年代記『中つ国の四つの宝玉にまつわる物語』

天愚巽五

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第二夜

年代記『五公国記 盆地の王と獅子の歌姫』

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 どんよりと鉛色の空は今にも雨が降り出しそうであった。紅の月に雨が降ることは、ウル・アリーシャでは珍しい。まるでメルシゴナ氏族を弔うかのように空は悲し気な色を隠していなかった。
 丸めた頭を撫でながら久しぶりに外にでたカズンズ・コルピンは下層から中層へと向かっている。下層では勝利に沸くマッシュハガの若い兵士たちが兵装も解かぬまま李の酒を煽っていた。カズンズの横にあらんで歩く背の高い青年。ユーラ・アボットが視線だけをそちらへ向ける。

「どうすんだ? 神官様の呼び出しなんだろ?」

 パリス宗主カシアス・セリウィスの不興を買ったカズンズは無期限の兵役刑を申し付けられている。通常二年のものが、カシアスの許しがあるまで戻ることはできない。そしてパリスに入城する際には履物を禁止されている。今もカズンズは素足のまま乾いた土の上を歩いていた。
 カズンズはパミルタスに説教されるものと思い込んでいる。数日後パリスを出されると聞いて、パミルタスから呼び出しを受けていたが、外出を禁じられていることを理由にダラダラと引き延ばしていたのである。外出が開けても足が向かずにいたが、もうすぐ兵役に出ると決まっている身の上である。挨拶がてら呼び出しを受ける気になったのであった。
 ユーラはカズンズが渋っているのを感づいていた。嫌なことがあると石のようになり行動しない義兄弟のことをよくわかっていたのである。タイロンに面会することも許されるわけもなく。二人は手持無沙汰のまま戦をおこなっていたパリスに取り残されていたのであった。

 下層に一度向かったのにはコルピン家の兵が戻ってきていたため、シャルキンの出迎えのつもりで降りたのである。しかしシャルキンとゴルヴィの部隊はまだ戻ってきていなかった。
 肩透かしを食らったままわずかばかりに活気が戻った市場を物色し、思いったったように神殿に向かっていたのであるが、やはり足どりはどこか重たかった。

「神官様怒っとるんだろうなぁ」
「そうでもないかもしれんだろ。兵役刑なんかくらったやつに慰めの言葉でもかけてくれるかも」
「慰められてもなぁ」

 カズンズに後悔も反省もない。パリスに対する忠誠心にわずかばかり翳りが出来たくらいである。タイロンの命をいたずらに奪おうとしたカシアスという男に忠節を尽くす意味を見出せずにいる。
 逆説的で結果論になるが、兵役刑になったカズンズは幸福であった。パリスに対する忠誠心も宗家に対する忠義も薄くなった状態でパリスにいることの居心地の悪さを感じなくて済むのである。今カズンズの中にあるパリスに対する義理はタイロンの助命に尽力したパミルタス神官にわずかばかり残っているだけであった。

「ええい! ユーラ、行こう。 いつまでも呼び出しに顔出さんわけにはいかない」
「そりゃお前の考え次第じゃねえか」

 丸く刈り込まれた頭を撫でまわしカズンズは困惑した表情のまま中央広場から神殿へと続く坂道を登っていく。ユーラは険しい顔で横に並んでいた。メルシゴナ氏族の居住区は静まり返っている。メルシゴナ家だけが取り潰され他の家は身の振り方を迫られている。ほとんどがコルピン家に属する旨を申し出ているらしいが、中にはパリスから出て元の邑へと戻ることを決めた家もあった。

 二人の前に数人の影が立ちはだかっている。コルピン家の兵士も若者たちも今は軍から解放されて家族と共に過ごしている。治安維持のために駆り出されているのはマッシュハガ兵の予備役とパリス守備に就いていた兵士たちであった。
 兵装ではないが手には武器を携帯している。二人の行く手を阻んでいるのはバルツたちバータの取り巻きの四人であった。

