもに感つかれりゃせんかのう外道丸?」
邪道丸の声にはピリピリと緊張したものがこもっていた。流石に忌部氏の本拠地近くで仕事をすることには危険が大きい。
「田吉の話では、忌部の侍どもはいま市の差配で名方に出張っておるさ」
邪道丸はそういうと吉野川を見渡し、瓢に口を付けた。中身は当然酒である。
「麻植なら安全と気の緩みがあろう。そこが狙いよ。忌部の者どもいまは都から淡路に気が向いておる」
「なるほどな。西から来る品を頂戴するということか」
外道丸は振り向くと意味ありげな笑みを浮かべた。田吉の調べは逐一外道丸に届いていた。
鬼畜丸が馬の鼻を引いて山手から姿を現した。
「いた。この先の社に集まっておる」
二人はその声に頷く。田吉の調べに嘘はなかった。
「人数は?」
邪道丸の問に鬼畜丸は表情を変えずに答えた。
「忌部の守りは二十人ほどか。物はかなり持ち込まれておる。それに奴と遊女がおる」
邪道丸の表情が少し歪んだ。
遊女。芸と身体を売る彼女らは品物としての価値が低い。奪ったところで始末に困るのである。殺してしまうのも気が引けるため、どうにも困ったことになるのであった。
「面倒だな」
「攫ったところで銭にもならん」
鬼畜丸の言葉に邪道丸が頷く。
「捨て置いたらいい。仕事の邪魔にもならんさ。女どもは勝手自由でかまわん」
外道丸はそう呟くと瓢に口を付けた。この場に来るまでひたすら飲み続けている。しかし酔った風には全く見えない。
水のように酒を飲み。少しも変化がなかった。二人が呆れたように外道丸のほうをみやる。
「勝手自由か。それはよいな」
鬼畜丸がいやらしく笑う。
この鬼畜丸、生来から歪んだ性癖を持っている。腐り切った精神がその顔に浮かび上がっていた。
「深入りはするなよ。あくまでも銭が優先。各々忘れなきよう」
邪道丸が真面目腐って釘をさす。外道丸はその真面目さを声に出して笑った。
「日が落ちたらまたここへ。葦方士へ繋いでおけ。童なら怪しまれん」
外道丸が小さくない声で皆に命を飛ばし馬の向きを変える。邪道丸がその後に続いていく。
鬼畜丸は馬を降り高台のほうへと向かった。
◇
牛市を目指し、伊予・土佐方面からの商人は吉野川のほとりにある社に荷車をとめていた。
綿、塩、酒、干物などだけでなく、中には絹反物まで乗せられている。牛市とは農耕・生活に必要な労働力である牛馬だけでなく。そこに集う者たちに商売をする場なのである。
物と人が集まる場所には、芸と身体を売る者もまた集まる。それは古来より世の常であった。本来は宿場などに集まり芸を売る彼女らを商人たちはわざわざ呼び寄せて、その芸と身体を楽しんでいる。
四人の初老の男が社の縁側に座り、酒を口に運んでいた。その間に狩衣姿の男が一人座している。五人の前では遊女が舞っている。どの顔も幼い。白粉を塗った顔は暗がりでもわかる。
商人どもは卑猥な視線を女にむけている。どの商人も今夜の床をどの娘にするか考えている。
侍が一人、酒も飲まず周りに気を張っていた。
侍の名は兎追という。馬之助の配下であった。兎追はこの時、配下の者を二十人、社に配置しその内十人ほどを外に出していた。
商人共が阿波に入ってからの二日、毎晩こうして警護をしているのであった。
「お侍。一献どうでしょう?」
「いや。結構、わしはそなた方の警護のために命を受けておりますゆえ。酒を飲むわけにはなりません」
兎追の言葉に商人は作り笑いを返した。
兎追はどこか釈然としない。商人どもの泰然とした風に違和感があった。兎追の知る商人というのは、もう少し下世話で欲深い目をしているものである。
しかし都から牛市の手配をしているという若い商人の招きで、阿波に赴いた彼らはそういうところが見られない。それは欲と業が深すぎて、兎追には得体のしれないものと受け止めるしか方が無かったのである。