「おうおう。宗主に盾突いたどっかの馬鹿がいるぞ」

 バルツの言葉に取り巻き共はいらしい笑みを浮かべている。バータも四人組も戦場にはいかずパリスの守備に回されていたはずであった。

「おい非国民。無視すんなよ」
「あんたらに用がないだけだ。いちいち絡んでくるなよ。俺は明日にゃパリス離れるんだ」

 ヘラヘラと笑いながらバータが支給される刀をカズンズに向ける。

「お前が指図をするな。俺たちはパリスのために戦ったマッシュハガの正規兵だ。お前は兵役刑にかけられた下等兵。立場が違うんだよ」

 初陣がパリス守備に回されたとはいえ確かにバータたちは正規兵となった。パリス市民としての義務を果たしこれからもそれを続けていくことになる。立場は強化され参政権も得ることとなる。兵役刑に処せられたカズンズはパリスの参政権は帰参を認められるまでは持てない上に正規の兵士として認められることもないのである。

「わかったわかった。パリスのために努めてくれ。明日になったらあんたらの前からいなくなるんだ気にかけてくれるな」
「いいや駄目だな。そうはいかねぇんだよ」

 バルツが近づき、カズンズの襟首をつかむ。

「メルシゴナの奴隷女、お前らあいつがどこに逃げたか知ってんだろ?」

 身の覚えはあったが、二人とも表情を変えない。しかしバルツの言葉に二人とも何が起きようとしていたのかを理解していた。

「知らん。誰のことだ?」
「ケイラだよ。あいつをうちのバータさんが買う予定だったのに昨晩逃げ出したってんだ。お前らしかいねぇだろ手助けするやつ何て。あの奴隷はあの手無しの奴隷の姉貴だからな」

 問い詰めるバルツの言葉。棘も隠していない。不愉快極まりない物言いにカズンズが冷たく返そうとすると、ユーラが襟首をつかむバルツの手首を握りる。

「兄弟は外出禁止、俺はそれに付き合ってた。そんな状況で何が出来るんだ?そもそもあんたらの身内が四六時中兄弟を監視してたぞ? そっちに聞いてみたらいい」

 骨の軋む音が微かにする。ギリギリと握られバルツは指を痙攣させながら離す。恐ろしいまでの握力に涙目になりながらユーラのほうを見る。

「は…離せ」
「二度は言わない。あんたらの身内に聞いてみたらいい。兄弟はダルダンの処刑の日から一歩も外に出てない。俺にも監視は付いてたはずだ。どういう了見かは知らんが言いがかりをつける前にもう少し調べてからにしろ」

 カズンズがユーラの手を抑える。ユーラはバルツの手を離した。痛みに顔をしかめ膝をつく。骨は折れていないが手の甲が痺れてしばらくは使えないであろう。

「そういうことだ。もういいかバルツさん。神官様に呼ばれてんだ」

 二人はマッシュハガの若者たちを無視して坂を上り始めた。バルツは手首を抑え片膝をついている。青膨れした顔をカズンズの背中に向け呪うような視線を向けていた。

「非国民! よく聞け! 貴様の妹、あれをマッシュハガ家の嫁に取ることになった。マッシュハガ次期当主バータ・マッシュハガの嫁にだ。貴様は俺たちの身内になるんだよ! 俺たちに恥かかせないよう‥‥」

 シエラの輿入れの話はカズンズも聞かされていた。普段感情を表さない兄のデローですら怒りを隠さず、聞かされたシエラは部屋から外に出なくなっている。それでもシャルキンは縁談を進めようと考えているようであった。
 頭ではわかっていたが、面と向かってなじられると、流石に腹の中をどす黒い感情が渦巻いていく。大きく息を吸い込むとカズンズは振り返り、勢いよくバルツの前に立った。

「糞みてぇな顔で、糞みてぇなことほざいてんじゃねぇぞ。二度とそのクセェ口からもの吐けない内容に…」
「そこまでですよ。カズ」

 剣呑とした雰囲気を壊すように穏やかな声がカズンズの背中にかかる。声は柔らかかったがその場を制する力強さがあった。

「肝の小さい男が泣きそうになっているじゃないですか。カズ、あなたにはやることがあるはず。そうでしょう? バルツもマッシュハガの皆もこんなところで油を売っていてよいのですか?」

 二人が後ろを振り返るとそこにはパミルタス神官がゆっくりと近づいてきていた。

「行きなさいバルツ。あなた方も正規のパリス兵となったのであればパリスの命に従う義務がある。そうでしょう?ここで遊んでいる暇はないのですよ。アイザイアがあなた方のことをどう評価するかはあなた方次第ではないですか? カズもユーラも同様です。マッシュハガとコルピンの若い者たちがいがみ合いパリスのためになりますか?」

 パミルタスがいつになく険しい顔をしていることにカズンズ達はばつが悪くなる。バルツ達は悪びれた様子もなく数歩下がると踵を返した。

「非国民。楽しみにしとけよ。次お前がパリスに帰ったころにはお前の妹もお前の…」
「バルツ! 二度は言いませんよ。あなた方はやることがあるはずです!」

 思いのほかパミルタスの声が良く通った。腹に来るほどの声量を受けバルツ達は一瞬固まる。

「早く行きなさい」

 不満そうな顔を隠すこともなくバルツ達一行は坂を降りていく。パミルタスは溜息を吐く。ユーラが旋毛を掻いてその場を誤魔化せないかと思案していた。

「ようやく来ましたね。カズ、あなたに頼みたいことがあって呼び出したのですよ。あなたにもそれほど日が残っていないでしょう?」

 カズンズの表情が驚きに変わっていた。呼び出しの意味を測りかねていたこともあるが、パリスから追い出されることになるカズンズにパミルタスは頼みごとがあるといのである。

「頼み事?この俺にですか?」

 パミルタスは何も言わず神殿へと向かう。二人はその後についていく。ユーラとカズンズは顔を見合わせた。こういう時の神官は人が悪くなることを二人は良く知っている。悪戯好きの悪癖が神官などという身分であるくせに残っているのである。
 
 三人がパーリウィス神殿に入り裸足のカズンズは冷たい石畳に耐えながら奥へと進んでいく。霊安室になっている奥の間へ入る。パリス市民の遺体はすでになくなっていた。

「戦死者の埋葬も終わりました。全く愚かなことをしたものです」

 パミルタスは何もない霊安室に硬そうな木製の椅子を二つ並べた。掌で促され二人は大人しく座る。ひんやりとした霊安室の温度を充分に吸った椅子は頭まで冷気が伝わりそうなほど冷たく感じる。
 二人を置いたままパミルタスは霊安室にある小さな棚にあるパーリウィスの像を動かした。像が動くと後ろの隠し扉が開き中から木箱を取り出してくる。パミルタスは木箱の中身をあさり随分と年季の入ったパーリウィスの小さな銅像を二人の前に置く。 

「今日の午後、タイロンは市奴隷としてモサ銅山に移されることになっています」

 パミルタスの表情からは何も読み取れない。しかし市奴隷の差配は全てマッシュハガの独占になっている。カシアスがそのように取り計らったからであった。ほとんどの情報がアケドナにもコルピンにも伝わってくることがない。それをあえてパミルタスは二人に伝えているのである。
 二人とも神妙な面持ちでパミルタスの言葉に耳を傾けていた。

「これをあなた方に届けてもらいたいのですよ。アイザイア殿にも許可を取っております」
「よいのですか?」
「ええ。彼らも市奴隷を私物化するような真似はできませんから。市奴隷はパリスの資産、違いますか?」

 パミルタスは穏やかな口調でかなり過激なことを言っていた。もしマッシュハガがタイロンとの面会を拒否するのであれば、パリス資産の私物化を訴えろとけしかけている。

「あなた方にしか頼めませんよ。タイロン・ザウストラにパーリウィスの加護があることを願ってのことです。それにカズ、あなたも明日には都市を離れるのでしょう? 今しか渡せる機会はないんですよ」

 パミルタスはわざと言葉を飲み込んだ。今生の別れになるかもしれないと言うわけにはならない。義兄弟がそう考えていない以上パミルタスの口から不吉なことを言葉にするべきではなかった。

 カズンズがおもむろに銅像を掴む。かなり小さく首から下げれるようになっている。一つも値打ちがありそうに見えなかった。

「わかりました。確かにテルベ…いやタイロンの兄弟に渡します」
「ありがとうカズ。あなたもこれから先苦労があるかもしれませんが、決して世をすねたり諦めたりしてはなりませんよ」