「お堅いお侍でございますな」
「青豆翁。無理強いなさいなさるな」
「さよう。さよう。酒の飲めぬ侍がいてもよいではございませぬか」
はっきりと兎追に聞こえるような揶揄いの声。不機嫌さを隠し、兎追は塀のほうへ顔を向けていた。
風の匂いが変わった。
兎追が首を入口から社の裏手へと向ける。社の裏には山が連なっている。
「来る!皆の衆、裏手だ!」
兎追の声が闇夜に通る。その声に社の境内控えた侍どもが振りかえる。商人が集まる衆参殿の前を忙しなく通り過ぎていく。
その侍の列から一人、兎追の前に残る者があった。兎追に初老の侍が声をかけた
「兎!裏手か?」
「爺様!裏手の備えは?」
一拍おき、初老の侍が応えた。息が上がっている。
「五人。先ほど交代したばかりだ」
兎追と老侍の会話の間に山吹色の水干を着た小太りの男が割って入り、商人の一人に近づいた。
かなり焦った様子で耳打ちする。眉毛の太い商人の顔色が変わっていく。
「蚕豆翁?いかがした?」
「品物が逃げた!手引きした者がおる!」
蚕豆と呼ばれた商人は立ち上がる。足が短く背も低い。顔色が悪く、だらしない腹をしていた。その蚕豆翁が、弛んだ顎の肉を震わせている。顔が険しいものに変わっていた。
「奴ども全部か?」
蚕豆は頷く。
奴。奴婢とも言われる奴隷身分の者達である。蚕豆は奴を売る人売りを生業としていた。
大墓公の反乱以来、日ノ本の服わぬ者達を奴として売る商人は後を絶たない。大和の公家にとって奴は、荘園経営に欠かせぬ労働力となっていた。
馬之助は商人たちの焦りを察したが、冷静に行動に移った。まずは彼らと、彼らの売り物の安全を守らなければならない。
「爺様、商人殿達を奥に。火までは放つまい。半数はここに残れ。後はわしに続け。裏手に回って賊を探す!」
侍たちは兎追の命に頷く。しかし状況は兎追たち侍を待ってはくれなかった。
「兎追殿!奴どもが売り物を!それに徒歩どもが応じている!」
「なに!徒歩だと!」
兎追はしてやられていた。
最初から徒歩の中に賊がまぎれていたのであろう。奴を解き放ち、散り散りに逃げれば全員を追いかけるのは至難であった。賊は全てを盗む必要はない。一番大きな荷車でも持っていけば用は足りる。足もつきにくい上に探索する側にとっては厄介この上ない様になっていた。
侍の混乱は、商人たちをさらに狼狽えさせた。瞬く間に社は混乱の坩堝と化して、一体どれが賊かも判断がつかなくなっている。その上闇夜が逃げた者達を守っている。
侍どもの静止の声。一方に集まっていたのも都合が悪かった。喧騒が社を包み。商人の雇った者どもが右往左往して収集がつかない。人の行きかう社の庭を、兎追と老侍が鬼のような面構えで睨んでいた。
◇◆
本殿の屋根の上に影が一つ。混乱する社の庭を見下ろしている。
暗闇を月光が照らし、男の顔がうっすらと浮き上がる。能面のような表情のない顔。修験者の姿をした男は、外道丸の一味の一人、葦方士であった。
葦方士が満足そうに頷く。初めてその表情に変化が現れる。葦方士の口から見た目からは想像もできないほど高く柔らかい声が発せられた。
「着ておいでか」
社の光背は山の影になり暗闇が迫っている。ほとんど何も見えない闇から、うっすらと人影が浮かび上がる。
青い袖が見えてくる。水干姿の若い男。顔は女と見間違うほど美しく艶があった。
葦方士の背後に立ったのは恵比須丸であった。葦方士はわずかに身を開いた。恵比須丸は横に並ぶ。
「彼が?」
「そうですね。方々彷徨っておったようですが、ようやく見つけました」
暗闇の中、境内から荷車を押して抜け出す影を追っている。混乱の中そこだけ運び出す物の量が多い。
「やりますなぁ。忌部の侍を相手に」