 説教臭い言葉にカズンズは頭を掻い手誤魔化した。嫌気がさしてきていたことを神官に見抜かれていたことが照れくさくなったのであった。
 ユーラはその横で少し怖い顔になっていた。唐突に木印を差し出す。

「マッシュハガ兵がゾルト族の集落を襲撃しました。全員越冬地とは別の場所にいたので何もないことになっていますが、先代宗主と結んだ盟が無くなっちまいました」

 初めてパミルタスが複雑な顔を二人に見せた。木印を手に取る。

「それを持ってる意味が無くなっちまったんで都市に返そうかと思います。宗主はいまさらそんなもんいらんでしょうから神官様にお返ししときますよ」
「ユーラ、これは私が責任をもって預かっておきます。私にはあなたたちの行く末を女神さまに祈ることしかできません」

 随分と無責任な女神さまだなとユーラは邪な考えを抱いている。パミルタスの祈りにどれほどの効果があるのかわからない上にユーラはそれほど女神パーリウィスへの信心があるわけでもない。たいして痒くもない首の後ろをこれ見よがしに引っ掻き回し、場を誤魔化した。

 少年たちは否応が無しに大人になっていく。パリスに見放されたタイロン、パリスに盾突いたカズンズ。そしてパリスを見捨てたユーラ。三人が三人なりに新しい道へと進む。その先に何が待ち受けているかをこの時は誰も想像すらできなかった。




 太陽が頭の上からやや西に向かって落ちている。紅の月になったといはいえ日中に日光があたるとまだ暑さが感じられる。カズンズ・コルピンとユーラ・アボットは下層の市場へと降りてきていた。いつになく忙しなく下層民たちが動き回っているが、それには理由があった。

 パリスで奴隷売買が最後に行われたのは40年以上前だと言われている。市奴隷はいたるところで使役されていたが、これほどの奴隷が集まったことはなかった。奴隷問はいえ数日前までは同じパリス市民として中層で生活していたメルシゴナの女か子供ばかりであった。見知った顔が頭をそり上げられ粗末な麻布のぼろを着せられているのを見ると、流石に二人とも陰鬱な感情に支配されていく。
 二人の顔を幾人もの女子供が見上げていた。どの顔も疲れ果て絶望に打ちひしがれている。

 二人が奴隷を入れている籠馬車の間を歩く。その横で濁声で声を枯らすガラの悪い男たち。中にはマッシュハガの兵士たちも混じっていた。
 左右を眺めタイロンを探す。しかし女子供の奴隷の姿しか見て取れない。

「いないな」
「全員が市奴隷のはずだ。間違いなくここにいるはずなんだがな」

 汗とアドレナリンの臭いが混じり胸焼けを起こしそうな人間の体臭でみちている。市奴隷になったメルシゴナの女子供にはしっかりと『教育』が施されたのであろう。目の光は曇りカズンズを見ているようで見ていなかった。

「若い娘がいない」

 カズンズが小さく頷く。他の都市に売られることはないはずであった。パリスの資産でマッシュハガが私にしてよいものでは無い。勝手に差配をしていること自体が先例のないことである。
 奴隷の間を忙しなく歩き回る男たち。下層民の荷卸し徒歩とその親方衆なのはすぐに分かる。そしてその後ろで武器を携え周りを威嚇しているのはマッシュハガ兵たちばかりであった。

「何しに来た? コルピンの非国民」

 背中からいきなり声をかけられ思わず二人が振り向く。マッシュハガ兵を従え、痩身の青年が一本鞭を握り肩に担ぐようにしている。
 舐るような視線。情の薄い顔。幾度となく因縁をかけられた青年の顔は忘れたくても忘れられなかった。先日の一件以来カズンズは彼に対する礼を取らないことに決めていた。

「バータ。あんたにゃ用はないよ」
「なら帰れよ。ここはマッシュハガの差配だ」

 カズンズはユーラと顔を見合わせた。パミルタスの話に齟齬があったのか、はたまたマッシュハガの嫌がらせかわかりかねる。

「アイザイアには話通してあるんだがな。どこにいる?」

 バータは表情は変わらなかったが、すぐ後ろにいる強面の兵士の方に顔を向けた。まだ若い兵士であったが何事かをバータに耳打ちした。

「アイザイアはいないな野暮用だ。今は俺がここの責任者。お前らに許可は出さない。早く帰れ」
「そうはいかないな。パミルタス神官様からの言付けもあるからな」

 バータは鼻で笑う。
 
「神官様が何と言おうが、俺が許可を出さない。正規の兵士でパリスの市民の俺が言ってるんだ。非国民は黙って従えばいい。わかったらさっさと帰れ」

 後ろに控えた兵士たちはどの顔も殺気を放っていた。本気で排除する気で二人を牽制している。ユーラは溜息をついた。マッシュハガ氏族の傲慢が二人の前に悪意を隠すことなく現れていることに辟易していた。ゾルト族の集落に奇襲をかけたときからユーラの怒りは沸々と煮えて冷めていない。
 若さもあった、我慢もした、ユーラの忍耐はよく耐えていた。しかし目の前にいるマッシュハガのしかも正規の兵として何年も軍役についていたであろう男たちの態度がどうにも我慢ならなかった。

 控えていたマッシュハガの兵は三人。どの顔も二十代中ごろで日に焼けている。若いコルピン氏族の青年に対して侮りがあった。
 その三人の一番後ろの男の背中に冷たい汗が流れ落ちる。草原虎に睨まれたとき、巨大な灰色熊に立ち上がられたとき、ジロンの隊列に向かい合ったとき、彼はそのたびにこの感情に支配されたのを覚えている。彼ははっきりと死を意識しそれに恐怖を覚えていた。

 ユーラが放つ殺意はその場にいたマッシュハガ兵の気を飲み込んでいく。彼らはユーラの全身から黒く不気味な湯気が立ち上っているようにすら見えていた。幾度となく戦場で死線をくぐったであろう兵士たちが恐怖で数歩後退っている。

「き・・・きさ」

 ユーラが一歩進みでた。気圧され一人の兵士が尻もちをつく。それが合図にバータの後ろに控えた兵士たちが一斉に踵を返した。全滅を恐れて散開する敗残兵のように我先に走っていく。バータもまた恐怖を誤魔化し体裁もとりつくろわず兵士たちの尻に向かって同じように走り出した。
 振り向きもせず青い顔をしたまま鞭も放り投げ背中を見せている。

 少し呼吸を荒くしてユーラはマッシュハガ兵の姿が見えなくなるまで睨んでいた。カズンズが肩に手を置く。

「もういいよ兄弟」
「カズンズ。お前の許可があったら全員殴り殺してやってよかった…」
「いこう。テルベを探そう。こんなとこに長くいたくない」

 

 乾いた地面に牢に繋がれていない奴隷が一人地面にへたり込んでいる。随分と老齢に見えた。どうやらメルシゴナの出自ではない市奴隷のようであった。カズンズは奴隷の間にしゃがみ水筒を差し出した。牢奴隷は虚ろな目を上げカズンズの差し出した水筒を見つめている。乾ききった唇は縦に割れ土の色のようになっている。

「飲むか?」

 老奴隷は一度でを合わせると水筒を両手で受け取る。深く頭を下げると地面に額をこすりつけた。いつから奴隷にされているかはわからなかったが、こうして命を繋いできたのであろう。

「じいさん言葉わかるか?」

 奴隷に目の光はない。深く刻まれた皺と白強い斑の頭髪はそれでも短く刈り込まれている。申し訳程度に麻製の腰布を巻いている。奴隷は小さく頷くと、竹筒に口を付けた。何日も水分を取っていなかったかのようにゆっくりと飲み干していく。

「左手の無い若いやつを探してんだ? どこにいるか知らんか?」

 老人は竹筒から口を離すと右手で小さい通路の奥を指さす。

「あっちか?」

 奴隷は首を大きく上下させ少し俯き気味になり疲れたようにうなだれた。水筒を手に持ったまま地面を見つめている。
 二人は老奴隷の様子を見ることもなく指さされた路地へと進んでいった。すぐに右に折れるとその先は中庭のようになっている。かろうじて光が差し込み、そこかしこでへたり込んでいる奴隷たちを照らしていた。
 カズンズたちの手無しの義兄弟はその広場の奥で日陰になっている場所に座り込んでいる。どの奴隷も地面に視線を落としカズンズ達を見ようとしていなかったが、タイロンだけは胡坐をかき顔を真直ぐ上げている。一人だけ目の力が消えていない。
 