葦方士が小さく頷く。
恵比須丸が少し身をよじり、肩を廻した。おもむろに顔面に手を当てる。音を立てて皮膚を剥いでみせた。
恵比須丸の顔の下から、雅な風雅を漂わせた男の顔が現れる。切れ長の瞳、瓜実顔で色は白い。
男は傀儡の翁から瘤を引きちぎった主上であった。水干姿の時も美男子であったが、皮一枚剥ぐと、色香のようなものが薄れている。
葦方士が柔らかな顔を作る。元々作り物のような顔に浮かぶ表情には、違和感しかない。
「首尾は上々なようで。おっと、いかがお呼びいたそうか?」
葦方士の声色が変わっている。女のようなわずかに高い声。顔と声があっていない。
「今は恵比須丸ですよ。尊師水脈」
葦方士、いや水脈と呼ばれた男はクツクツと声に出さずに笑って見せた。
「貴方もお忙しいことだ。そのような身になり、誰にも遅れは取らぬほどの法力を得なければ、望みがかなわぬというのも難儀なこと」
恵比須丸の顔は変わらない。にこやかに笑みを浮かべている。
その恵比須丸の背後の闇が、奇妙に蠢く。黒い靄が二人の足元まで広がってきていた。
「これは、これは。随分な歓迎ですなぁ」
恵比須丸は、足元に広がってくる靄を手に持った扇子で払う。靄が一度闇に戻ったようになった。
その靄が固まりになり、形を作っていく。
犬であった。
黒い犬。目が異様に赤く、牙を恵比須丸に向けている。口元も赤く血が流れているようであった。
恵比須丸はその犬のほうに体を向ける。犬は叫んではいなかったが、威嚇するように低く唸っていた。
「犬か。黒麻呂殿も人が悪い」
葦方士が黒犬に近づく。犬は一歩一歩後ろに下がりながら威嚇をやめなかった。
「犬蟲のごとき式で我らを見張ろうなどと、やはり鄙びた田舎者よのぅ」
葦方士の持つ錫杖が横に払われる。犬は逃げる間もなく首を落とされた。
首から下が切り離されるが、首だけになりながらも恵比須丸を睨んでいる。切り離された胴の部分が闇に消えた。
葦方士が犬の首を恵比須丸に放り投げた。恵比須丸は、その首を掴み顔の前に掲げる。
恵比須丸が犬の口に唇を当て、強く吸い付く。犬顔が小さくなり、恵比須丸に吸われた。骨を砕く音も何もない。霞を喰うように犬は消えてしまう。
恵比須丸の口元から黒い煙があがり、目が赤くなる。わずかに犬歯が伸びていた。
葦方士は恐ろし気な恵比須丸の変化を見つめていた。
「あの田舎者。いらぬ詮索できぬ様にしてやらねばならぬなぁ。恵比須丸殿」
声をかけられた恵比須丸は目こそまだ赤いままであったが、普段と変わりが無くなっていた。黒い靄も口の周りについていない。
「賢しいことでございます尊師。この程度の法力で予に探りを入れようとは」
恵比須丸は笑って応えた。その顔が何と言えぬほどに艶やかで、それでいて恐ろしい。闇夜にその笑い声が響きわたり、社にいる幾人かが、濃紺の空を見上げた。
足が太く、尻が大きい。馬高は人の胸元ほどであるが、力が強く小回りも利き動きも速い。
心地よい風の中、外道丸は吉野川を下っていた。
「忌部の者どもに感つかれりゃせんかのう外道丸?」
邪道丸の声にはピリピリと緊張したものがこもっていた。流石に忌部氏の本拠地近くで仕事をすることには危険が大きい。
「田吉の話では、忌部の侍どもはいま市の差配で名方に出張っておるさ」
邪道丸はそういうと吉野川を見渡し、瓢に口を付けた。中身は当然酒である。
「麻植なら安全と気の緩みがあろう。そこが狙いよ。忌部の者どもいまは都から淡路に気が向いておる」
「なるほどな。西から来る品を頂戴するということか」
外道丸は振り向くと意味ありげな笑みを浮かべた。田吉の調べは逐一外道丸に届いていた。
鬼畜丸が馬の鼻を引いて山手から姿を現した。
「いた。この先の社に集まっておる」
二人はその声に頷く。田吉の調べに嘘はなかった。
「人数は?」
邪道丸の問に鬼畜丸は表情を変えずに答えた。
「忌部の守りは二十人ほどか。物はかなり持ち込まれておる。それに奴と遊女がおる」
邪道丸の表情が少し歪んだ。
遊女。芸と身体を売る彼女らは品物としての価値が低い。奪ったところで始末に困るのである。殺してしまうのも気が引けるため、どうにも困ったことになるのであった。
「面倒だな」
「攫ったところで銭にもならん」
鬼畜丸の言葉に邪道丸が頷く。
「捨て置いたらいい。仕事の邪魔にもならんさ。女どもは勝手自由でかまわん」
外道丸はそう呟くと瓢に口を付けた。この場に来るまでひたすら飲み続けている。しかし酔った風には全く見えない。
水のように酒を飲み。少しも変化がなかった。二人が呆れたように外道丸のほうをみやる。
「勝手自由か。それはよいな」
鬼畜丸がいやらしく笑う。
この鬼畜丸、生来から歪んだ性癖を持っている。腐り切った精神がその顔に浮かび上がっていた。
「深入りはするなよ。あくまでも銭が優先。各々忘れなきよう」
邪道丸が真面目腐って釘をさす。外道丸はその真面目さを声に出して笑った。
「日が落ちたらまたここへ。葦方士へ繋いでおけ。童なら怪しまれん」
外道丸が小さくない声で皆に命を飛ばし馬の向きを変える。邪道丸がその後に続いていく。
鬼畜丸は馬を降り高台のほうへと向かった。
◇
牛市を目指し、伊予・土佐方面からの商人は吉野川のほとりにある社に荷車をとめていた。
綿、塩、酒、干物などだけでなく、中には絹反物まで乗せられている。牛市とは農耕・生活に必要な労働力である牛馬だけでなく。そこに集う者たちに商売をする場なのである。
物と人が集まる場所には、芸と身体を売る者もまた集まる。それは古来より世の常であった。本来は宿場などに集まり芸を売る彼女らを商人たちはわざわざ呼び寄せて、その芸と身体を楽しんでいる。
四人の初老の男が社の縁側に座り、酒を口に運んでいた。その間に狩衣姿の男が一人座している。五人の前では遊女が舞っている。どの顔も幼い。白粉を塗った顔は暗がりでもわかる。
商人どもは卑猥な視線を女にむけている。どの商人も今夜の床をどの娘にするか考えている。
侍が一人、酒も飲まず周りに気を張っていた。
侍の名は兎追という。馬之助の配下であった。兎追はこの時、配下の者を二十人、社に配置しその内十人ほどを外に出していた。
商人共が阿波に入ってからの二日、毎晩こうして警護をしているのであった。
「お侍。一献どうでしょう?」
「いや。結構、わしはそなた方の警護のために命を受けておりますゆえ。酒を飲むわけにはなりません」
兎追の言葉に商人は作り笑いを返した。
兎追はどこか釈然としない。商人どもの泰然とした風に違和感があった。兎追の知る商人というのは、もう少し下世話で欲深い目をしているものである。
しかし都から牛市の手配をしているという若い商人の招きで、阿波に赴いた彼らはそういうところが見られない。それは欲と業が深すぎて、兎追には得体のしれないものと受け止めるしか方が無かったのである。
「お堅いお侍でございますな」
「青豆翁。無理強いなさいなさるな」
「さよう。さよう。酒の飲めぬ侍がいてもよいではございませぬか」
はっきりと兎追に聞こえるような揶揄いの声。不機嫌さを隠し、兎追は塀のほうへ顔を向けていた。
風の匂いが変わった。
兎追が首を入口から社の裏手へと向ける。社の裏には山が連なっている。
「来る!皆の衆、裏手だ!」
兎追の声が闇夜に通る。その声に社の境内控えた侍どもが振りかえる。商人が集まる衆参殿の前を忙しなく通り過ぎていく。
その侍の列から一人、兎追の前に残る者があった。兎追に初老の侍が声をかけた
「兎!裏手か?」
「爺様!裏手の備えは?」