 粗末な麻の腰布や頭を刈りこまれた姿は他の奴隷と一緒なのであるが、そこだけ奇妙な生気が漂っていた。タイロンは思いがけず二人の義兄弟が姿を現したことに驚いていた。

「よう。元気そうだな」
 
 タイロンは恥ずかしそうに刈り込まれた坊主頭を摩っている。

「こんなとこまでわざわざ来たんだね」
「あぁ。俺も明日にはパリスを離れるからな」

 タイロンはまぶしそうに二人を見上げた。左手の傷を焼いた火傷の後が生々しい。

「ユーラはどうするの?まだパリスに」

 大柄な青年は首を振った。ユーラはまだ身の振り方を考えていなかった。カズンズとタイロンのいないパリスに未練はない。すぐにでも兵役に出ても良かったがコルピン本家から許しが出ていないのである。
 カズンズはビョークに預けられた羊皮紙を取り出した。

「オグナルさんには届けれそうにない。すまなかった」

 タイロンは少し顔を曇らせたが、首を左右に振る。

「いいよ。そいつは兄弟たちが持っておいてくれ。従兄弟さんか父さんが持って無けりゃあんまり意味がないものだけど、どっちかに会うことがあったら渡してくれたらいい」

 一抹の寂しさが三人の間に流れている。この時タイロンの頼みはかなえられる希望がほとんどなかったのである。それでも約束を守ると誓うのがヴァルドを結んだ間である。

「わかった。必ずわたす」

 カズンズはタイロンの前に膝をついた。

「何もできなかった…俺はあの時…」
「どうしようもできないことは誰にでもあるさ」

 わずかに瞳を湿らせていたカズンズは思い出したように懐をまさぐる。木彫りのパーリウィス像をタイロンに見せる。

「神官様がお前に渡せって、選別だそうだよ」
「はは、こりゃいいや。すごい安っぽいな」
「女神の御加護がありますようにってな。何が御加護だよ。信心なんて糞の役にもたちゃしねぇ」

 カズンズは像をタイロンの首にぶら下げる。奴隷が持ってよい私物などなかったが、パリスは信仰の対象だけは許されていた。パーリウィス像を取り上げるような真似をすれば、パリス守護神への冒涜となりそれはまた違う刑罰の対象となるのであった。パーウィス信仰だけは奴隷も市民も宗家の一族も平等なのである。

「もう行くよ。テルベ」
「あぁ。女神様の御加護が兄弟たちにあらんことを」

 思わず三人は笑い出した。今生の別れとなるかもしれないと覚悟をしていたがそれを口に出す勇気は誰にもない。乾き憂いがこもった笑いが、砂埃舞うパリスに舞い上がって消えいった。



 スカージ歴776年紅の月の中ごろ。正確な日時は今もってわかっていない。このころカズンズ・コルピンがメルシゴナ氏族の反乱に関して連座があり1年の兵役刑を受けたとされている。カズンズのパリス時代を歴史書は多くを語っていない。連座刑の兵役は足かけ3年におよび、その間カズンズのパリス帰還は許されることが無かった。
 パリスから放逐させられた格好のカズンズは果たして不幸であったかと言われるとどう評価してよいかわからない。少なくともマッシュハガ家の専横とオルギンの介入による腐敗と堕落を見ることはなかった。残されたユーラ・アボットが一年とわずかの間にパリスで見せられた腐敗臭漂う人間の欲に愛想をつかし、戦場を求めたことに比べるとまだましなのではないかと思える。
 タイロン・メルシゴナ。またはタイロン・ザウストラと呼ばれた少年の名は歴史上から消え去ってしまう。カズンズの列伝に残された義兄弟は歴史から消されたのか、名を変えたのかは歴史書は語らない。後年カズンズとユーラが仕えることになった公主の左手の拳が欠損していたという事だけが、史実として残されているのであった。

 
 








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