一拍おき、初老の侍が応えた。息が上がっている。
「五人。先ほど交代したばかりだ」
兎追と老侍の会話の間に山吹色の水干を着た小太りの男が割って入り、商人の一人に近づいた。
かなり焦った様子で耳打ちする。眉毛の太い商人の顔色が変わっていく。
「蚕豆翁?いかがした?」
「品物が逃げた!手引きした者がおる!」
蚕豆と呼ばれた商人は立ち上がる。足が短く背も低い。顔色が悪く、だらしない腹をしていた。その蚕豆翁が、弛んだ顎の肉を震わせている。顔が険しいものに変わっていた。
「奴ども全部か?」
蚕豆は頷く。
奴。奴婢とも言われる奴隷身分の者達である。蚕豆は奴を売る人売りを生業としていた。
大墓公の反乱以来、日ノ本の服わぬ者達を奴として売る商人は後を絶たない。大和の公家にとって奴は、荘園経営に欠かせぬ労働力となっていた。
馬之助は商人たちの焦りを察したが、冷静に行動に移った。まずは彼らと、彼らの売り物の安全を守らなければならない。
「爺様、商人殿達を奥に。火までは放つまい。半数はここに残れ。後はわしに続け。裏手に回って賊を探す!」
侍たちは兎追の命に頷く。しかし状況は兎追たち侍を待ってはくれなかった。
「兎追殿!奴どもが売り物を!それに徒歩どもが応じている!」
「なに!徒歩だと!」
兎追はしてやられていた。
最初から徒歩の中に賊がまぎれていたのであろう。奴を解き放ち、散り散りに逃げれば全員を追いかけるのは至難であった。賊は全てを盗む必要はない。一番大きな荷車でも持っていけば用は足りる。足もつきにくい上に探索する側にとっては厄介この上ない様になっていた。
侍の混乱は、商人たちをさらに狼狽えさせた。瞬く間に社は混乱の坩堝と化して、一体どれが賊かも判断がつかなくなっている。その上闇夜が逃げた者達を守っている。
侍どもの静止の声。一方に集まっていたのも都合が悪かった。喧騒が社を包み。商人の雇った者どもが右往左往して収集がつかない。人の行きかう社の庭を、兎追と老侍が鬼のような面構えで睨んでいた。
◇◆
本殿の屋根の上に影が一つ。混乱する社の庭を見下ろしている。
暗闇を月光が照らし、男の顔がうっすらと浮き上がる。能面のような表情のない顔。修験者の姿をした男は、外道丸の一味の一人、葦方士であった。
葦方士が満足そうに頷く。初めてその表情に変化が現れる。葦方士の口から見た目からは想像もできないほど高く柔らかい声が発せられた。
「着ておいでか」
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「彼が?」
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「やりますなぁ。忌部の侍を相手に」
葦方士が小さく頷く。
恵比須丸が少し身をよじり、肩を廻した。おもむろに顔面に手を当てる。音を立てて皮膚を剥いでみせた。
恵比須丸の顔の下から、雅な風雅を漂わせた男の顔が現れる。切れ長の瞳、瓜実顔で色は白い。
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犬であった。
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葦方士が犬の首を恵比須丸に放り投げた。恵比須丸は、その首を掴み顔の前に掲げる。
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癒やしの薬膳、そして人情の機微も鮮やかに、『この五感が、江戸を変える』
――新感覚時代ミステリー開幕!
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